「シュピオ」傑作選 幻の探偵雑誌3 |
光文社文庫、光文社 |
2000(平成12)年5月20日 |
2000(平成12)年5月20日初版1刷 |
2000(平成12)年5月20日初版1刷 |
キップの装置
『さっきから気をつけていると、コトンコトンと、微かなリズミカルな音がしているね』 と、彼は指を天井の方に立てて云うのであった。 『ああ、僕にも聞えるよ。鼠が居るのじゃないか』 と、僕はこたえた。 『ねずみ? 鼠が音楽家でもあればねえ』 と、彼はニヤリと笑って、 『――あれは天井裏に、瓦斯を発生する装置が置いてあるんだよ』 『え、瓦斯を発生するって、一体なんの瓦斯だい』 『多分キップの装置だろうね。亜鉛を硝子瓶に入れて置いて、その上に稀硫酸を入れるのさ。うまいこと水素瓦斯が出てきてはやみ、やんではまた出てくるんだよ』 『おい帆村。早く云ってくれ。なぜ水素瓦斯の発生装置が天井裏に置いてあるんだ』 と、僕は帆村探偵の腕をつかんでゆすぶった。 その途端に、電話のベルがけたたましく鳴りだした。 僕ははっとした。そして電話機のところへ駈けよろうとしたが、そのとき帆村が、 『おい待て、電話機に手をかけるな』 『ええっ、なぜ――』 『俺の後についてこい。説明はあとでするから――』 というなり帆村は、椅子から立ちあがった。彼の手はその椅子を頭より高く持ちあげた。そしてつかつかと裏口の窓へ近づくと、持っていた椅子をはっしと窓にぶちつけた。 がらがらがらと硝子は壊れる。 『はやく俺につづけ』 と、帆村はその壊れたガラス窓から暗い外に飛だした。 僕はぎょっとした。そして無我夢中に彼につづいて窓からとびだした。全身の毛が一時にぶるぶると慓えたように感じた。帆村は脱兎のように走る。僕もうしろから走った。 百雷の落ちるような大音響を聞いたのは、それからものの五分と経たぬ後だった。ふりかえってみると、さっきいた事務所はあとかたもなくなって、あとには焔々と火が燃えているばかりであった。 『ああ愕いた』 と帆村がいった。 『君が電話へ出てみろ。その瞬間に、あの大爆発が起ったんだ。敵は君がいることを、電話でたしかめようとしていたんだからね。いや全く生命びろいだった』 といって僕の手を強く握った。 後になって、あのときどうしてその爆発が起ると分ったんだと帆村に訊いたところ、彼は涼しい顔をして、 『まさか君は、時局柄君自身が狙われていることを知らないわけではなかろう。ああいう変な音響を耳にしたときは、すぐさてはと感じなければいけないんだ。これからもあることだ。変なことがあったら、すぐさてはと考えて、そして思いあたるところがあれば、すぐさま逃げだすようにしないと、君の生命は危いぜ』 『うん、それは分った。だがあの爆発は、どんな仕掛だったのかね。キップの装置がどうしたんだ』 『キップの装置といえば、水素瓦斯の発生器じゃないか。それが屋根裏で、ぶつぶつと水素瓦斯を出しているんだ。そこへ火をつければ、大爆発が起ることは、誰にも分る。ことに水素瓦斯に空気が混っているときは、その爆発は更に激烈なものとなる。――だから、君を狙う敵は、電流仕掛で水素瓦斯に点火して大爆発をさせたんだ。僕は焼跡に駈けつけて、水素瓦斯に点火するため二本の電線が屋外に引張られていたのを発見したから、これに間違いはない』
毒瓦斯
『ホスゲン瓦斯の中毒で殺られたんだとさ』 と、帆村は惨事のあった部屋から顔を出した。 中には七つの屍体が転がっていた。鑑識課員に交って憲兵の姿も見える。 日本飛行科学研究所の第四研究室員七名が、研究中に揃いも揃って、冷たい屍体となり終ったのであった。この愕くべき悲報に、僕は帆村探偵について、現場を覗きに来たというわけだった。 『一体どうしてホスゲン瓦斯などにやられたんだね』 『それが分らん。なにしろ七名とも、皆死んでいるのだから』 そういっているところへ、部屋の中が俄かに騒がしくなって、入口が大きく開かれた。中からは、数名の刑事や警官が、一つの屍体を担ぎだした。 僕はそれを見ると、横にとびのいた。 担がれている屍体が、ぎゅーっと顔をしかめた。 『あれえ、生きているじゃないか』 と、僕は思わず叫んだ。 『しっ、静かに。一人、息をふきかえしたのだ』 と警官が叱った。でもその顔は喜びに輝いていた。 『――この男が口をきくようになれば、事件がどうして起ったんだか、分るぞ』 と、最後に部屋から出てきた警部が、部下にそっと囁いた。 帆村と僕とは、その生きかえった男の後について、急造の病室について入った。そこには瓦斯中毒の研究で有名な軍医のN大尉が、白い診察服の腕をまくって病人を迎えた。 軍医はすぐさま、寝台の上に寝かした病人の診察にとりかかった。 『研究員、松下清太郎。三十一歳――か』と軍医はひとりで肯いていたが『よし、酸素吸入を行う。それからカンフルの用意だ』 酸素吸入が始まると、蒼白だった病人の顔に、俄かに赤味がさしてきた。 軍医は、つづいて脈をじっと聞いていたが、不満そうに首をふって、 『瀉血をする、急いでくれ』 と、助手たちにいった。 瀉血が、この瀕死の被害者を救った。 『よし、これでまず何とか立ち直るだろう。――警視庁の方。訊問は今から十分間かぎりですよ。それ以上はいけません』 捜査課の幹部は、すぐに松下研究員の枕頭に集ってきた。そして彼の耳のところに口をつけて、叱りつけるように相手を励しながら、事件の重要点をたずねるのであった。 『――午後三時頃、寒くなったので、窓を全部閉めた。そうですね。――それから、午後四時にストーブを一つつけた。午後五時にあと二つのストーブをつけた。午後七時になって、急に苦しくなって、やりかけていた実験を中止した。すると部屋中にいた全員がまるでいいあわせたようにパタパタと倒れた。よろしい。――貴方も倒れた。その前に、窓のところへいって、窓を二つ開いた。その後は何にも覚えていない。――それだけですか。いやよく分りました』 被害者は、苦しそうに歯をくいしばっている。酸素のコックが、さらに大きくひねられた。 『どうだ、聞いたか』と帆村は手帖をポケットに収いながら、僕の横腹をついた。 『さあ、現場へ行ってみようぜ』 初めて僕は、惨事のあった室に入った。 実験装置がやりかけたままになってそこに転がっているのも、まことに痛ましいことであった。 『ホスゲン瓦斯は、どこから入ってきたのかね』 『どこから入って来ようもないじゃないか。室内は密閉されてあるのも同然だ』 と帆村は舌うちをした。 『ストーブから不完全燃焼でもって一酸化炭素が出てきたのではないかね』 『ちがう。一酸化炭素なら、被害者の顔は赤くなっても決してこんな蒼い顔になりはしない。やはりホスゲンだ。ほら微かにのこっているだろう。林檎のくさったような匂いがするじゃないか』 なるほど、そういわれるとそんな匂いがしないでもない。 『相当の量が入ってきたんだろうね』 『そうだ、相当の量だ。相当濃いやつだね。しかも、短時間に、さっと入ってきたんだ』 『何処から?』 『それが分らない。さあこれからそれを探すんだ』 帆村は室内をのこのこ歩きだした。 『おい帆村君、こんなところに、空気抜けの穴が二つあるぜ。これは大丈夫かね』 『なんだ、空気抜けじゃないか。空気抜けは、室内の空気を上に吸い出すものだ。問題はない』 『果してそうかね。おい帆村君、空気抜けの上をしらべてみた方がいいと思うがね』 帆村は僕の顔をじろりと見たが、 『おい、屋上へ行ってみよう』 と僕を誘った。 懐中電燈をつけて、三階の階段をまた一つ上にのぼるとそこは屋上遊歩場であった。そしてその周囲は、高さ一メートルほどの厚い壁でぐるりととりまいてあった。その内側にぴったり寄り添って空気抜けの烟突がついていたが、この高さは、周囲の壁よりもずっと低く、五十センチぐらいしかなかった。そして遊歩場のレベルともうすれすれのところから、空気の出てくる横窓が明いていた。 『雨水がたまると、この穴から入りこみゃしないかなあ』 と僕は、この背の低い空気抜けを指していった。 すると帆村は、いきなり僕の腕をとらえた。 『おい今日は朝から寒かったね』 『それがどうした。今日は朝から冷たい雨がふっていたよ。昨日に比べて、たいへんな変り方だ』 『うむ、そこだ。それで話が分ってきた』 『どう分ってきたんだ』 『いや、もう一つ分らねばならないものがある』 と帆村はしきりと空気抜けの烟突のまわりをさがしていたが、やがてその烟突のすぐ近くに立っていた鉄板でくみたてた小屋に目を光らせはじめた。 『これは何の小屋だろう』 『さあ、窓からのぞいてみればいい』 『いや、入口から入ってみよう』 帆村の立っているすぐのところに、この小屋の扉がついていた。把手をひくと、呆気ないほど無造作に開いた。 帆村は兎のように小屋の中にとびこんだ。懐中電燈が、電光のように揺れた。 『おお、しめた。あったあった。これだ』 帆村は大声で叫ぶなり、一つの硝子壜をつまみあげた。 『なんだ、それは』 『いや、この中にホスゲンが入っていたんだ。この壜は小屋の隅に、横たおしになっていた。その壜の中は、向うの空気窓の方に向いていた』 『でも、ここは小屋の中だぜ。ホスゲン瓦斯が発生しても、まさか小屋を出てから向うの空気窓にとどくかしら』 『大丈夫、とどくさ』と帆村は自信ありげに返事をした。『ホスゲンは空気の三倍半も重い瓦斯だ。壜の中から小屋の中に流れだすと、床を匍うよ。ところが床下が、ほらこんなにすいている。すると必然的に、屋上に流れ出すじゃないか。しかもその前に、待っていましたとばかり壁で囲まれた空気窓がある』 『空気窓から階下へ入っていったというのかい。逆じゃないか』 『なにが逆なものか。それでいいんだ。いいかね。屋上は寒冷だ。ところが惨劇のあった二階は、夕方から急にストーブを三つもつけて、とても温くなった。だから室内の空気は軽くなっている。ところへこの重いホスゲン瓦斯がやってきたものだから、これは温い空気と入れ替えに喜んで烟突を下ってゆく。そしてあのとおり七人が七人やられてしまったんだ』 『ほほう、そうかね』 『このホスゲンは、相当濃かったので猛毒性をもっていた。十分も嗅いでいれば、充分昏倒するぐらいの毒性はあったと認める。しかし室内の七人は実験に夢中になっていて、それと気づかなかったんだね。恐るべき――しかし危険きわまる熱心さだ』 そういった帆村は屋上に出た。僕も彼のあとにつづいて外に出たが、そのとき帆村は莨を吸うため、ぱっと燐寸をつけているところであった。
(「シュピオ」一九三八年四月号)
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