海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション |
三一書房 |
1991(平成3)年10月15日 |
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷 |
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷 |
僕は最近、はからずも屍体解剖を看るの機会を持った。僕の友人に、慶応の生理学の先生である林髞博士というのがあるが、この林博士は前から僕に屍体解剖を見物するように薦めてくれたのであった。僕はもちろん見たいには見たかったのだ。しかし困ったことに、いくら見たくとも、それは芝居や犬の喧嘩を見るように簡単にはゆかないのである。つまり胆力という問題、換言すれば、脳貧血になるかならぬかという問題が存在するため、手軽に「では見せて貰いましょう」というわけにはなかなかゆかないのである。 ところが最近、僕は思いがけないチャンスをつかんで、とうとう解剖の始めから終りまで見てしまった。お医者さまには一向珍らしいことではあるまいが、僕にはたいへん興味あることだった。それで僕は、素人としての印象記をここに録してせっかくのその日の記憶が薄れてしまうのを防ごうとするものである。 僕はその日、或る用件のため、或る病院で働いていた。ところが看護婦が知らせてくれたところによると、その夜、病院に於て他殺屍体の解剖があるという話である。これは全く珍らしいことである。私も病院で働いている上からは、直接関係はなくとも、人体の解剖ぐらいは見て置いた方が参考になると思い、その始まるのを待った。 日がとっぷり暮れて、電灯がついた。 大勢の警官が、続々と入ってきた。 解剖は、階段教室で行われた。病院の職員、看護手、看護婦などが、警官の邪魔にならぬように、すこし後方に席をとった。 検査官一行も到着して、解剖台のすぐ前の席に腰を下ろした。その後から大きな鞄を持った助手を従えて、今夜の執刀者である警察医が入ってきた。 それにつづいて運搬車のうえに載せられて、屍体が入って来た。白布をとれば、その下に裸体の若い男性屍体が現れた。年のころ十五六でもあろうか。五厘刈にした丸顔の可愛いい少年だった。 屍体といえば、僕たちは臘細工のような青い身体を想像するのであるが、この屍体はそうではなかった。顔も唇も赤々として、まるで眠っているとしか考えられない。聞いてみると、この屍体は井戸の中に漬っていたのだそうで、時間も三十時間ぐらいしか経ってないということだった。 僕はこの解剖の終了するまでのうち、一番気もちわるく感じたのは、この解剖前の屍体を見ているときだった。それはどういうわけだか分らない。とにかく遠くの方から、脳貧血という魔物が、しのび足に寄って来て、すぐ背後のところでニヤニヤと笑っているような感じだった。いつぶっ倒れるかしれないといった不安が、僕を脅かした。このまま室を出ていった方が恥を曝さないですむぜ、と囁く声が聞えるようであった。 でも、折角ここまで怺えたのである。しかも僕とても、将来このような人体を対象として研究をつづけなければならぬ職をもつ身ではないか。そう思うと、このまま出てゆくことが躊躇せられるのであった。 「いよいよいけなくなったら、この階段に横にゴロリと寝てしまおう」 僕はそう思った。 そうこうしているうちに、警察医はもうすっかり身仕度をととのえた。襯衣を肘の上までまくり上げ、手には長いゴム手袋をはめ、その上にまたもう一つ、白い絹らしい布で出来た手袋をはめていた。そして胸には、白い手術着をつけた。それだけであった。病人の手術とは違って、それは実に簡単な服装だった。 それから警察医は、大きな鞄の口をあけた。中からは、果して解剖器具の入った大きな銀色の函を取り出した。蓋を払ってから、彼は中からメスを何本かと、その外なにかよく分らないが、ピカピカ光るいろいろの器具や、糸などを取出し、それを屍体が載っている解剖台の上に置いた。ガチャガチャと金属製の器具がすれ合う音を聞いていると、いよいよいけなかった。もしあの少年が仮死であって、医師が執刀すると同時に、キャーッとか叫んで立ちあがったとしたら、どうだろう。そう思った瞬間、僕の身体の重心が、どこか身体の外に移ってゆくような気がした。 医師はピカピカ光る解剖の器械をことごとく揃えた。彼は立ち直って、解剖の屍体に近づいた。室内は俄かにザワついた。 医師はピンセットの大きいのを右手にもって、屍体の顔をジッと見た。それから屍体の瞼をピンセットの尖でつまみ、皮をクルリと上にまくって、眼球をしらべた。右の眼も、左の眼もそうした。 それから同じくピンセットを使って、鼻孔や口の中を調べていた――ように記憶する。記憶するというのは、ちょっと申訳がないが、実はいよいよたいへんなことが始まったぞというので、僕の胆玉は上がったり下ったりして、現場を逃げだそうかどうしようかと思案に暮れていたときなので、その辺はハッキリ覚えていないのである。只、あれが生きている人間だったら、さぞ痛いことだろうと思ったことである。 それから医師は、ピンセットの尖で、全身に渡って皮膚を軽くおさえながら、熱心に観察をした。目の孔も調べたようだ。 それがすむと、傍に向って、手をあげた。すると白衣の助手が、屍体の向う側に廻って、腕と脚とをつかんで横向きにした。いや、横向きではない。とうとう背中を上に向けた。すると少年の顔が横に傾いた。白い手術台の上に、薄赤い液体がトロトロと流れだした。それは屍体の口と鼻のなかから流れだしたものだと分った。なんともいえない臭気がプーンと漂ってきた。 医師は、背中を一応しらべた。それから後頭部にある打撲傷のような血の滲みが見えるところに眼を近づけた。 それから屍体は、また元のように上に向け直された。そして今度は頭の下に、枕があてがわれた。 ピンセットが下に置かれた、医師の右手に大きなメスが握られた。――いよいよ始まるのである。僕の心臓は停りそうになった。 しかし解剖医は逡巡も興奮をも示さず、きわめて自然にメスをあげて、屍体の右の耳の上に当てた。そしてそのまま、頭の上の方へスーッと引いた。なおも力を抜かず、そこから向う側にメスを廻して、左の耳の上までスーッと一と息に引いた。五厘刈の下から、白い筋が見えてきた。頭骨が現れたのである。こうして耳から上が、縦に立ち切られたのであった。 医師はそこでメスを置いた。そして、頭部の皮の裂け目に手をかけて、蟇口をあけるようにサッと前後へ剥がした。その下から、白い頭蓋骨が、まるで彩色をしてない白い泥人形の頭のようにまるまると現れてきた。とたんに僕は気が強くなった。 メスをさっと下ろした瞬間、僕は非常に厳粛な気持になったのである。なるほど、人間というものは実に悧巧なものである。よくこういう医科学を研究したものだと思った。そして二三ミリもある頭の皮がサッと二つに分かれても、もう恐ろしくはなかった。まるで屍体の感じがしなくて、人形のような感じがした。さっきアリアリと僕の心を打った少年の顔かたちが今は俄かに印象が淡くなった。第一、少年は、依然として穏かに睡っているような顔をしているのである。少年の死因を親しく検べて呉れるこの警察医に、心から感謝の意を表わしているようにも見えた。―― メスが手伝って、象牙のように白い頭蓋骨は、耳から上部に於て、全く皮膚と離れてしまった。すると医師の右手には、メスの代りに西洋鋸が握られた。 大事に大事に、太い竹の根を切るように、その顔は頭蓋骨に鉢巻させるように溝をつけていった。ゴシゴシゴシと深刻な響が、シーンとした解剖室の中にひびき渡るのであった。助手は屍体をまた裏がえして、警察医が頭蓋骨を切りよいように手伝った。 こうしてグルッと溝の鉢巻ができた。 すると医師は鋸を傍に置き、その代りに小さな鑿と金槌とを左右の手に持った。 見ていると、その鑿は溝の上に当てられた。そして鑿のお尻を、金槌がコンコンと叩いた。助手が屍体をグルッと廻すと、医師の持つ鑿もまた溝をグルッと廻ってゆく。そしてまた屍体が上向きにされたとき、鑿の作業は一ととおり終了した。いよいよこれから、溝を入れたところから、頭蓋骨を外すらしい。 そのとき解剖医は、屍体の頭の方に廻った。見ると手には、片方がかすがいになったような金具をもっていた。その先端は、二つに裂けているようであった。そのかすがい様のものが、溝にひっかけられた。そこで医師は力を籠めて、頭蓋骨を引張った。 すると、帽子が脱げるときのように、お椀の形をした頭蓋が、医師の手許の方へ開いた。パカッというような音がし、それにつづいてパリパリと脳膜が剥がれる音が聞えた。 お椀のような頭蓋骨が、下に落ちると、頭蓋腔の中から、灰白色の脳がとびだしてきた。脳というのはこんなものかと思うほど、見かけは簡単な詰らないものである。太い蚯蚓がもつれ合っているような豊かな皺が見え、そして縦に二つに分かれているのがよく見えた。 医師は、頭蓋骨の中から、それを切りはなした。延髄の下の方を切ったように見えた。医師はその脳を両手の中に入れて、解剖台の上に置いた。 それからメスが閃めくと見る間に、脳は縦に二つに切られた。まるで豆腐を切るような楽さであった。切断面を見ると、内部には白い髄体が見えた。そこには皺はなく、ギッシリと髄体がつまっていた。 切り放された一方の脳は、こんどは横にズタズタに切りさいなまれた。これは奴豆腐を作るときの要領と同じことであった。こんな調べを経て脳の表面にもまた内部にも何等の異常がないことが分った。全く有難いものであると思った。ここまでやって貰わないと、死因なんてものは全く安心ならないものだと深く感動したことである。 医師は、切り開いた頭部をそのままに放置して、今度はまた元のように、屍体の脇に位置を移した。これからいよいよ腹腔にかかるのだということが分った。その辺で一度大きな呼吸をしてみたくなった。 しかし解剖医は一秒も無駄にしない。頭の皮を剥いたり、鋸を引いたり、鑿を使ったりして、ずいぶん力を使ったろうと思うのに、彼はなんの疲労も顔に現さない。何の表情もない。その姿はまことに神々しいものであった。 医師はメスを右手に持って、咽喉の下のところから、胸、腹、臍と、身体の真中をズーッと切り下げた。メスは一度に使うのではなく、腕を一とふりしてサーッと十センチほど皮膚を切ると、またその続きをサーッと腕をふるうのであった。これをくりかえし、下腹部にまで及ぶと、そこでメスは停った。これだけみていると、メスの切れ味の並々ならぬことがよく分った。それとも人体というものは、そんなに切りやすいのであろうか。 解剖医は、そこで切った皮膚と筋肉とを左右に開いた。これは洋服の釦を外して両方へ展げるのと、なんの異るところもない。洋服の場合は、その下から襯衣が見えてくる代りに、この屍体の場合には、下からは筋肉や内臓が飛びだしてくるというだけの相違である。 もちろん内部は真赤だ。 しかし僕はそんなに愕きはしなかった。内部は、魚の腹を開いたのと同じようなものである。また兎の解剖でみたのと、大同小異であった。ただこれは、人間の腹の中だという所属的の違いだけのことで、愕くほどのことはなかった。しかし内臓はなんとなく内部から外方へプリプリと飛び出してきたような感じがした。 医師はそのときメスを上の方へ戻して、胸のところを丁寧に開いた。そして左右の肋骨の上を、メスでもってスーッスーッと二本の筋を引いた。それから手でもって、胸骨を、まるで蓋をとるような塩梅で外した。するとなかからは、肺臓と心臓とが顔を出した。後から考えてみると、このとき胸腔と腹腔との中は真赤だったのだ。しかし実際このとき僕は、すこしも赤いということを感じなかった。赤いのが当り前に感じられた。というか、それとも何もかも、あまりに赤くて、全体的な赤さが、僕の赤に対する感覚を麻痺させてしまったという方がいいかも知れない。 この屍体が、解剖学で習ったと同じような内臓を持っている当り前さ、それから医師が肋骨をまるで障子でも外すような手軽さで外したことの可笑し味と、この二つが僕の心に印象を植えつけただけであって、愕くことは一向になかった。 解剖医自身はもちろん少しも愕いてなどいない。 彼はまず盛んに長い腸を改めた。まるで網を漁夫が拡げてみるのと変りがない。それから彼は糸を出して、腸の一方を結び、そして切断した。それからメスを腸の切口に入れてスーッと開いていった。どこまでもどこまでも開いてゆく。それはどうやら腸の内容物を調べてゆくらしい。結局、腸は全部切り開かれ、その上でソックリ両手でつまみだされた。大腸というものは、文字どおりに大きく著しく目についた。 開かれた腹腔や胸腔は、依然として真赤である。胃袋や肝臓や心臓や肺臓が、いちいちそれとハッキリ分る。もし地面の上に腸の切れ端が落ちていたとして、それを見つけた自分が何だろうと思っていぶかっているうち、誰かがそれは人間の腸だぜと教えたとしよう。恐らく自分はそれがたとい十センチばかりの腸であったとしても、人間のものだと思えば、途端に吃驚してウーンと気を失ってしまうであろうと思う。しかし只今の場合のように、次々の場面を経て、こう沢山の赤い内臓が並んでいるのでは、一向恐ろしく感じない。解剖医の白い手袋は手首の上まで血で真赤になっていた。しかも僕にはそれが血のように感じられない。何か赤インキの中へ手を突込んだのと一向変りがなく感ぜられるのであった。人間というものは、慣れるとこうも鈍感になるものか。僕はさきほどまで脅された解剖屍体をすこし軽蔑し、そしてすこし気をゆるませたのである。 医師は次いで胃袋を切り開いた。腸の場合と同じく、内容物を検しているのは明らかであった。胃の中は、なんだか暗灰色に見えた。しかし中には何も入っていなかったようである。かくして切開された胃袋は切り放たれて、また外に摘出された。そして腸の隣りに置かれた。 それから肝臓などがメスでもって切り放たれ、同じように外に置かれては、ズタズタに切り刻まれた。 心臓も取り出された。その中も入念に切り開かれた。 いよいよ問題の左右の肺臓が、切り放されて、身体の外に置かれた。これは更に入念に縦横に切開され、解剖医の眼はその上にジッと注がれた。 解剖を見ている者は、誰一人として声を出すものがない。床上に靴の音一つしないのである。なんにも音がしない。なんにも――とは、厳密にはいえないかも知れない。内臓を切り放し、外へ引出すときに、烏賊の皮をむくときのように、パリパリと音がするのであった。それは内臓を繋いでいる軟い膜が剥ぎ破られる音であろうと思った。 腹腔や胸腔の中が、だんだんがら空きになってきて、内臓は身体の横に、まるで野天の八百屋が、戸板の上にトマトや南瓜や胡瓜を並べたように、それぞれ一と山盛をなして置きならべられた。僕は不図、それ等のものを直視した。すると、俄かに自分の脳髄がグッと掴まれるような感じがした。よくない傾向だ。脳貧血の先触れではないかと思うくらいだ。僕が油断をしたのがいけなかった。もう大丈夫と思って、それまでは張りつめていた心をすこし弛めたのがいけなかった。それで急に頭がフラついてきたのだ。 医師はなおも胸腔のなかを覗きこみながら、咽喉笛を切り取って、外にだした。それもやっぱり丁寧に切りひらかれた。それがメスの活動の最後だった。 内臓はすべて体外に出た。胸と腹との中は全く空っぽで、舟のような形になってしまった。少年の屍体は、なんだか寒む寒むと見えた。 メスを下に置いた医師は、こんどは金属で作った湯呑み茶碗に柄をつけたような柄杓を右手に持った。そして助手に合図をした。 すると助手は、解剖台の下を探し、バケツを取出して、医師に渡した。医師はそれを左の手に受取って、再び屍体の傍に寄った。 なにをするかと見ていると、医師はその柄杓を、空っぽになった腹腔の中に入れた。そして水をすくうような恰好をして、バケツの中にうつした。ザーッと流れ込んだのは、赤い液体だった。もちろんそれは血液だった。 医師は血液をすくっては、バケツのなかに明ける。それを永い間くりかえした。柄杓をつけるたびにゴボッという音がする。そしてバケツにそれをあけるたびにサーッという音が聞えた。それは静かな室内に於ける只一つの音響であったためか、嵐のすぎさるような大きい響をたてた。僕は一生懸命に怺えていた。 バケツには、かなり多量の血液が溜ったらしかった。結局この柄杓は一ぱい何シーシーという容量が決っていて、何ばいの血液がすくいだされたから、屍体の血液の量は尋常であったか、それとも尋常でなかったかが判定せられるのであろう。 ここで解剖がたしかに一段落したように思った。 医師は助手をよんだ。助手は紙と鉛筆とをもって、医師の近くへ寄った。医師は彼にだけ聞えるような低い声でもって、なにか云うのであった。すると助手が鉛筆をうごかしてしきりと紙の上に記入した。いつしか医師の手には、キャリパーが握られ、内臓などが一々寸法をとられていた。 それも終った。 すると医師は、屍体の頭の方に廻った。そこに切り彫まれている脳を両手で下から持ちあげて、頭の中に押しこんだ。その上を、例のお碗のような頭蓋骨で蓋をした。それから前後にひろげてあった死者の頭の皮を両方からグッと引きよせた。するとその頭の皮は、また元のようにスポリと頭蓋骨の上に被された。死んだ少年の顔が再び見えた。彼の少年は、自分が解剖されたことはすこしも知らぬような実に穏かな顔をしていた。 医師は鞄のなかから曲った針と長い糸とを出して、針にその糸をとおした。 それから耳のうえの頭の皮の裂け目のところに、針をプツリとたて、スーッと引張ると糸がのびて、その裂け目がピッチリ[#「ピッチリ」は底本では「ピツチリ」]合わさった。そうして頭の皮は端からドンドン縫い合わされていった。 それが済むと、医師は屍体の横に立った。そして今度は、外にならべてあった内臓を一つ一つ空洞になった胸腔や腹腔のなかに抛りこみはじめた。その内臓の置かれる場所は、正確に、元どおりではなかった。函の中に、形のちがった大小の缶詰をつめこむときのように、ドンドン詰めこんでいった。その内臓は盛りあがって見えた。その上に、血にまみれたガーゼを二枚かけ、横に置いてあった障子のような胸骨と肋骨と一体になったものを、その上に置いた。もちろんそれは胸のところだった。 それから糸のついた針が、咽喉のところにプツリと通され、そしてドンドン下の方へ縫い合わせていった。まるでつめ襟洋服の前を合わせたような形であった。それがすむと、始めに見たと同じような少年の裸体となった。腑分けされたようには見えないほど、元の姿にかえっていた。医師はガーゼを湯につけて、それで屍体に附着している血痕をきれいに清めてやるのだった。 助手が白木綿をつなぎ合わせて作った繃帯をもってきた。それを受取った医師は、まず屍体の頭に鉢巻をさせた。縫った傷口がすっかり下に隠れてしまった。繃帯のつづきは、後頭部を通って屍体の鼻の下から頤全体を包んだ。外に見えているのは、眼と鼻とだけである。 繃帯はなおも伸びて、咽喉をグルグルと巻いた。それから両の腕の下に斜めに懸った。それからまた胴をグルグルと巻いて、だんだん下に下って来た。 股のところまで包んで、繃帯まきは完全に終った。解剖台の上には、屍体の中から取り出した内臓の一片だに残っていなかった。ただ残ったのは、バケツに移した血液だけだった。 それから助手が、別のバケツに、何べんも熱い湯を搬んできた。その中で、医師はまず解剖器械を洗った。それから二重の手袋をぬいだ。 クレゾールを湯に入れた新しいバケツの中に、医師は静かに両手を入れた。そして丁寧にいくども手を洗った。それから血に汚れた手術衣を外した。 次に洗面器に、新しい湯を貰ってきて、その中に手をつけると、石鹸を十分につけてゴシゴシと洗った。そうして始めて手拭を出して、両手をよく拭った。 見物していた連中は、そこでハーッと溜息をついた。それは深い深い溜息であった。屍体を迎えるために、車のついた白い台が再び入口から入って来た。解剖医はもうその方には見向きもしないで、洋服の上衣に腕をとおしていた。―― こうして解剖は終った。 その後で、この医師から解剖でたしかめたところの報告がなされる筈であった。僕はすっかり満足して、席からたちあがった。そしてポケットから「暁」を一本ぬきだして口に銜えた。 時間を見ると丁度一時間半経過していた。お医者さんもずいぶん疲れたことだろう。そう思って下を見ると、医師は入口の傍に立って、ただ一人うまそうに莨をすっていた。それはいかにもうまそうに見えた。
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