地上の地獄
ウウウーと、物凄い唸声をあげて、真赤な消防自動車が、砲弾のように坂を駈け上っていった。麻布の方に、烈々たる火の手が見える。防毒面をつけた運転手は、防毒面の下で半泣になっていた。それは爆弾がこわいわけではなかった。早く火元へ駈けつけたくても、あわて騒ぐ市民がウロウロ道に出てくるので、あぶなくて思うように運転が出来ないからだった。あッ、また向こうの横町から洋装の女がとびだしてきた。 「あぶない!」 運転手はわめいた。サイレンは、さらに猛烈に咆えたって、女の前をすれすれに駈けぬけた。 燃えやすい帝都に、一箇所でも火災をだすことは、この際一番おそろしい。ぜひとも早く消しとめなければならないと、消防隊は一生懸命なのだった。 火事はお邸町だった。 消防隊員はバラバラととびおりて、直ちにホースを伸ばしていった。物凄い火勢だ。どうして焼夷弾を消さなかったんだろう。 「……実にけしからん」 と小頭が頭をふって怒りだした。 「この辺の邸は、どこも逃げてしまって、なかには犬っころがいるだけだ。実にけしからん。だから焼夷弾が落ちても、誰も消手がないのだ。非国民もはなはだしい!」 消防隊員を憤慨させたこの辺一帯の避難民はどうなったであろうか。彼等は甲州の山奥に逃げこむつもりで、新宿駅に駈けつけたが、たちまち駅の前で立往生をしてしまった。あまりに夥しい避難民が押しよせたので、もう身動きもできなかった。駅員の制止も聞かばこそ、改札口をやぶり、なだれをうって一部はプラットホームに駈けあがり、そこに停車していた列車にわれがちに乗りこんだが、そこでも百人近い死傷者が出た。 列車の中にはいれない人は、窓の外にぶら下り、屋根の上によじのぼった。 それは地獄絵巻のように、醜くも恐ろしい光景だった。……そんなに努力して乗りこんだのはいいが、列車は遂に発車しなかった。防衛司令部が警備の目的のため、列車の出発を中止させたのだ。 ところが、悪いときには悪いことが重なるもので、そのうちに、こちらへ廻って来た敵機が、おびただしい爆弾と、焼夷弾とを投げおとして、新宿駅のまわりは、たちまち火の海となってしまった。 消防隊も、防護団も、ぎっしりの群衆に邪魔されて手の下しようがなく、アレヨアレヨと、死人のふえるのを見ていなくてはならなかった。 まったく恐ろしいのは共同の精神をうしなった群衆だった。
敵機は去ったが
「ウム、また次のやつが来るかも知れない。六十三機というのが、さっきは三機だけだったからな。まだ油断はならんぞ!」 防護団といわず、女子供といわず、みな不安にみちた眼をあげて空を仰いでいる。 「ラジオはどうしたッ」 鍛冶屋の大将がどなった。少年団の一人が天幕の中へかけこんだ。……が、すぐ真青になって、天幕からとびだしてきた。 「班長、駄目です!」 「駄目? なにが駄目だッ」 団員はハッとして、少年の方を見た。 「……ラジオが鳴らないんです」 「鳴らない! 壊れたのかな」 「班長!」 と旗男がいった。 「これは、きっと送電線が爆弾にやられて、ラジオが駄目になったのですよ」 「ラジオが駄目になったとは困った」 といって天幕の中に入っていったが、気がついて電話をかけてみた。大将の顔が、また暗くなった。 「どうしたの」 「いや、電話も駄目だ。電線はみなやられたらしい……さあ大変、これじゃ大事な耳も眼も利かなくなったも同然だ」 「するとサイレンも鳴らないんだな」 「これはいかん……」 団員一同は、離小島に残されたような心細さを感じた。 そのとき一台の自動車がやって来て、中から見なれない背広服の男がおりて来た。そして天幕の方へツカツカと寄ってくるなり、 「……皆さん、大変ですよ。いま暴動が起っている。下谷、浅草、本所、深川、城東、向島、江戸川などの方から数万の暴徒が隊を組んでやって来る。帝都を守れなかった防護団員を皆殺しにするのだといっている。早く逃げないと、皆さんは殺されちまいますよ……」 「えッ!」 団員はハッと驚いて、互に顔を見合わせた。そんなことが起っているのか? 俺たちはこんなに闘ったのに、それだのに殺されなければならぬのか。これを聞いて泣きだした少年もあった。 「流言だよ。そんなはずはない!」 と旗男は叫んだ。 「いや、本当かも知れない!」 図体の大きいわりに、気の弱いパン屋のおやじさんが、半分かじったパンを手にもったまま、泣きだしそうな声をだした。 「どうすればいいんだ?」 鍛冶屋の大将も、これには途方に暮れてしまった。同士討なんて、考えたこともなかった。ラジオも電話も不通では、この騒はさらに大きく広がってゆくだろう。だが、旗男は、見なれない背広男の言を、どうしても信ずることが出来なかった。――数万人の暴徒が防護団員を殺しにくるなんて、そんなバカバカしいことがあるものか。 「そうだッ……」 旗男はふと気がついた。 送電が停っても、ちゃんと働く電池式受信機をもっていたことを思い出したのだ。放送局の非常用発電ガソリンエンジンも停っていればしかたがないが、もしエンジンが働いていて放送をやっているとしたら、旗男の受信機には入ってくる筈だった。――彼は、たちさわぐ団員のところを少し離れて、肩にかけた受信機を開き、受話器を耳にあてて、ダイヤルを廻した。とたんに旗男の顔が林檎のように輝いた。 「おお、放送をやっている。うん聞えるぞ!」 旗男は地獄で仏に会うの思だった。前もって電池式受信機を作っておいてよかった。非常時には、ぜひともこれがいる! 受話器から出てくる声は小さいが、まぎれもなく、なじみ深い中内アナウンサーの声……。 「……以上申し上げましたようなわけで、S国空軍の三機もわが勇猛果敢なる防空飛行隊、高射砲隊によってついにとどめを刺されました。太平洋に逃げたものは、なお追撃中でございますが、これはもう燃料もあまりありませんので、その最期のほどは知れております。とにかく今回の大空襲で、帝都の被害が案外すくなかったのは、平素からの防空訓練の賜であることは明かであります。東京は只今、二、三火災の所はありますが、一体に静穏であります。防護団にあると家庭にあるとを問わず、この防空第一線を死守されました皆様に、衷心から敬意を表して放送を終ります。JOAK」 「あッ!」 旗男はあまりの嬉しさに、しばらくは口もきけなかった。 ああ、ついにS国の日本空襲部隊は、わが防衛軍のため全滅されてしまったのだ。 しかも、空襲の損害は意外に小さいものだという。これを聞いたら、敵国の将兵は口惜し涙にくれるだろう。 それだのに、これは何ということだ……かの自動車に乗って、怪しいことをいいふらしてゆく背広男! 「おお、旗男君。生きていたね」 突然に、旗男の肩を叩いたのは、自転車にのって、坂を駈けおりて来た少年――鍛冶屋の大将の子、兼吉だった。 「ああ、兼ちゃん。君が見えないので、どうしたのかと思っていた」 「あッはッはッ。姉さんが中央電話局から帰って来ないので、心配だから行ってみたんだよ」 「どうだったい……無事だったかい」 「ウン。無事だった。五十人の交換手が、みんな死ぬ覚悟で交換台を守っていたよ。警報の連絡に大手柄をたてたんだとさ。姉さんなんか、大した元気だった」 旗男は一瞬間、直江津の姉たちの安危を思った。焼崩れる家の下敷になったような気がするが、助ったろうか、それとも……。いや、今はそんなことを考えている時ではない! 眼前に、大変な流言を吐いている国賊がいるのだ! 「ねえ兼ちゃん。向こうで皆を集めてしゃべっている背広男がいるだろう。あいつけしからん流言をはなっているのだよ」 「どれどれ、あッ、あいつだ。あいつはスパイだよ。さっき丸の内でも、暴徒が品川の方から数万人も押しよせてくるから逃げろといっていた。防護団の人達が捕らえようとすると逃げだした。あいつはお尋者なんだ」 「そうか。そんなひどい奴か。ラジオや電話が切れたと思って、市民の心を乱してゆこうというのだな。よォし、じゃあ兼ちゃんと二人して、あの悪漢を捕らえてやろうじゃないか」 「うしろからいって、二人で彼奴の足を一本ずつ引きたおそう!」 敵国のために、人心を乱そうとしたスパイは、二少年によってあばかれ、防護団員に縛りあげられてしまった。団員は大喜びだった。その上、敵の空襲部隊が全滅したというラジオ・ニュースを旗男から聞いたので、防護団員は、その場に躍りあがって喜んだ。そして一斉に万歳を唱えた。 ああ遂に、帝都は救われた。大日本帝国の危機は遂に救われたのだ。 * それから三日して、旗男のところには二つの大きな快報が舞いこんで、彼を有頂天にさせた。 一つは、直江津の姉露子と可愛い正坊が、無事にたすかって、今は小学校の避難所に収容されているという手紙が届いたことだった。 「姉さんと正坊、万歳!」 それからもう一つの快報は、わが精鋭なる爆撃隊が、突如S国に侵入し、やがて、第二の日本大空襲を準備しつつあった敵の空軍根拠地を散々にやっつけてしまったことだった。S国は、この勇猛なる爆撃のため、再び日本空襲をする力を全く失ってしまった。またS国の参謀本部の中にも、日本人の防空訓練の行きとどいていることをあげて、たとい何百機の爆撃機があろうとも、この上、日本を空襲することは無駄であるという説が盛んになってきたという。 この話は、最近大尉に昇進して、高田の防空飛行隊附に栄転した義兄川村国彦中尉ではなかった川村大尉からの知らせだった。 「義兄さん、万歳! 防空飛行隊、万歳!」
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