海野十三全集 第2巻 俘囚 |
三一書房 |
1991(平成3)年2月28日 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
尾行者
タバコ屋の前まで来ると、私は色硝子の輝く小窓から、チェリーを買った。 一本を口に銜えて、燐寸の火を近づけながら窓硝子の上に注目すると、向いの洋菓子店の明るい飾窓がうつっていた。その飾窓の傍には、二人連の変な男が、肩と肩とを並べて身動きもせず、こっちをジーッと睨んでいるのが見えた。 「何処までも、尾けてくる気だナ」 私はムラムラと、背後を振りかえって(莫迦!)と叫びたくなるのを、やっと怺えた。この尾行者のあるのに気がついたのは、横浜の銀座といわれるあの賑かな伊勢佐木町で夜食を採り、フラリと外へ出た直後のことだった。それから橋を渡り、暗い公園を脱け、この山下町に入りこんで来ても、この執念深い尾行者たちは一向退散の模様がないのである。 腕の夜光時計を見ると、問題の十一時にもう間もない。十五分前ではないか! ぐずぐずしていると、折角の大事な用事に間に合わなくなってしまう。十一時になるまでに、こいつら二人を撒けるだろうか。これが銀座なら、どんな抜け道だって知っているが、横浜と来ると、子供時代住んでいた時とすっかり勝手が違っていた。大震災で建物の形が変り、妙なところに真暗な広々した空地がポッカリ明いていたりなどして、全く勝手が違う。この形勢では尾行者たちに勝利が行ってしまいそうだ。残るは、これからすこし行ったところに、さらに暗い海岸通があるが、その辺の闇を利用して、なんとか脱走することである。 そんなことを考え考え前進してゆくうちに、向うに町角が見えた。私は大きな息を下腹一ぱいに吸いこむと、脱走は今であるとばかり、クルリと町角を曲った。そして一目散に駈け出そうとする鼻先へ、不意に人が現れた。 「オイ政、待った!」 その声には聞き覚えがあった。これはいかんと引き返そうとすると、後からまた一人が追い縋った。私はとうとう挟み打ちになってしまった。 (しまった!) と思ったが、もう遅い。 「政! 妙なところで逢うなア」 二人は予て顔馴染の警視庁強力犯係の刑事で、折井氏と山城氏とだった。いや、顔馴染というよりも、もっと蒼蠅い仲だったと云った方がいい。 「……」 私はチェリーを一本抜いて、口に銜えた。 「話がある。ちょっと顔を貸して呉れ」 「話? 話ってなんです」 「イヤ、手間は取らさん」 刑事は猫なで声を出して云った。 「旦那方」私は真面目に云った。「銀座の金塊は、私がやったのじゃありませんぜ」 「ナニ……君だと云やしないよ」 刑事は擽ったそうに苦笑した。恐らくあの有名な「銀座の金塊事件」を知らない人はあるまいが、事件というのは今から十日ほど前、銀座第一の花村貴金属店の飾り窓から、大胆にもそこに陳列してあった九万円の金塊を奪って逃げたという金塊強奪事件である。犯人は前から計画していたものらしく、人気のない早朝を選び、飾窓に近づくと、イキナリ小脇に抱えていたハトロン紙包の煉瓦をふりあげ、飾窓目がけて投げつけた。ガチャーンと大きな音がして、硝子には大孔が明いたが、すかさず手を入れて九万円の金塊を掴むと、飛鳥のように其の場から逃げ去った。それから十日目の今日まで犯人は遂に逮捕されない。なにしろ早朝のことだったから、目撃した市民も意外に尠い。手懸りを探したが、一向に有力なのが集らない。事件は全く迷宮に入ってしまった。警視庁は連日新聞記事の巨弾を喰って不機嫌の度を深めていった。その際に本庁の強力犯の二刑事が、はるばる横浜まで遠征して来たのは、誰が考えたって、ハハア金魂事件のためだなと気がつく。 「そう信用して下さるのなら、話はまた別の日に願いましょう。今夜はこれで、だいぶ更け過ぎていますからネ」 私は軽く突っぱねた。時計をソッと見ると、既にもう十一時に間がない。私は気が気でない。 「いやに逃げるじゃないか」と執念深い刑事は反って絡みついてきた。「ところで一つ尋ねるが、赤ブイ仙太を見懸けなかったか」 「仙太がどうかしたんですか」 「余計なことを訊くな。貴様、仙太と何処で逢った。何時のことだ」 「旦那方。私はハマの仙太の番をするくらいなら、今時こんな場所を一人で歩いちゃいませんぜ」と私はちょっと嘘をついた。 「ふざけるな。じゃあ訊くが、銀座無宿の坊ちゃんが河岸をかえて、なぜ横浜くんだりまで来ているのだ……」 坊ちゃん政――それは私にいつの間にか付けられた通り名だった。もちろんかねて顔馴染の二刑事が覚えているのも詮ないことだろう。だが云わでもその名前を呼びかけられりゃ、いくら此処は横浜だって小さくなっていられるものかと、私はムッとした。 だがそのムッとするのが、私の悪い病気なのだ。現に銀座を出て、単身この横浜に流れて来たのも、所詮は大きいムッとするものを感じたせいではなかったか。 (伝統の銀座を、横浜の奴等に荒されてたまるものかい) 若い私には無体にそいつが癪にさわった。私は覘う相手から、覘うものを捲きあげてしまわなければ、死んでも銀座には帰らないと肚を決めているのだ。――で、その大事の前に、顔馴染の刑事なんかと喧嘩をしてはつまらないではないか。我慢をしろ! 「オイ何とか云えよ」 「黙っていちゃ、駄目じゃないか」 二人の刑事はジリジリと左右から肉迫してきた。相手の眼はらんらんと輝いた。私を大きな獲物と見込んで、どうしても物にしようという真剣さが見える。これは簡単に済まないぞ。おとなしく身を委して機会を待つか、それともサッと相手の足を払って出るか、無気味な沈黙が三人の息を止めた。 と、その時だった。―― キ、キャーッ。 と、魂消える異様な悲鳴が、突然に闇を破って聞えた。どうやら向うの通らしい。途端に向うに見える時計台から、ボーン、ボーンと十一時を知らせる寝ぼけたような音が響いて来た。――ああ十一時。あの時刻だ。私はドーンと胸を衝かれたような激動を感じた。
金貨を握った屍体
「うむ、事件だぞ」 「すぐ其処だ。行くか……」 二人の刑事は顔を衝突せんばかりに近づけて、お互いの腕を掴み合った。 「直ぐ行こう」 「だが此奴をどうする?」 「うむ。さあ、どうする?」 刑事は私の処置をどうしたものかと躊った。 「逃げませんよ、私ア」と言下に応えた。「一緒に行ったげましょう」 「お前も行くか。どうかそうして呉れ!」 刑事はホッと溜息をついた。 私はわざと先頭になって駈けだした。刑事も横合から泳ぐように力走した。 真暗な、広い空地に出た。向うにポツンと二階建らしい倉庫のようなものが立っているが、灯もない真黒な建物だ。悲鳴はそのあたりから起ったように思われる。私は前面を注視しながら走った。 沈黙の倉庫の前まで来ると、向うに火の消えた街灯の柱が何事か云いたげに立っていた。その下に、長々と横たわっている黒い物があった。 「旦那方。あすこに、一件らしいのが見えますぜ」 刑事は私の方に身体を擦りよせてきた。 「うん。伸びているようだナ。それッ」 三人はバラバラと、その方に近づいた。刑事の手から、懐中電灯の光がパッと流れだした。その光は直ちに、地上に伏している怪しい男の姿を捉えた。雨あがりの軟泥の路面に、青白い右腕がニューッと伸びていて、一面に黒い泥がなすりついている――と思ったら、それは真赤な血痕だった。水色のアルパカの上衣にも、喞筒で注ぎかけたような血の跡が……。全くむごたらしい光景だった。 刑事は、倒れている若い男の横顔を照してみた。顔は血の気を失って、只太い眉毛と、長い鼻とが残っていた。歯を剥き出した唇は、泥を噛んでいた。――と、刑事が叫んだ。 「呀ッ。……これア、赤ブイの仙太じゃないか!」 赤ブイの仙太! 仙太といえば刑事たちが、さっき私に訊いたところの横浜の不良で、カンカン寅の一味なのだ。 「そうだ、仙太だ。すっかり顔形が違っている感じだが、仙太に違いない」 「誰が殺ったんだろう?」 二人の刑事は、そこで顔を見合わせると、意味あり気に、後に立っている私の顔をジロリと睨んだ。
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