僕は我国を覘っている敵国人が、我国の人跡稀なる山中に立て籠っていると聞いてさえ驚かされたのに、彼等はどこから運搬したものか大仕掛の土木工事を行い、而も工事は既に終ったという説をセントー・ハヤオなる人物から報ぜられて全く昂奮してしまいました。軍事施設について智識のない僕でも、次に何事が計画されているか、実行されるかという事を朧気ながら推察することが出来ました。これこそわが大日本帝国の一大事である。そしてこの一大事を一般国民に知らせることの出来るのは今のところ自分を除いては一人もないという事を考えると僕は重大なる任務のために、身体がガタガタ震え出すのを、どうしても我慢が出来ませんでした。 さて斯うして戸外に飛び出してはみたものの、第一番に何処に通報すべきであるか。一番手近な方法は、近所の交番へ訴え出ることでしたが、警官が簡単に納得して呉れるとも思われないし、それから先、警察署、警視庁、憲兵隊と階級的に軍事当局迄、通報されて行くであろう煩雑さを考えると、交番へ訴え出ることを躊躇せずには居られませんでした。 僕は決心して近所のタクシーを叩き起しました。それから自動車を長舟町の憲兵隊本部へ飛ばせました。自動車は物凄い唸りをたてて巨大なる建物の並ぶ真夜中の官庁街を駆け抜けて行きました。 軈て僕の乗った自動車は三十哩の最大速力を緩めると共に一つの角を曲りました。警笛を四隣のビルディングに反響させ乍ら、自動車は憲兵隊本部の衛門の前、数間のところに止りました。車から降りる時、歩哨の大きい声が襲いかかって来ました。見ると半身を衛門の上に輝く煌々たる門灯に照し出された歩哨が、剣付銃をこっちへ向けて身構えをしていました。 「何者かアーッ」 と又歩哨が叱鳴りました。僕は、 「至急当直将校に会わせて下さい。内容はお目に懸らなければ言えませぬ。早く願います。僕の名刺が此所にあります」 と私は学生の肩書のついた名刺を出しましたことです。歩哨は僕の年若さと、学生服とに好意をよせたものか、二三の押問答の末、折から衛門から我々の声を聞きつけて飛び出して来た僚兵に僕を当直将校室へ案内することを命じて呉れました。 当直将校丸本少佐は、何でもないという顔付をして僕の待たせられている応接室に入って来ました。僕は其の落付いた態度に、自分の持っている昂奮と不安とが、ややうち鎮められて行くのを感じました。しかしそれからのちの、重大事件の説明は、すらすらと搬びませんでした。それは、小一時間に渡った問答――というよりも訊問――が続いたのちのことです。何等かの決意をした丸本少佐は別室に去りました。営内がこの夜更に少しずつざわめき出して来ました。電話のベルが廊下のあなたに三度四度と鳴らされて行きました。「坩堝に滾りだした」不図こんな言葉が何とはなしに脳裡に浮びました。 室の外の長廊下の遠くから、入り乱れて佩剣の音が此方へ近付いて来ました。 丸本少佐の外に士官が二人、兵士が二人うち連れだって室内に姿を現わしました。少佐は其の人達を僕に紹介して呉れましたが、一人は参謀の川沼大尉、他の一人の阿佐谷中尉と二人の兵士は通信係の人達でした。少佐はこれより直ちに僕の家を訪問して、謎の短波無線局のセントー・ハヤオ氏の通信を聴きたいということを語りました。僕はまだこれ位語ってみても信用されない自分を一応は腹立たしく思いました。又こんなにさし迫った君国の一大事に対して、余りに呑気らしい少佐及びその一行を咎めたい気持に襲われました。が今は言い争うよりも、あれほど明らかな通信をこの人達に聴かせることによって、この一大事を直接彼等の手に委せた方が、万事に都合のよいことを考えなおすことが出来ました。僕はまた元のような緊張と昂奮を感じ乍ら、訪問を諾すると共に、自ら第一番に此の室を馳り出ました。
僕が案内して家についた頃は、例の謎の通信者セントー・ハヤオと再び通信再開を約した午前四時に間もない時刻でした。僕は早速送受信機の機能を点検して、何等変りのないのを確めました。 午前四時になると私は直ちに、呼出信号を発しました。これを数回打ってはやめ、受信機の方に空中線を切換えては其の応答を俟ちました。四時を十分ばかり過ぎた頃、相手の答が入って来ました。信号の強さは前よりも一層音量を増しているのが感ぜられました。空中状態が一層よくなったものとみえます。僕は手短かに経過を報告して、憲兵隊の方々を同道して来たことをセントー・ハヤオに物語りました。相手は大変嬉しいという意味の符号を打ち返して来ました。何か変ったことでもあるかと僕は彼に訊ねました。彼は早速報告したいと思うから憲兵隊の人に出て貰って呉れというのでした。僕は丸本少佐にこの旨を申しますと少佐は直ちに阿佐谷通信中尉に通信方を命じました。 阿佐谷中尉は、直ちに私に代って通信席に就きました。丸本少佐に司令を受け乍ら受信が続々と行われました。何事をセントー・ハヤオから聴いているのか、又何事をセントー・ハヤオに打電しているのか、それは僕には少しも判りませんでした。何故ならば、僕が同伴して来た三人の将校達は、多分仏蘭西語と思われる外国語で話をしつづけました。幸か不幸か、仏蘭西語は僕には何のことやら薩張り意味が判りません。唯三人の将校の顔面筋肉が段々と引きしまって来て、其の顔色は同じように蒼白化し、其の下唇は微かに打ちふるえて来るのを看取することが出来ました。 四五十分に続く通信が終ると、阿佐谷中尉は僕を招きました。セントー・ハヤオが僕に話したいことがあると言うのです。僕は、永いこと無理やりに距てられた恋人同志が会うときのように胸をわくわくさせて受話器を取り上げました。 彼がそれから簡単に僕に送って来た信号の文句は僕を一層驚かせました。彼は祖国の危険を報ずることが出来て大変嬉しいこと、尚これから先も敵国人の行動を報告すべき一層重大なる責任を負っていることを一寸語りました。それから彼は、やや送信の手を躊躇させたようでしたが軈て思い切ったように明瞭に打ち出しました。 「僕は最早死を覚悟している。僕は此処三四日の内に殺されるそうだ。実はさきほど敵国人の一人が秘かに僕に告白したので判った次第である。 君は敵国人が秘かに僕に告白したことを不思議に思うだろう。その敵国人というのは実は妙齢の婦人であって、多分御察しのとおり此の恐ろしい団体に加わっている人の妻君である。彼女は夫について到頭こんなところに来てしまった。彼女は僕達に三度の食事を搬ぶ役目を持っている。僕は彼女を一目見たときに何処かで見たような女だと思った。 話してみると判った。彼女は僕が会社で自分の配下につかっていた助手の妹で、彼が肋膜を患って寝たとき、欠勤の断りに僕を訪ねて来たことがあった。 悧巧な君は、それから先、僕等二人がどんな気持に落ちて行ったかを察することが出来るだろう。実は彼女と魂をより添わせるようになってから今日が二日目である。彼女は既に人妻である。僕等の恋は不倫であるかも知れない。それは恥かしい。が恋の力はそんな観念を飛び越えさせてしまった。彼女は僕に脱走をすすめる。しかし、僕は敵国人の行動を報告すべき重大任務を有するし、又迚も脱走が成功するとは思わない。今は少しでも彼女と魂を相倚せて、未来の結縁を祈るばかりだ。 君よ。僕の情念を察して呉れ給え。しかし僕は自分の任務をおろそかにはしない。この苦しき恋を育んだ日の本の国を愛するが故に……」 これを受けた僕の頭脳の中は、何がなんだか妙な気持に捉われました。僕等の受信が終ったのを見届けると将校達は二人の兵士を残して僕の室を辞去しました。その二人の兵士は直ぐ様、僕の下宿の門に歩哨に立ちました。 翌日早朝僕は憲兵隊へ呼ばれて終日くどくどした訊問を受けねばなりませんでした。その夜は隊へ宿泊を余儀なくされ、其の翌日僕はやっと帰宅を許されました。セントー・ハヤオの事が気がかりで飛ぶように下宿の門をくぐりました。僕の室に入ってみますと、下宿の内儀が普段大事にしている座蒲団が五枚も片隅にうず高く積み重ねられているのを発見した時、僕は万事を直感してしまった。内儀に訊すと果せるかな、僕が前日憲兵隊に引留められている間、数名の将校が僕の室を占領し、昨夜は一同眠りもやらず徹夜し、今朝がたになってやっと引上げて行ったとの事でした。僕は不愉快でたまりませぬ。しかしセントー・ハヤオのことが一層気にかかるので大急ぎで短波長の送受信機の前に座って受話器を耳に当てたり、送信機の電鍵を叩いたりしましたが、機械はたしかによく作働しているのにも拘らず、何時まで経ってもセントー・ハヤオの打ち出す無線電信の応答は聞こえませんでした。かくして夜に入りました。依然として何の信号も入って来ませぬ。そして空しく其の夜は明けはなれて行きました。 僕は其の日に例の将校連が来るかと不眠に充血した眼を怒らして待ちうけましたが、誰一人としてやって来ません。勿論歩哨の兵士すら居ませぬ。僕は到頭腹を立てて仕舞って、こっちから憲兵隊へ押しかけました。ところが驚いたことには、何と言っても僕を例の将校達に会わせないのです。そればかりか遂には僕をありもしない妄想に駆られている人あつかいにして警官を呼ぼうなどと言うではありませぬか。僕は泪をポロポロ流し乍ら、その下宿へ引きかえさねばなりませんでした。 それからと言うものは、このことが頭にこびりついて、君も知るとおりの神経衰弱のようになって仕舞いました。しかし僕の一念は何としてもセントー・ハヤオの不思議な通信によって暴露した事実をつき留めずには居られませんでした。僕はそれから約一年を辛抱しました。そして夏になるのを待ち兼ねて、セントー・ハヤオが報じたN県東北部T山をK山脈へ向う中間の地点へ登攀しました。其処近辺を幾日も懸ってすっかり調べ上げました。背の高い雑草には蔽い隠されていましたが、彼のセントーが物語ったような地形ではあり、又そぎ取ったような断崖もありました。 いやそればかりではありませぬ。ところどころに直径が三間もあろうと思われる穴がポカポカとあちらこちらにあいているではありませぬか。勿論穴の中には同じような青草が生え茂っていますが、此のような穴は天然に出来たとはどうしても考えられませぬ。それは恰も空中からこの地点へ向って数多の爆弾を投下したならば、かような大穴があくことであろうと思ったことでした。 本当は僕には、此の山の奥に訪ね登って来る迄に何もかも判っていたのです。僕の考えでは、僕の留守の室に将校達が詰めかけていた時こそは、正に敵国人が秘密防禦要塞を作っていた此の山奥の地点を、わが陸軍の飛行隊が空中から襲撃を行ったときに当るのであって、憎むべき侵略者の一団は悉く飛行機から打ち落す爆弾によって殺害せられたのです。而も我がセントー・ハヤオを救い出す道なく、大事のための小事で、遂に尊き犠牲となり、憎むべき敵国人の死骸の間に、同じようなむごたらしい最後を遂げたのでしょう。ほんとに尊い死。――彼は完全に祖国を救ったのでした。しかも彼の死たるや僕に洩したとおりとすれば彼の側には愛人の骸も共に相並んで横ったことであろうと思われます。彼は恐らく可憐な愛人と抱きあったまま満悦の裡に瞑目したことでしょう。 その時、僕が掘りあてたのは、この半ば爆弾に溶かされた加減蓄電器であって、セントー・ハヤオが死の直前まで、電鍵をたたきつづけた其の短波長送受信機に附いていたものであるに違いありません。云々。 * * * * 亡友Y――は斯う語って、この壊れた加減蓄電器を私に手渡したのです。ひどい肺結核に襲われている彼の細い腕は、その時このバリコンをすらもち上げる力が無かったようでした。それもその筈です。この物語を聞いた日から三日のちにY――の容態は急変して遂に白玉楼中の人となってしまったのでした。 さて私の永話はこれで終りますが、貴君はこのはなしが彼の言うとおり実際あったことかどうかについて御判断がつきますか。御つきになるなればそれを誰からか、はっきり判断して貰いたがっていた亡友Y――の追善のために、是非貴君の御意見というのを聞かせて下さいませんか。
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