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恐怖の口笛(きょうふのくちぶえ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-24 11:29:23 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 海野十三全集 第2巻 俘囚
出版社: 三一書房
初版発行日: 1991(平成3)年2月28日
入力に使用: 1991(平成3)年2月28日第1版第1刷
校正に使用: 1991(平成3)年2月28日第1版第1刷

 

 時刻とき


 秋も十一月に入って、お天気はようやくくずれはじめた。今日も入日いりひは姿を見せず、灰色の雲のまくの向う側をしのびやかに落ちてゆくのであった。時折サラサラと吹いてくる風の音にも、どこかに吹雪ふぶきの小さな叫び声がまじっているように思われた。
 いま東京まるうちのオアシス、日比谷ひびや公園の中にも、黄昏たそがれの色がだんだんと濃くなってきた。秋の黄昏れどきは、なぜこのように淋しいのであろう。イヤ時には、ふッと恐ろしくなることさえある。云い伝えによると、街の辻角つじかどや林の小径こみちで魔物に逢うのも、この黄昏れ時だといわれる。
 このとき公園の小径に、一人の怪しい行人こうじんが現れた。怪しいといったのはその風体ふうていではない。彼はキチンとした背広服を身につけ、型のいい中折帽子を被り、細身の洋杖ケーンを握っていた。どうみても、寸分の隙のない風采ふうさいで、なんとなく貴族出の人のように思われるのだった。しかし、その上品な風采に似ずその青年はまるで落付きがなかった。二三歩いってはキョロキョロ前後を見廻わし、また二三歩いっては耳を傾け、それからまたすこし行っては洋杖ケーンでもって笹の根もとを突いてみたりするのであった。
「どうも分らない」
 青年は小径の別れ道のところに立ち停ると吐きだすようにつぶやいた。そして帽子をとり、額の汗を白いハンカチーフで拭った。青年の白皙はくせきな、女にしたいほど目鼻だちの整った顔が現れたが、その眉宇びうの間には、隠しきれない大きな心配ごとのあるのが物語られていた。――彼はさっきから、懸命になって、何ものかを探し求めて歩いていたらしい。
「どうして、こんなに胸騒ぎがするのだろう」
 青年は心の落付きをとりかえすためであろうか、ポケットから一本の紙巻煙草シガレットをとりだすと口にくわえた。マッチの火がシューッと鳴って、青年のあごのあたりを黄色く照らした。夕闇の色がだんだん濃くなってきたのだった。
 いま青年の立っているところは、有名な鶴の噴水のある池のところから、洋風の花壇の裏に抜けてゆく途中にある深い繁みであった。小径の両側には、人間の背よりも高い笹藪ささやぶがつづいていて、ところどころに小さな丘があり、そこには八手やつで五月躑躅さつきが密生していて、隠れん坊にはこの上ない場所だったけれど、まるで谷間に下りたような気持のするところだった。――青年は何ともしれぬ恐怖に襲われ、ブルブルッと身をふるわせた。気がつくと、銜えていた紙巻煙草シガレットの火が、いつの間にか消えていた。
 そのとき、何処からともなくヒューッ、ヒューッ、とあやしき口笛が響いてきた。無人境むにんきょうに聞く口笛――それはなつかしくなければならない筈のものだったけれど、なぜか青年の心をおびやかすばかりに役立った。聞くともなしに聞いていると、なんのことだ、それは彼にも聞き覚えのある旋律メロディであったではないか。それはいま小学生でも知っている「赤いいちごの実」の歌だった。この日比谷公園から程とおからぬ丸ノ内の竜宮劇場りゅうぐうげきじょうでは、レビュウ「赤いいちごの実」を三ヶ月間も続演しているほどだった。それは一座のプリ・マドンナ赤星あかぼしジュリアが歌うかのレビュウの主題歌だった。
「誰だろう?」
 青年は耳をそばだてて、その口笛のする方をうかがった。それは繁みの向う側で吹きならしているものらしいことが分った。
「……あたしの大好きな
   真紅まっかいちごの実
   いずくにあるのでしょ
   いま――
   欲しいのですけれど」
 青年は心配ごとも忘れて、その美しい旋律メロディの口笛に聞き惚れた。まるでローレライのように魅惑的な旋律だった、そして思わず彼も、「赤い苺の実」の歌詞を口笛に合わせて口吟くちずさんだのであった。……しかし、やがて、その歌の中の恐ろしい暗示に富んだ歌詞に突き当った。
「……別れの冬木立ふゆこだち
   遺品かたみにちょうだいな
   あなたの心臓を
   ええ――
   あたしは吸血鬼……」
 赤い苺の実というのは、実は人間の心臓のことだと歌っているのである。ああ、あたしは吸血鬼!
 青年紳士はハッと吾れにかえった。にぎやかな竜宮劇場の客席で聞けば、赤星ジュリアの歌うこの歌も、薔薇ばらの花のようにあでやかに響くこの歌詞ではあったけれど、ここは場所が場所だった。黄昏の微光にサラサラと笹の葉が鳴っている藪蔭である。青年はその背筋が氷のようにゾッと冷たくなるのを感じた。
 と、――
 その刹那せつなの出来ごとだった。
 キ、キャーッ。
 突如、絹を裂くような悲鳴ひめい一声いっせい
ッ、――」
 それを聞くと青年紳士は、その場に棒立ちになった。悲鳴の起った場所は、いままで口笛のしていたところと同じ方向だった。大変なことが起ったらしい。青年紳士の顔色は真青まっさおになった。
 彼は突然身を躍らせると、柵を越えて笹藪の中に飛びこんだ。ガサガサと藪をかきわけてゆく彼の姿が見られたが、しばらくするとそのまま引返して来た。そしてまた小径に出て、こんどはドンドン駈けだした。どうやら竹藪の中は行き停りだったらしい。口笛はまだかすかに鳴っている。
 随分遠まわりをして、彼はやっと口笛のしていた場所へ出ることが出来た。それは悲鳴を聞いてから四五分ほど経ってのちのことだった。
「……?」
 さて此処ぞと思う場所に出たことは出たけれど、そこには葉のよく繁った五月躑躅さつきがムクムクと両側に生えているばかりで、小径はいたずらに白く続き、肝腎かんじんの人影はどこにも見当らなかった。彼はなんだか夢をみていたのではあるまいかという気がした。
 しかし彼は確かに悲鳴を自分の耳底に聞いたのだった。そして悲鳴などは、いまの彼として聞いてはならぬものだった。なぜならこの青年紳士は、先刻さっきから一人の肉親の弟を探しまわっているのであったから。
 なぜこの紳士は、弟を探廻さがしまわらなければならなかったか? それは後に判ることとして、今作者は、この場を語るにもっと急であらねばならないのだ。
 彼はすこし気が落ちついたのであろうか、こんどはしっかりした態度に帰って、あたりを熱心に探しだした。ここの繁み、かしこの繁みと探してゆくうちに、とうとう彼は一番こんもりと繁った五月躑躅の蔭に、悲しむべき目的物を探しあてたのだった。それは小径の方に向いてヌッと伸びている靴を履いた一本の足だった。
「おお、――」
 青年紳士は、その場に化石のようになって、突立つったった。


   二重にじゅう致命傷ちめいしょう


 青年紳士は暫くしてから気を取り直すと、静かに芝草の中へ足を踏みいれた。そして屍体したいの方に近づいて、その青白い死顔をのぞきこんだ。
「おお、四郎……」
 と、彼ははらわたからふり絞るような声で、愛弟あいてい生前せいぜんの名を呼んだ。
 ああ、何という無惨!
 五月躑躅さつきの葉蔭に、学生服の少年が咽喉のどから胸許むなもとにかけ真紅まっかな血を浴びて仰向おあむけにたおれていた。青年は芝草の上に膝を折って、少年の脈搏を調べ、まぶたを開いて瞳孔どうこうを見たが、もう全く事切れていた。そして身体がグングン冷却してゆくのが分った。
 兄は悲しげにハラハラと落涙らくるいした。
「死んでいる。……四郎、お前は誰に殺されたのだ」
 屍体は肉親の兄西一郎にしいちろうにめぐりあい、おのれをほふった恨深い殺人者について訴えたいように見えたが屍体はもう一と口も返事することができなかった。
 兄の一郎は涙を拭うと、血にまみれた屍体を覗きこんだ。そのとき彼は屍体のあごのすぐ下のところに深い、みぞができているのを発見した。よく見ると、その溝の中には細いはがねの針金らしいものが覗いていた。
「おや、これは不思議だ。絞殺されたのかしら」と一郎は目をみはった。「それにしても、胸許を染めている鮮血せんけつはどうしたというのだろう」
 絞殺に鮮血がきでるというのは可笑おかしかった。なにかこれは別の傷口がなければならない。一郎は愛弟四郎の屍体に顔を近づけた。そして注意ぶかく、屍体の頭に手をかけると首をすこし曲げてみた。
「ああ、これは……」
 屍体の咽喉部は、真紅な血糊ちのりでもって一面にむごたらしくいろどられていたが、そのとき頸部けいぶの左側に、突然パックリと一寸ばかりの傷口が開いた。それは何できずつけたものか、ひどく肉が裂けていた。その傷口からは、待ちうけていたように、また新しい血潮がドクドクと湧きだした。一郎はハッと屍体から手を離した。血潮は頸部を伝わって、スーッと走り落ちた。――何者かが頸動脈けいどうみゃくを切り裂いたのに違いなかった。
「なんという惨たらしい殺し方だ。頸を締めたうえに、頸動脈まで切り裂くとは……」
 だが、これは随分御丁寧な殺し方である。それほど四郎は、人のうらみを買っていたのだろうか。いやそんな筈はない。誰にも好かれる彼に、そんな惨酷な手を加える者はないはずだった。――一郎は、不審にたえない面持で、もう一度創傷きりきずを覗きこんだ。その結果、彼は屍体の頸部に恐ろしいものを発見した。恐ろしい人間の歯のあとを!
 それは傷口に近い皮膚のうえに残っている深い歯の痕だった。一つ、二つ、三つと、三ヶ所についていた。もう一つの歯痕は見えなかった代りに、当然そこに歯痕のあるべき皮膚面がえぐったように切れこんでいた。恐らく上顎の糸切歯いときりばがここに喰いこんで、四郎少年の皮膚と肉とを破り、頸動脈をさえ喰い切ったのであろう。ああ、何者の仕業であろう。人間を傷つけるに兇器きょうきにこといたのかはしらぬが、歯をもってみ殺すとは何ごとであるか。まるでけもののような殺し方である。大都会の真中にこんな恐ろしい獣人じゅうじん出没しゅつぼつするとは有り得ることだろうか。一郎は自分の眼を疑った。
にくい奴、非道ひどい奴!――こんなむごたらしい殺し方をしたのは、何処の何者だッ」
 このとき一郎は、さっき聞くともなしに聞いた口笛のことを思い出した。その口笛が弟の惨殺事件になにか関係のあるだろうということは、もっと早く思い浮べなければならなかったのだけれど、彼はあまりに悲しい場面に直面して、ちょっと忘れていたのであろう。
「そうだ、あの口笛は誰が吹いていたのだろう?」
「赤い苺の実」の歌――それは、ひょっとすると、殺された弟が吹いていたのかも知れないと思った。
「イヤ弟ではない――」
 あの怪しい口笛は、弟の発したらしいキャーッという悲鳴の前にも聞えていたが、それからのち彼が繁みの小径を探そうとして一生懸命になっているときにも、どこからともなく耳にしたではないか。殺された人間が口笛を吹くはずがない。――では口笛を吹いていたのは何者だ。
「ウム、その口笛の主が、弟を殺した獣人に違いない!」
 そうだ、あの「赤い苺の実」の歌というのは実は「吸血鬼」の歌なのだ。第五節目の歌詞には「あなたの心臓をちょうだいな、あたしは吸血鬼」といったような文句があるではないか。竜宮劇場の舞台からあでやかな赤星ジュリアの歌を聴いているような気持で、あの悲鳴入りの口笛を聴き過ごすことはできない。吸血鬼の歌を口笛に吹いた奴が、あの殺人者に違いあるまい。ひょっとすると、あの妖しい歌に誘われ、蝙蝠こうもりのようなはねの生えた本物の吸血鬼がこの黄昏の中に現われて、その長い吸盤きゅうばんのようなとがった唇でもって、愛弟の血をチュウチュウと吸ったのではあるまいかと思った。とにかく悲鳴がしてから四五分経って駈けつけたのだから、まだその附近に、恐ろしい吸血鬼がひそんでいるかも知れない。
「よオし。愚図愚図ぐずぐずしていないで、その吸血鬼をとらえてやらねばならん」
 西一郎は咄嗟とっさに決心を固めた。そして彼は身を起すと、芝草を踏んで、小径の方へ駈けだした。
「こーら、出てこい。人殺し、出てこい。……」
 彼は阿修羅あしゅらのようになって、ここの繁み、かしこの藪蔭に躍り入った。彼の上品な洋袴ズボンはところどころ裂け、洋杖ケーンを握るこぶしにはきずができて血が流れだしたけれど、一郎はまるでそれを意に留めないように見えた。
 公園の東の隅には、元の見附跡みつけあとらしい背の高い古い石垣がそびえていた。ここはあまりに陰気くさいので、いかに物好きな散歩者たちも近よるものがなかった。一郎は前後の見境みさかいもなく、石垣の横手からいこんだ。そこには大きなふきの葉がしげっていたが、彼が猛然とその葉の中に躍りこんだとき、思いがけなくグニャリと気味のわるいものを踏みつけた。
ッ――」
 と、彼は其の場に三尺ほど飛び上った。
 だが彼は、その叫び声に続いて、もう一つの驚きの声を発しなければならなかった。なぜなら、その密生した蕗の葉の中から、イキナリ一人の男が飛びだしたからであった。一郎が踏みつけたのは、その葉かげに寝ていたかの男の脚だったにちがいない。
「……」
 一郎は、呼吸いきをはずませて、相手の方をにらんだ。ああ、それは何という恐ろしい顔の男であったろう。背丈はあまり高くないが、肩幅の広いガッチリした体躯の持ち主だった。そしてくろずんだ変な洋服を着ていた。その幅広の肩の上には、めりこんだような巨大な首が載っていた。頭髪はよもぎのように乱れ、顔の色は赭黒あかぐろかった。しかしなによりも一郎の魂を奪ったものは、その男の赭顔の半面にチラと見えた恐ろしく大きなあざであった。
「待て――」
 一郎は相手を見てとると、勇敢に突進していった。痣のある男はヒラリと身体をかわして逃げだした。
「オイ、待たないか――」
 その怪人は、はたして弟四郎を殺した彼の恐るべき吸血鬼であるのかどうかハッキリ分らない。しかし折も折、この夕暗ゆうやみどきに人も通らぬ石垣裏の蕗の葉の下に寝ているとは、たしかに怪しい人物に違いなかった。追いついて、組打ちをやるばかりである。
 怪人は物を云わず、ドンドンと逃げだした。その行動のすばやいことといったら、どうも人間業とは思えなかった。高い石垣を見上げたと思うと、ヒョイと長い手を伸ばして、バネ仕掛けのように飛び越えた。まるで飛行機が曲芸飛行をしているような有様だった。一郎がようやく石垣をじのぼって、下の池の方を見下みおろすと、かの怪人はもう池の向う岸にいた。池の水面には小さなモーターボートでも通ったように、二条の波紋が長くあとを引いていた。どうして彼が池をわたり越えたのやら分らなかった。
 一郎は池を大迂回しなければならなかった。しかし一郎の予想は当って、怪人はドンドン西の方に逃げてゆく。そっちの方には弟の惨殺屍体の転がっている竹藪があった。だから怪人はきっとその辺へ潜りこむつもりだろう。そうなれば怪人の正体もハッキリして来るというものだ。
「誰か、手を借して呉れーッ」
 一郎は声をかぎりに叫ぼうとしたが、咽喉がカラカラに乾いて、皺枯しわがれた弱い声しか出なかった。そのうちに怪人は、弟の死霊しりょうきよせられるもののように、問題の藪だたみの方に足を向けると、ガサガサと繁みを分けて姿を消してしまった。それを見て一郎はムラムラと復讐心の燃えあがってくるのを感ぜずにはいられなかった。
 彼は急に進路を曲げた。それは抜け道をして、弟の屍体の転がっている裏の方の繁みの中からワッと躍りでるつもりだった。それは怪人の不意を打つことになって、たいへん有利だと思ったからだった。
 間もなく一郎は、目的の繁みに出た。それは灌木の欝蒼うっそうとした繁みで、足の踏み入れるところもないほどだった。彼は下枝を静かにかきわけながら前進した。もう屍体のある場所は間近まぢかの筈だった。

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