南太平洋科学風土記(みなみたいへいようかがくふどき)
はしがき 題して南太平洋科學風土記といふが、實は私が報道班員として南太平洋に勤務してゐた時に見聞したあちらの事情を、科學の目を通じて思ひ出すままにくり擴げようといふのである。餘り戰鬪や作戰とは關係のない至極のんびりしたものになるかも知れないが、これは戰鬪報道記ではないのであるから、そのつもりでお讀み捨て願ひたい。 船醉ひ 私たちがいよいよ南方へ下ることとなつて内地の港を出發したのは寒い一月の初めであつた。そこで私たちは二萬數千トンもある大きな船に便乘した。この船はそのトン數から見ても分るやうに非常に大きな船である。丁度盥を海に浮べたやうな恰好で、船足も餘り早くない。その上甲板では、普段なら野球が二組ぐらゐ充分出來るくらゐの廣さのものであつた。 かういふ大きな船に乘つて南へ下つて行くのであるから、われわれ仲間は所謂大船に乘つた氣持になつて、別に大したピッチングやローリングもなく、航海は船醉拔きの至極安全なものであらうと考へてをつた。ところが實際船が港を出て或る海峽を越え、いよいよ太平洋に出たところ、もうそのとたんに仲間の數名はひどい船醉を感じて部屋の中にとぢ籠つたきりとなつた。私は多分その班員たちが出發前に心身ともに大いに疲勞してゐたので、その疲れのせゐで引籠つて居るのだとばかり思つてゐたが、扉を叩いて彼等の枕邊に立つた時、船醉であることを發見して非常に驚いた。なにしろこのやうな大きな船であるから、波が相當荒くても、また大きなうねりがやつて來ても、船はその波の上に乘つて殆んど搖れないで海峽を通り過ぎたので、別に船醉をする餘地がなかつたやうに思ふ。然るにこの仲間たちは確に船醉を催してゐるので、私は船醉の原因がどこにあつたのかと、その意外さに目を見張るばかりであつた。 そこで私は、倒れてゐる仲間と色々話をして見たところ、當人たちは意外にも海峽あたりで相當船が搖れたといひ張るのだつた。しかもまだその前、船が港にゐる間にも、既に少々胸が變になつたといつてゐた。して見るとこの人たちは船に乘つた瞬間に、船がまだ動いてゐないのにも拘らず船に醉つてしまつたらしい。それに引續き船は海峽で少しばかり搖れたので、いよいよ船醉をひどく催したものらしい。私には全く不思議といふ外ない話であつた。 しかしよく考へてみると、船がまだ動いてゐないのにその船に乘つたばかりで船醉を感じたといふ話を、前にも聽いたことがあるのを思出した。その話は結局船醉を起させる原因は船の動搖ではなくして、船に於て感じられる異常な雰圍氣や臭ひなどに影響せられるところが多いといふ話であつた。例へば船に乘ると先づ非常に油臭い。これは船が重油を焚いてゐるから、當然油臭い臭氣がするわけである。それから部屋に入るとペンキ臭い。これは船には錆びないやうに天井も壁もみんなペンキを塗つてあるからである、そのペンキの臭ひをいやでも嗅がされる譯である。又船が動かないときでもがたんがたんと大きな響を立ててエンジンが動き出すと、それが音響となつて耳に入つて來る上に、床だの壁だのが振動を始めるのでその振動が體を匐ひのぼつて頭に響いて來る。かういふことも船醉の原因になるらしい。 又、餘り船に乘つたことのない人は、自分は今船に乘つてゐるのだといふことを考へただけで、船醉を催すらしい。甲板などに出ると、普段見慣れない大きな海が自分の立つてをるところの、右にも左にも前にも後にも擴がつてをるのを見て、不安な氣持に襲はれる。さらに進んではもしこの船が沈沒したらその時はどうなるだらうか。泳ぎに自信のない自分はどうすれば助かるだらうかなどといふ心配を始める。さういふ精神不安も、船醉の原因になるらしい。 かう考へれば船がまだ動かないのに船醉しても不思議はないし、こんな大きな船に乘つて船醉することも別に不思議とはいはれないのである。 私たちの乘つた船はそれからずんずん南の方に向つたが、天候は雪を交へた雲に追駈けられて海上は荒れ始めた。だんだん波が高くなる。それに後三日目まで、船は相當ピッチングやローリングをやつた。その最中に、積荷が綱を切つて船艙をあちこちがらがら走り出すといふやうな騷ぎなどもあり、已むなく船を途中で停めて荷物を縛り直したほどであつた。したがつてその朝の間中船醉をしてゐる仲間の苦しみ方は相當同情に値するものがあつた。 その前から私は仲間に船醉の藥などを與へてをつたが彼等はまる三日といふものはたうとう食堂にも出ないし食堂から持つて行つた食べものも殆ど口にしなかつた。丁度その頃我々は黒潮の上を乘切つてゐたのだ。 やがてその潮も乘切つて四日目、五日目となると海は次第に靜かになつた。さうして船醉してゐた連中もやつとベッド[#「ベッド」は底本では「ベット」]からそろ/\起上り始めた。たまにはサロンの長椅子に出て來るやうにもなつた。かうして、内地を離れて五日振りでやうやく彼等は船醉から一先づ解放されたのであつた。それから南洋の或る港に着くまでその人たちは再び船醉をしないで濟んだやうである。このやうな苦しみを一度經驗して馴れてしまへば、その後はたとへ船醉ひをしても比較的樂になるらしい。 船醉のことについて私は出發前にこれも一つの準備と思ひ、永く海の生活をしてゐられたことのある先輩に伺ひを立てたのであつた。その先輩に向ひ私は「どうしたら船醉せずに濟みますか」と訊いた。するとその先輩は非常に眞面目な顏になつて「あゝそれには非常に良いお呪ひがありますから、それを教へて上げませう」といはれた。私はそれを聽いて少からず失望した。お呪ひなどといふものはおよそ科學者と縁の遠いものである。だから、お呪ひを教へられても永い間科學畑に住んだ私共は迚もそれを唱へてみる氣になれないだらうと思つた。しかし折角お呪ひを教へてやらうといつて呉れたのであるから、聽かないのも惡いと思つて私は默つて耳を傾けた。その先輩は語を繼いで「船醉をしないお呪ひといふのはかういふことです、つまり自分は決して船に醉はないと信ずることである。別の言葉で言へば、自己催眠を掛け、自分は船に醉はないぞと自分を信じさせることです、これが一番よく效きます」と言はれた。 私はこれを聽いて非常に感心した。これは單なる迷信の部類に屬するお呪ひではない、非常に科學性を持つたお呪ひである。成程これは效くかも知れないと私は思つた。これを要するに、絶對に船に醉はないと信ずることによつて船に醉はないで濟むわけである。かういふことはよく平常も經驗するのであつて、僅か幅一メートルの溝川も、果して自分がこれを越えられるかどうかと不安に思ひながら跳んだのでは、足が石崖に引掛つたりしてたいてい跳越え損ねる。しかし、自分はこんな溝川なんか必ず跳越えられるのだといふ信念があつたなら、幅一メートルの溝川はおろか、たとへ幅二メートルの溝川でも至極見事に跳越えられるものである。また高跳競爭をやつても或る日は一メートル半の棒を樂に跳越せたのに又別の日には何となくこの棒が跳越せない氣がすると、その日は何回やつてみても、その棒を落すやうなことがよくある。それも總て一番初めに持つてをる自信の程度によつてかういふ結果が決るのである。であるから自分は決して船に醉はないといふ自信を初めに持つてをればさういふ自信を持つてゐないときに較べて遙に船醉をしないで濟む譯である。さういふところにこの船醉のお呪ひの科學性を感ずることが出來る。私は○○丸に乘船すると早速これを自分自身に試みた。私は南太平洋一萬五千浬を飛び歩いたが、その間一度も船醉を感じたことはなかつた。是は確にそのお呪のお蔭だつたと思ふ。 なほこの先輩はもう一つ船醉をしない方法を私に教へてくれた。それは更に科學的な手段であつた。それはどういふことであるかといふと、兩方の耳に大きな綿を出來るだけ固く詰め込むのである。大きな綿でなければいけない、後で用がなくなつた時に耳の穴から綿を取出すのに困る。かうすれば外から來るあらゆる音を防ぐことが出來る。この音のなかには、船醉を誘發する音が交つてゐるさうである。これは陸上にはない振動の音であつて、船なるが故に特に出す特別の振動音がある。それが耳の穴から内耳に傳つて、そこにある器官に働く。さうするとそれが頭の神經を通じて腦に廻つて船醉現象を誘致するといふ話である。つまり科學的にいつて、船醉は船の中に於て發するところの特別の振動音によつて起るのだといふ見解に基き、この振動音を内耳の或る器官に達せしめない爲に、耳の中に今述べた通り固く綿を詰め込むのである。「これも大變よく效く方法ですよ」とその先輩は私に話してくれた。この方法が果して效果があるかないか私は知らない。なぜなれば私は曩に述べた自己催眠の方法によつて完全に船醉をしないで濟んだので、この第二の耳に綿を詰める方法を實行する機會がなかつたのである。皆さんが試みられてもし第一の方法で利目がなかつたときは宜しくこの第二の方法を試みられたが宜しからうと思ふ。 船が段々南に降りて行くにつれて、海はびつくりするほど平穩になる。あたり一面、まるで湖水の如く、時には小波さへ立たないで鏡の如く靜かになることさへある。恐らく赤道附近が最も穩かではないかと思はれる。さういふところでは原住民は小さな丸木舟を操り遠く離れた島々までも舟を走らせる。これは日本近海ではとても出來ないことである。それほどあちらの海は靜かになる。したがつて船は動搖がなくなり、私達は船に乘つてをるのかどうかさつぱり分らないこともある。まつたくエンジンの音が聽えるので、やつぱり船は動いてゐるのだなと感ずるだけである。船に弱い人も、かういふところへ來れば、天國へ來たやうに思ふであらう。 しかしかかる熱帶の海も一日中このやうな穩かな状態にあるのではなくて、時には非常に荒れることがある。それは例のスコールがやつて來る時だ。スコールはひどい夕立だと思へばいゝ。しかし内地の夕立とは異り、夕方に限らず朝でも來るし夜中にも來る。スコールの時間は、短いもので大體三十分、長いものになると二時間も降つてをることがあるが、まあ平均して一時間くらゐの長さのものである。この時は内地の大夕立に更に輪に輪をかけたやうなものすごい降りだ。アイスケーキほどの太さの大粒の雨が文字通り盆を覆したやうに降つて來て視界はまつたく零となり、海上は大きな波が立ち、船は非常に動搖する。かういふ話をすると、船に弱い人は又悲觀をすることであらう。しかしこれは一日に一回ぐらゐのものであるから、さう大して氣にしなくても濟む。 或る時敵前上陸をするために私たちは舟艇に乘つて輸送船を離れた。その離れる前からスコールが迫つてゐて既にぽつりぽつりと大粒の雨が顏に當つてゐた。艇が舷梯を離れるや否や、もう篠つく雨となつて海上は大荒れに荒れだした。視界はまつたく屆かなくなる。私たちの乘つてゐた舟艇は約三十分ぐらゐで目的の海岸に到着する筈のところ、スコールに惱まされて約一時間半も海上に漂つてをつた。この時私はスコールによつて海がいかに激しく荒れるかといふことをはつきりこの目で見た。舟の小さかつたせいもあるが、それは私が度々紀淡海峽で非常に荒れた日に見た怒濤よりもはるかに大きな波が荒れ狂ひ、舟艇は幾度か大波に呑まれようとした。潮吹は舳先からうち上つて奔騰し、私たちの鐵兜の上からざざつと瀧のやうに降りて來る。スコールの雨粒の一つが頬に當つてもまるで大きな霰が當つたやうに痛い、そこへ持つて來て今申す瀧のやうな海水を頭からかぶるので私たちは舟の上にゐるのだか波の中に漂つてゐるのだかわからないほどであつた。 舟は前後に激しくピッチングをやり又左右にひどくローリングをやり、今にも波の中に舳先を突込みさうであり、また舷を海水が乘り越えてきて、今にも沈みさうに思はれた。この時に例の船醉のとくに激しい仲間が、運惡くとでもいはうか、この舟艇に私と同じく乘り合してゐた。しかしこの大荒れにも拘らず、彼等は一時間半の大搖れにも、遂に船醉を感じないで、目的地に着いた。さうして元氣に飛上つて、特別陸戰隊と共に駈足で前進を始めたのには、私の方が驚いたほどであつた。 これによつて見るも、船醉は精神の持ちやうによつて起つたり起らなかつたりするものだといふことがはつきりわかつたと思ふ。譬へ話にあるが、驅逐艦の水兵さんが、どんなに艦がかぶつても船醉しないのに、たまたま上陸して自分の郷里なぞに歸ると、ちよつとした渡し船に乘つて船醉を感じ、氣持が惡くなつたなぞといふ不思議な話があるが、これも今申した精神問題だと思ふ。 海の色 内地を出て南太平洋まで行くあひだに海の色はさまざまに變る。海の色がところどころによつて違ふといふ話はこれ迄に度々聽いたことがあるけれども、實際行つて見てかうも違ふものかと驚いた。我々が内地にゐたとき海の色といへば、あの藍を溶かしたやうな、そして幾分くすんだやうな色を考へるけれども、南の方に行くにしたがつて海の色は非常に鮮かに變つて來る。日本近海において見る海の色は何だか重苦しい感じがするのに對して、南の方の海の色は非常に明るい感じがする。 先づ内地を出てくすんだ藍色の海を一日半ほど行くといふと、海の色はさらに黒ずんだ色に變る。これは所謂黒潮に打突つた證據である。黒潮の色はその名の通り全く黒つぽい。この色をもう少し詳しく言ふと、藤紫を非常に濃くしたやうな色である。この海が夕方暮れてゆくとさらに黒さを増し、まるでアンチモニーを融かしたやうな、金屬的などつしりした色に變る。さういふ見慣れない海を見てゐると内地を遠く離れたことをはつきり感ずる。黒潮の通つてゐるあたりはまだ相當波が荒く、海は何だか生きもののやうに見える。 船の舳先に掻分けられた波は船尾の方まで白い泡となつて湧き立ち、はるか後方まで白い航跡を引く。この白い泡は非常に美しくて、よくいはれる譬だが、シャンパンの杯に湧き立つ泡のやうな感じがして、掬つて飮んで見たくなる。白い泡と眞黒な海水との間には、兩方の混じつた非常に青い海水が漂つてゐる。 うねりが相當大きくなる。その間に飛魚が何尾も群をなしてすつすつと飛ぶ。飛魚は船が近付いたので、びつくりして、波間から飛立つのである。翅を擴げて、見事な滑空をして、十メートルも二十メートルも飛ぶ。飛魚の體は銀色に光つてまるで砥ぎ澄ましたナイフを投付けたやうに見える。さうして長い滑空の末に眞黒なうねりの横腹にぷつりと頭を突込む。飛魚の頭が碎けたのではないかと思ふほど痛々しく感ぜられる。その時に僅な白い水煙が立つ。飛魚は大きいのもあるし又非常に小さいのもある。大きな飛魚は、滑空距離も長く、五十メートルも百メートルも、翅を休めないで飛んで行く。飛魚が船の舳先から、横から、ぴよんぴよんと幾つも幾つも飛出す景色はまことに愛らしく又滑稽である。飛魚の飛んでをる海は長い航海者には一つの樂しい觀ものである。 かうして海を段々南の方に行くにしたがつて、どこからともなく白い鴎が飛んで來たり、或は又燕尾服を着たやうな恰好の燕の大群と一緒になつたりする。 黒潮を越えてしまふと海は急に色が淡くなる。その色は非常に鮮かな青い色である。南洋附近に來ると海水の色はさらに鮮かさを増す。本當の青といふ色は日本には餘り見當らない色のやうに思ふ。一般に日本人が青いといへば何となく松の緑のやうなくすんだ色を思出すのであるが、こゝに言ふ青い色とはそんなものではない、さういふ海の色を見て、成程天地の間にはかういふ美しい青い色があつたかと、青といふ色彩を改めて感じ直すのだ。この美しい青色はどんな色かといふことをとても簡單に説明することは甚だむつかしい。あまりいい説明ではないが、青いゼリーのお菓子を思出して戴ければ、割合にあの南の海の色に近いと思ふ。實際餘り美しいので私たちは暑い太陽の下に冷いゼリーを思出してゐた。 南洋方面には珊瑚礁が非常に多い。珊瑚礁の上に乘つてゐる海水はさらに鮮明度を増す。内地へ持つて歸つて子供に見せてやりたいやうな美しい色だ。或るものは緑青を薄く溶かしたやうな色をしてゐる。海面に出てゐる珊瑚礁に大きな波が押寄せて來て白く碎けるが、その波頭の眞下に世界中で一番美しい青い海水を見ることが出來る。珊瑚礁は防波堤のやうに島のはるか沖合を取卷いてをるが、さういふところに緑青を溶いたやうな青い海の色が熱帶の太陽を浴びて、その上に白い波頭が幅廣く縁取つてをるのは實に美觀である。かういふ緑青を溶かしたやうな青い海は南洋から始まり赤道を越え、さらに南下してビスマルク諸島、ソロモン群島、ニューギニヤの方面までずつと續いてゐるのである。 私はニューブリテン島のラバウル港で、海の中に安全剃刀の刄を落してしばしば樂んだ。舷に立つて安全剃刀の刄をぽとんと海に落すのである、さうするとその安全剃刀の刄は白く光つて海面に落ちてからそのまゝ靜かに海中へ沈んでいく、それが何時までもいつまでもきらきらと銀色に光つて見えてゐるのだ。ラバウル附近は相當水深があるのであるが、安全剃刀の刄はなかなか底に達しない、私は時計を出して時間を計つたことがあつたけれども、安全剃刀の刄が見えなくなるまでとても時計を見てゐるのが退屈になつたほどである。 しかし南太平洋に於て、海岸から入江になつて、奧の方へ河が續いてゐるやうなところでは、海の色はかなり濁つてをる。あちらの方の河は美しい清らかな海とは違つて泥水であつた。その河も非常に緩かな河であるが、それが泥水を浮べて入江から海岸の近くを褐色に濁らしてをる。さういふところには魚の子共が非常に夥しい大群を成して集つてをる。魚の黒い背がさういふところの海の色をさらに黒くする。 船の上からは今申したやうな透明な海水を通じて海底の模樣がよくわかつた。珊瑚礁が下の方から黒い影をして[#「影をして」はママ]盛り上つてをるところもよく見えたし、もつと淺くなると海の底が太陽の光で白く光つて見え、そこに菊目石のやうな白珊瑚の固りや、枝を成した白珊瑚などがまるで林のやうに美しく海底に咲亂れてをるのがよく見えた。またその珊瑚礁の間には眞黒な海鼠がくつ附いてゐたり、海膽(うに)のやうなものがへばり附いてゐたり、又大きな五本の指を伸したひとでが赤い腹を見せて這つてゐたりする。それから魚が泳いでゐるのも見えた。こゝいらの魚は非常に色彩が鮮かで毒々しい色をしてをる。赤い魚、青い魚、紫の魚、縞のある魚、内地ではとても見られないやうな熱帶の魚族が珊瑚の間を縫つてをるのを見て、龍宮とはかういふところぢやないかと思つた。 しかしかういふ美しい海もスコールが起きて來るといふとまつたく體の色を變へてしまふ。スコールに叩かれる海面はその大粒の雨によつて眞白になる、しかし舷から波立つ海面を見れば、海の色は非常に濁つて黒ずむ。それがスコールが引いてしまへばまた元の鮮かな色に返る。海は激しやすいカメレオンのやうに思はれた。
[#改ページ]
[1] [2] 下一页 尾页