というところで、梅野十伍は後を書きつづけるのが莫迦莫迦しくなって、ペンを置いた。彼は好んでミステリーがかった探偵小説を書いて喝采を博し、後から「ミステリー探偵小説論」などを書いて得意になったものであったが、これではどうも物になりそうもない。彼は火の消えてしまった煙草にまたマッチの火を点けて一口吸った。 そのとき彼がちょっと関心を持ったことがあった。それはいま書いた原稿の中に、 「――いつぞや鏡の中に自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、口吻がなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のような粗い髯が生えているところが鼠くさい!」 と書いたが、彼はなぜこんなことを考えついたのだろうと不審をうった。 さっき鼠が天井裏で暴れはじめたのを、時にとっての福の神として、鼠の話などを原稿に書きだした件はよく分る。しかしその鼠の話を、そんな風に主人公の顔が鼠に似ているという話にまで持っていったについては、何かワケがなくてはならぬ。凡そワケのない結果はないのである。そのモチーフは如何なる筋道を通って発生したのであろう。 ひょっとすると、これは梅野十伍自身は自覚しないのに彼の顔が鼠に似ていて、それでその潜在意識が彼にこんな筋を作らせたのではなかろうか。そうなると彼は急に気がかりになってきた。その疑惑をハッキリさせなければ気持が悪かった。 彼は時計がもう午前三時になっているのに気がつかないで側らの棚から手文庫を下ろした。その中には円い大きな凹面鏡が、むきだしのまま入っているのである。彼はそれに顔を写してみる気で、手文庫の蓋に手をかけたが――ちょっと待て! 明るいスタンドの下とは云え、この深夜に唯一人起きていて、自分の顔を凹面鏡に写してみて、それで間違いはないであろうか。もしその鏡の底に、彼のテラテラした赭ら顔が写り出せばいいが、万一まかり違って、その鏡の底に顔一面毛むくじゃらの大きな鼠の顔がうつっていたとしたら、これは一体どうなるのだろうか。 そう思うと、急に彼の手はブルブルと慄えはじめた。手文庫の蓋がカタカタと鳴りだした。彼の背筋を、氷の刃のように冷いものがスーッと通りすぎた。彼は開けようと思った手文庫の蓋を、今度は開けまいとして一生懸命に抑えつけた。それでもジリジリと恐怖は、彼の両腕を匍いあがってくるのであった。彼はもうすっかり怯えてしまって、とうとう横手の窓をポーンと明けると、鏡を手文庫ごと窓外に放りだした。闇の中に冷雨にそぼぬれていた熊笹がガサッと、人間を袈裟がけに切ったような無気味な音を立てた。彼は慌てて窓を締めてカーテンを素早く引いた。 机の前の時計は午前三時を大分廻っていた。彼はまた煙草を口に咥え、今度は原稿用紙の上に頬杖をついて考えこんだ。 さっきの妖婆アダムウイッチの話をもっと書くのだったらそれから先に或るアイデアがないでもなかった。――すなわち、作中の主人公梅田十八が遂に意を決して妖婆を殺そうとする。城内から大きな沢庵石――は、ちと可笑しいから、大きな石臼を見つけてきて、これを目の上よりも高くあげて、寝台に睡る妖婆の頭の上にドーンとうちつける。ギャーッと一声放ったが、この世の別れ、妖婆の呼吸が絶えると、梅田十八の姿は一寸ぐらいの小さな二十日鼠の姿となって――一寸はすこし短かすぎるかな、とにかく正確なところは後で索引付動物図鑑を引いてということにして「寸」の字だけで、数字は消して置こう。 しかし、そこで妖婆を殺してしまったのでは、小説として一向面白くない。もっと妖婆の妖術を生かさなければ損である。 では、こうしてはどうであろうか。主人公梅田十八はお城へ探検になど来なかったことにする。 彼は原稿の債務なんかすっかり片づけてしまって、のうのうとした身体になっている。そこへ彼が口説いてみようかと思っている近所の娘さんが臙脂色のワンピースを着て遊びにやってくる。 そこで梅田十八は、ルリ子――娘さんの名である――を伴って散歩に出かける。二人は歩き疲れて、月明るき古城を背にしてベンチに並んで腰を下ろす。そしてピッタリと寄りそい甘い恋を囁きかわすのだった。 ところが城の中にいた妖婆アダムウイッチが遥かにこれを見て、大いに嫉妬する。そしてたまりかねて、自暴酒を呑む。あまりに酒をガブガブ呑んだので、蒟蒻のように酔払って、とうとう床の上に大の字になって睡ってしまう。 お城の下では、十八とルリ子が、あたり憚らずまだピッタリと抱き合って恋を語っている。月が西の空に落ちたのも知らない。そのうちに東の空が白み、夜はほのぼのと明けはじめ(ああ夜が明けはじめるなんて、くだらないことを思いついてしまったものだ。本当に夜はまだくろぐろと安定しているのであろうな。カーテンを開いて窓の外を覗いてみよう。うむ今のところ、まだ大丈夫である) 若き二人の抱き合っている傍には、大きな柘榴の樹があって、枝にはたわわに赤い実がなっている。その間を早や起きの蜂雀の群がチュッチュッと飛び戯れている。まるで更紗の図柄のように。 お城では妖婆アダムウイッチが、床の上に仆れたまま、まだグウグウ睡っている。電気時計の指針は、もう午前六時を指している――また禁句禁句――のに、彼は目が覚めない。受信機のスイッチをひねって置けば、この辺でラジオ体操が始まり、江木アナウンサーのおじさんが銅羅声をはりあげて起してくれるのだが――彼、梅野十伍はいつもそうしている。但し床から離れるのは彼ではなくて、小学校にゆく彼の子供である。彼はラジオ体操を聴けば安心して、更にグウグウ睡れるのである。――生憎妖婆は前の晩に深酒をして、寝るときにスイッチをひねっておくことを忘れたので、ラジオ体操が放送されていても彼の妖婆には聞えなかった。そんなわけでとうとう妖婆は午前六時に唱うべき天帝に約束の三度の呪文をあげないでしまう。 その結果は、お城の下にどんな光景を演出するに至ったであろうか。 ルリ子はうららかな太陽の光を浴びながら、梅田十八と抱き合っているうちに、急に梅田の身体が消えてしまって、弾みをくって瞠とベンチの上に長くなって仆れる。そのとき彼女の身体の下から、二十日鼠が飛びだした。そしてその二匹の二十日鼠が、チョロチョロと向うへ逃げてゆく、二匹の二十日鼠と書くと読者は、彼作者が寝呆けて一の字を二の字に書いてしまったと思うかもしれない。しかし読者は間もなく後悔するに違いない。作者はこんな風にそのところを書く。―― 「――もちろん一匹の二十日鼠は、哀れな梅田十八の旧態にかえった姿だった。他の一匹は臙脂色のワンピースが旧態にかえった姿だった。ルリ子は自分が白日の下に素裸になっているのも知らず、ベンチから立ち上った」 と、するのである。 その辺で、きっとニヤリと口を曲げる読者が一人や二人はあるに違いない。 作者の彼にとっても、あまり悪い気持がしないのであったけれど、これでは探偵小説にはならない。 「ほう、もう四時だ。これはいけない」 原稿を書くことを忘れて、うっかりいい心地になっていた梅野十伍は、時計の指針を見て急に慌てだした。彼は随分時間を空費した、早く書き出さねば間に合わない。探偵小説、探偵小説、探偵小説ヤーイ。 探偵小説ということについては、なかなか喧しい定義がある。梅野十伍は、普段そんな定義にあまりこだわらない方であるが、この際は原稿大難航の折柄のこととて、一方の血路を切り開いて兎も角も乗り切ることが第一義であった。一応その定義に服従して、結果を出すのがいいであろう。 学説に拠れば探偵小説とは謎が提供され、次に推理によってその謎を解く小説のことである。つまりここに一つの謎があって、その謎を構成している諸材料に関する常識乃至は説明だけの知識でもって、その知識の或る部分を推理によって適当に組合わせてゆくとそこで謎が解けるそのような推理体系を小説の形で現わしたものが探偵小説だというのである。 鼠の顔を推理で解いて、果してどういう答がでるだろうか。 「鼠の顔とかけて、何と解きなはるか」 「さあ何と解きまひょう。分りまへんよってにあげまひょう」 「そんなら、それを貰いまして、臥竜梅と解きます」 「なんでやねン」 「その心は、幹(ミッキー)よりも花(鼻)が低い、とナ」 これは単なる謎々であって、探偵小説ではない。第一その謎を解く鍵が、至極フェアとまではゆかない。無理な着想を強いる。 もしこれが探偵小説の形で発表されていたにしても、その点で優等品とはゆかない。そうした欠点は、この謎を作るときに建てた推理が謎を解くときの推理と全く逆であるところに無理がある。つまり素直なる順序によってこの「鼠の顔」の謎を解いたわけではなかったのだ。逆ハ必ズシモ真ナラズとは、中学校――もちろん女学校でもいいが――で習う幾何の教科書に始めて現れるが、上記の場合は正に必ズシモの場合なのである。 「鼠の顔」の謎を拵えるというので、まず鼠に因むものはないか考えた。そしてミッキーを得た。――ミッキー・マウスではすこし長すぎて手に負えない。 それが決まると、ミッキーと「鼠の顔」との連鎖事項を考える順序となる。但しその連鎖事項たるや同時に「鼠の顔」とは全く違う他のものを説明するものでなければならぬ。ここに至ればもう運と常識の戦争である。幸い臥竜梅を早く思いついたから、それで謎は出来上ったことにしたわけだが、その連鎖事項がすこし薄弱性を帯びていることを否み得ない。 謎々はこうして出来上ったが、前にも云ったとおり、謎の答から謎の説明を考究していったのだから、その謎を解くとき「鼠の顔」の連鎖事項を探して、謎の答を推理してゆくのとはちょうど逆の順序になる。そこに逆ハ必ズシモ真ナラズが侵入する余地があるのである。 ――と、かれ梅野十伍は二、三枚の原稿用紙を右のように汚したが、これは探偵小説じゃないようだ。けっきょく探偵小説論の小乗的解析でしかないから、こんなものを編集局へさし出すわけには行かない。 彼は折角書いた原稿用紙を鷲づかみにすると、べりべりと破いて、机の下の屑籠のなかにポイと捨てた。始めからまた出直しの已むなき仕儀とはなった。しかし彼は、さっきまでのように、時計の指針をあまり気にしなくなった。ソロソロ小説書きの度胸が据わってきたのであろう。 ――女流探偵作家梅ヶ枝十四子は、先日女学校の同窓会に招ばれていって、一本の福引を引かされた。それを開いてみると、沂水流の達筆で「鼠の顔」と認めてあった。 「十四子さん、貴女の福引はどんなの、ね、内緒で見せてごらんなさいよ」 「――エエわたくしのはホラ『鼠の顔』てえのよ」 「アラ『鼠の顔』ですって、アラ本当ね。まあ面白い題だわ、なにが当るんでしょうネ」 「さあ、わたくしは皆さんと違ってまだチョンガーなんだから、天帝もわたくしの日頃の罪汚れなき生活を嘉したまい、きっと素晴らしい景品を恵みたまうから、今に見ててごらんなさい」 「まあ、図々しいのネ、近頃の処女は――」 (探偵作家梅野十伍は罪汚れ多き某夫人に代ってニヤリと笑い、ここでまたペンを置いた。そして紙巻煙草に手を出した) 幹事森博士夫人と谷少佐夫人とによって福引が読みあげられ、それぞれ奇抜な景品が授与されていった。そのたびに、花のような夫人たち――たちと書いたのはなかに『処女』も一人加わっていることを示す(探偵作家は万事この調子で、些細なることもおろそかにせず、チャンと数学的正確さをもって記述してゆくよう、習慣づけられているものである)――そこで夫人たちが女生徒時代の昔に帰ってゲラゲラとワンタンのように笑うのだった。(ワンタンのように――は誰かの名文句を失敬したものである。作家というものは、それくらいの気転が利かなきゃ駄目だと、梅野十伍は思っている。しかし一々こう註釈が多くては物語が進行しない。今後は黙ってズンズン進行することに方針変更) いよいよ「鼠の顔」が高らかに読みあげられた。
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