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俘囚(ふしゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 6:30:21 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「飛んでもない……」
 松永は駭(おどろ)いて尻込(しりご)みをした。
 夜の闇が、このまま何時(いつ)までも、続いているとよかった。この柔い褥(しとね)の上に、彼と二人だけの世界が、世間の眼から永遠に置き忘られているとよかった。しかし用捨(ようしゃ)なく、白い暁がカーテンを通して入ってきた。
「じゃ、ちょっと行って来るからネ」
 松永は、実直な銀行員だった。永遠の幸福を思えば、彼を素直に勤め先へ離してやるより外はない。
「じゃ、いってらっしゃい。夕方には、早く帰ってくるのよ」
 彼は膨(は)れぼったい眼を気にしながら出ていった。
 使用人の居ないこの広い邸宅は、まるで化物屋敷のように、静まりかえっていた。一週に一度は、派出婦がやって来て、食料品を補(おぎな)ったり、洗い物を受けとったりして行くのが例だった。いつまで寝ていようと、もう気儘(きまま)一杯にできる身の上になった。呼びつけては、気短かに用事を怒鳴(どな)りつける夫も居なくなった。だからいつまでもベッドの上に睡っていればよかったのであるが、どういうものか落付いて寝ていられなかった。
 あたしは、ちぐはぐな気持で、とうとうベッドから起き出でた。着物を着かえて鏡に向った。蒼白い顔、血走った眼、カサカサに乾いた唇――
(お前は、夫殺しをした!)
 あたしは、云わでもの言葉を、鏡の中の顔に投げつけた。おお、殺人者! あたしは取返しのつかない事をしてしまったのだ。窓の向うに見える井戸の中に、夫の肉体は崩れてゆくだろう。彼にはもう二度と、この土の上に立ち上る力は無くなってしまったのだ。鉛筆の芯が折れたように、彼の生活はプツリと切断してしまったのだ。彼の研究も、かれの家族も(あたし独りがその家族だった)それから彼の財産も、すべて夫の手を離れてしまった。彼は今日まで、すっかり無駄働きをしたようなものだ。そんなことをさせたのは、一体誰の罪だ。殺したのは、あたしだ。しかし殺させるように導いたのは夫自身だったじゃないか。他の男のところへ嫁(とつ)いでいれば、人殺しなどをせずに済んだにちがいない。あたしの不運が人殺しをさせたのだ。といって人殺しをしたのは此の手である。この鏡に写っている女である。もう拭(ぬぐ)っても拭い切れない。あたしの肉体には、夫殺しの文字が大きな痣(あざ)になっているのに違いない。誰がそれを見付けないでいるものか。じわりじわりと司直(しちょく)の手が、あたしの膚(はだ)に迫ってくるのが感じられる。
(ああ、こんな厭(いや)な気持になるのだったら、夫を殺すのではなかった!)
 押しよせてくる不安に、あたしはもう堪(た)えられなくなった。なにか救(すく)いの手を伸(の)べてくれるものは無いか。
「そうだ、有る有る。お金だ。夫の残していった金だ。それを探そう!」
 いつか夫が、莫大(ばくだい)な紙幣(さつ)の札を数えているところへ、入っていったことがあった。あれは五年ほど前のことだったが、研究に使ったとしても、まだ相当残っている筈(はず)。それを見つけて、あとはしたいことを今夜からでもするのだ。
 あたしは、それから夕方までを、故(な)き夫の隠匿(いんとく)している財産探しに費(ついや)した。茶の間から始まって、寝室から、書斎の本箱、机の抽斗(ひきだし)それから洋服箪笥(ようふくだんす)の中まで、すっかり調べてみた。その結果は、云うまでもなく大失敗だった。あれほど有ると思った金が、五十円と纏(まとま)っていなかった。この上は、夫の解剖室に入って屍体の腹腔(ふくこう)までを調べてみなければならなかったが、あの部屋だけは全く手を出す勇気がない。しかしそれほどまでにせずとも、これ以上探しても無駄であることが判った。それは数冊の貯金帖を発見したことだったが、その帖面の現在高は、云いあわせたように、いずれも一円以下の小額だった。結局わが夫の懐工合は、非常に悪いことが判った。意外ではあるが、事実だから仕方がない。
 失望のあまり、今度はボーッとした。この上は、化物屋敷と広い土地とを手離すより外に途がない。松永が来たらば、適当のときに、それを相談しようと思った。彼はもう間もなく訪(おとず)れて来るに違いない。あたしはまた鏡に向って、髪かたちを整(ととの)えた。
 だが、調子の悪いときには、悪いことが無制限に続くものである。というのは、松永はいつまで待っても訪ねてこなかった。もう三十分、もう一時間と待っているうちに、とうとう何時の間にやら、十二時の時計が鳴りひびいた。そして日附が一つ新しくなった。
(やっぱり、そうだ!――松永はあたしのところから、永遠に遁(に)げてしまったのだ!)
 彼のために、思い切ってやった仕事が、あの子供っぽい青年の胸に、恐怖を植えつけたのに違いない。人殺しの押かけ女房の許から逃げだしたのだ。もう会えないかも知れない、あの可愛い男に……。
 悶(もだ)えに満ちた夜は、やがて明け放たれた。憎らしいほどの上天気だった。だが、内に閉じ籠っているあたしの気持は、腹立たしくなるばかりだった。幾回となく発作(ほっさ)が起って、あたしは獣(けもの)のように叫びながら、灰色に汚れた壁に、われとわが身体をうちつけた。あまりの孤独、消しきれない罪悪(ざいあく)、迫りくる恐怖戦慄(きょうふせんりつ)、――その苦悶(くもん)のために気が変になりそうだ、恐ろしかった。あの重い鉄蓋が持ち上がるものだったら、あたしは殺した夫の跡を追って、井戸の中に飛びこんだかも知れない。
 喚(わめ)き、悶え、暴(あば)れているうちに、とうとう身体の方が疲れ切って、あたしはベッドの上に身を投げだした。睡ったことは睡ったが、恐ろしい夢を、幾度となく次から次へと見た。――不図(ふと)、その白昼夢(はくちゅうむ)から、パッタリ目醒(めざ)めた。オヤオヤ睡ったようだと、気がついたとき、庭の方の硝子窓(ガラスまど)が、コツコツと叩かれるので、其の方へ顔を向けた。
「ああ、――」あたしは、思わず大声をあげると、その場に飛んで起きた。なぜなら、庭に向いた窓の向うから、しきりに此方(こっち)を覗きこんでいる者があった。その円い顔――紛(まぎ)れもなく、逃げたとばかり思っていた松永の笑顔だった。
「マーさん、お這入(はい)り――」
「どうして昨夜(ゆうべ)は来なかったのさア」
 嬉しくもあったけれど、相当口惜しくもあったので、あたしはそのことを先(ま)ず訊(たず)ねた。
「昨夜は心配させたネ。でもどうしても来られなかったのだ、エライことが起ってネ」
「エライことッて、若い女のひとと飯事(ままごと)をすることなの」
「そッそんな呑気(のんき)なことじゃないよ。僕は昨夜、警視庁に留められていたんだ。そして、いまから三十分ほど前に、釈放(しゃくほう)になったばかりだよ」
「ああ、警視庁なの!」
 あたしはハッと思った。そんなに早く露見(ろけん)したのかなア。
「そうだ、災難に類する事件なんだがネ」と彼は急に興奮の色を浮べて云った。「実はうちの銀行の金庫室から、真夜中に沢山の現金を奪って逃げた奴があるんだ。そいつが判らない。その部屋にいる青山金之進(あおやまきんのしん)という番人が殺されちまった。――そして不思議なことに、その部屋に入るべきあらゆる入口が、完全に閉じられているのだ。穴といえば、その室(へや)にある送風機の入口と、壁の欄間(らんま)にある空気窓だけだ。空気窓の方は、嵌(は)めこんだ鉄の棒がなかなかとれないから大丈夫。もう一つの送風機の穴は、蓋があって、これが外(はず)せないことはないが、なにしろ二十センチそこそこの円形(まるがた)で、外は同じ位の大きさの鉄管で続いている。二十センチほどの直径のことだから、どんなに油汗(あぶらあせ)を流してみても、身体が通りゃしない。それだのに犯人の入った証拠は、歴然(れきぜん)としているのだ。こんな奇妙なことがあるだろうか」
「現金は沢山盗まれたの?」
「うん、三万円ばかりさ。――こんな可笑(おか)しなことはないというので、記事は禁止で、われわれ行員が全部疑われていたんだ。僕もお蔭で禁足(きんそく)を喰(くら)ったばかりか、とうとう一泊させられてしまった。ひどい目に遭(あ)ったよ」
 松永は、ポケットの中から、一本の煙草を出して、うまそうに吸った。
「変な事件ネ」
「全く変だ。探偵でなくとも、あの現場の光景は考えさせられるよ。入口のない部屋で、白昼のうちに巨額の金が盗まれたり、人が殺されたりしている」
「その番人は、どんな風に殺されているんでしょ」
「胸から腹へかけて、長く続いた細いメスの跡がある、それが変な風に灼(や)けている。一見古疵(ふるきず)のようだが、古疵ではない」
「まア、――どうしたんでしょうネ」
「ところが解剖の結果、もっとエライことが判ったんだよ。駭(おどろ)くべきことは、その奇妙な古疵よりも、むしろその疵の下にあった。というわけは、腹を裂いてみると、駭くじゃあないか、あの番人の肺臓もなければ、心臓も胃袋も腸も無い。臓器という臓器が、すっかり紛失していたのだ。そんな意外なことが又とあるだろうか」
「まア、――」とあたしは云ったものの、変な感じがした。あたしはそこで当然思い出すべきものを思い出して、ゾッとしたのだ。
「しかし、その奇妙な臓器紛失が、検束(けんそく)されていた僕たち社員を救ってくれることになった、僕たちが手を下したものでないことが、その奇妙な犯罪から、逆に証明されたのだ」
「というと……」
「つまり、人間の這入るべき入口の無い金庫室に忍びこんだ奴が、三万円を奪った揚句(あげく)、番人の臓器まで盗んで行ったに違いないということになったのさ。無論、どっちを先にやったのかは知らないが……」
「思い切った結論じゃないの。そんなこと、有り得るかしら」
「なんとかいう名探偵が、その結論を出したのだ。捜査課の連中も、それを取った。尤(もっと)も結論が出たって、事件は急には解けまいと思うけれどネ。ああ併(しか)し、恐ろしいことをやる人間が有るものだ」
「もう止しましょう、そんな話は……。あんたがあたしのところへ帰って来てくれれば、外に云うことはないわ。……縁起直(えんぎなお)しに、いま古い葡萄酒でも持ってくるわ」
 あたしたちは、それから口あたりのいい洋酒の盃を重ねていった。お酒の力が、一切の暗い気持を追払(おいはら)ってくれた。全く有難いと思った。――そしてまだ宵(よい)のうちだったけれど、あたしたちはカーテンを下ろして、寝ることにした。
 その夜は、すっかり熟睡した。松永が帰って来た安心と、連日の疲労とが、お酒の力で和(やわら)かに溶け合い、あたしを泥のように熟睡させたのだった。……
 ――翌朝、気のついたときは、もうすっかり明け放たれていた。よく睡ったものだ。あたしは全身的に、元気を恢復した。
「オヤ、――」
 隣に並んで寝ていたと思った松永の姿が、ベッドの上にも、それから室内にも見えない。
 庭でも散歩しているのじゃないかと思って、暫く待っていたけれど、一向彼の跫音(あしおと)はしなかった。
「もう出掛けたのかしら……」今日は休むといっていたのに、と思いながら卓子(テーブル)の上を見ると、そこに見慣れない四角い封筒が載っているのを発見した。あたしはハッと胸を衝(つ)かれたように感じた。
 しかし手をのばして、その置き手紙を開くまでは、それほどまで大きい驚愕が隠されているとは気がつかなかった。ああ、あの置き手紙! それは松永の筆蹟に違いなかったけれど、その走り書きのペンの跡は地震計の針のように震(ふる)え、やっと次のような文面を判読することが出来たほどだった。
「愛する魚子よ、――
 僕は神に見捨てられてしまった。かけがえのない大きな幸福を、棒に振ってしまわなければならなくなった。魚子よ、僕はもう再び君の前に、姿を現わすことが出来なくなった。ああ、その訳は……?
 魚子よ、君は用心しなければいけない。あの銀行の金庫を襲った不思議の犯人は、世にも恐ろしい奴だ。彼奴(あいつ)の真(まこと)の目標は、ひょっとすると、此の僕にあったのではないかと考える。僕は……僕は今や真実を書き残して、愛する君に伝える。――僕は夜のうちに、あの隆々(りゅうりゅう)たる鼻と、キリリと引締っていた唇と(自分のものを褒(ほ)めることを嗤(わら)わないで呉れ、これが本当に褒め納(おさ)めなのだから)――僕はその鼻と唇とを失ってしまった。夜中に不図(ふと)眼が醒(さ)めて、なんとなく変な気持なので、起き出したところ、僕は君の化粧台の鏡の中に、世にも醜い男の姿を発見したのだ! これ以上は、書くことを許して呉れ。

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