海野十三全集 第7巻 地球要塞 |
三一書房 |
1990(平成2)年4月30日 |
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷 |
見取図
鬼仏洞の秘密を探れ! 特務機関から命ぜられた大陸に於けるこの最後の仕事、一つに女流探偵の風間三千子の名誉がかけられていた。 鬼仏洞は、ここから、揚子江を七十キロほど遡った、江岸の○○にある奇妙な仏像陳列館であった。 これは某国の権益の中に含められているという話だが、今は土地の顔役である陳程という男が管理にあたっているそうだ。 わが特務機関は、未だに公然とこの鬼仏洞の中へ足を踏み入れたことがないのであるが、近頃この鬼仏洞を見物する連中が殖え、評判が高くなってきたのはいいとして、先頃以来この洞内で、不慮の奇怪な人死がちょいちょいあったという妙な噂もあるので、さてこそ女流探偵の風間三千子女史が、鬼仏洞の調査に派遣せられることになったのである。 これが最後の御奉公と思い、彼女は勇躍大胆にも単身○○に乗りこんで、ホテル・ローズの客となった。まず差当りの仕事は、鬼仏洞の見取図を出して秘密の部屋割を暗記することだった。彼女はその見取図を、スカートの裏のポケットに忍ばせていた。 それから三日がかりで、彼女はようやく鬼仏洞の部屋割を、宙で憶えてしまった。これならもう、鬼仏洞を見に入っても、抜かるようなことはあるまいという自信がついた。 無理をしたため、頭がぼんやりしてきたので、彼女は、その日の午後、しばらく睡っていた。が、午後三時ごろになって、気分がよくなったので、起きて、急に街へ出てみる気になった。 その日は、土曜日だったせいで、街は、いつにも増して、人出が多かった。彼女は、いつの間にか、一等賑かな紅玉路に足を踏み入れていた。 鋪道には、露店の喰べ物店が一杯に出て、しきりに奇妙な売声をはりあげて、客を呼んでいた。 三千子は、ふとした気まぐれから、南京豆を売っている露店の前で足を停め、 「あんちゃん。おいしいところを、一袋ちょうだいな」 といって、銀貨を一枚、豆の山の上に、ぽんと放った。 「はい、ありがとう」 店番の少年は、すばやく豆の山の中から、銀貨を摘みあげて、口の中に放りこむと、一袋の南京豆を三千子の手に渡した。 「おいしい?」 「おいしくなかったら、七面鳥を連れて来て、ここにある豆を皆拾わせてもいいですよ」 といってから、急に声を低めて、 「……今日午後四時三十分ごろに、一人やられるそうですよ。三十九号室の出口に並べてある人形を注意するんですよ」 と、謎のような言葉を囁いた。 三千子は、それを聞いて、電気に懸ったように、びっくりした。 もうすこしで、彼女は、あっと声をあげるところだった。それを、ようやくの思いで、咽喉の奥に押しかえし、殊更かるい会釈で応えて、その場を足早に立ち去った。しかし、彼女の心臓は、早鉦のように打ちつづけていた。 無我夢中で、二三丁ばかり、走るように歩いて、彼女はやっと電柱の蔭に足を停めた。腕時計を見ると、時計は、ちょうど、午後四時を指していた。 (今の話は、あれはどうしても、鬼仏洞の話にちがいない。あと三十分すると、第三十九号室で、誰か人が死ぬのであろう。なんという気味のわるい知らせだろう。しかし、こんな知らせを受取るなんて、幸運だわ!) 三千子は、昂奮のために、自分の身体が、こまかに慄えているのを知った。 (行ってみよう。時間はまだ間に合う。――もし鬼仏洞の話じゃなかったとしても、どうせ元々だ) 三千子の心は、既に決った。彼女は、南京豆売りの少年が、なぜそんなことを彼女に囁いたのかについて考えている余裕もなく、街を横切ると、鬼仏洞のある坂道をのぼり始めたのであった。 三千子が向うへ行ってしまうと、豆の山のかげから、一人の青年が、ひょっくり顔を出して、三千子の去った方角を見て、にやにやと笑った。
長身の案内者
見るからに、妖魔の棲んでいそうな古い煉瓦建の鬼仏洞の入口についたのが、四時十五分過ぎであった。彼女は、こんなこともあろうかと、かねてホテルのボーイに手を廻して買っておいた紹介者つきの入場券を、改札口と書いてある蜜蜂の巣箱の出入口のような穴へ差し入れた。 すると、入場券は、ひとりでに、奥へ吸い込まれたが、とたんに何者かが奥から、 「これを胸へ下げてください」 と云ったかと思うと、丸型の赤い番号札が例の穴から、ひょこんと出て来た。 (呀っ!) そのとき、三千子の眼は、素早く或るものに注がれた。それは、奥から番号札を押し出した変に黄色い手であった。それはまるで、蝋細工の手か、そうでなければ、死人の手のようであった。 三千子は、とたんに商売気を出して、その手をたしかめるために、腰をかがめて、穴の中を覗きこんだ。 「呀っ!」 ぴーんと音がして、番号札が、発止と三千子の顔に当るのと、がたんと穴の内側から戸が下りるのと同時であった。三千子は、地上に落ちた番号札を、急いで拾い上げたが、胸が大きく動悸をうっていた。彼女は、戸の下りる前に、穴の内側を覗いてしまったのである。 (手首だった。切り放された黄色い手首が、この番号札を前へ押しだしたのだ。――そして“これを胸へ下げてください”と、その手首がものをいった!) 女流探偵風間三千子の背筋に、氷のように冷いものが伝わった。 なるほど、噂にたがわぬ怪奇に充ちた鬼仏洞である。ふしぎな改札者に迎えられただけで、はやこの鬼仏洞が容易ならぬ場所であることが分ったような気がした。 だが、風間三千子は、もう訳もなく怖じてはいなかった。彼女は、女ながらももう覚悟をきめていた。一旦ここまで来た以上、鬼仏洞の秘密を看破するまでは、どんなことがあっても引揚げまいと思った。 入口の重い鉄扉は、人一人が通れるくらいの狭い通路を開けていた。三千子は、胸に番号札を下げると、その間を駆け足ですりぬけた。 ぎーい! とたんに、彼女のうしろに、金属の軌る音がした。入口の重い鉄扉は、誰も押した者がないのに、早もう、ぴったりと閉っていた。 ふしぎ、ふしぎ。第二のふしぎ。 彼女は、しばらく、その薄暗い室の真中に、じっと佇んでいた。さてこれから、どっちへいっていいのか、さっぱり見当がつかないのであった。その室には電灯一つ点いていなかった。が、まさか、囚人になったわけではあるまい。 一陣の風が、どこからとなく、さっと吹きこんだ。 それと同時に、俄に騒々しい躁音が、耳を打った。躁音は、だんだん大きくなった。それは、まるで滝壺の真下へ出たような気がしたくらいだった。 彼女は、おどろいて、音のする方を、振り返った。するといつの間にか、後に、出入口らしいものが開いていた。その口を通して、奥には、ぼんやりと明りが見えた。 (あ、なるほど、やっぱり第一号室へ通されるのだ!) 三千子は、脳裡に、絹地に画かれたこの鬼仏洞の部屋割の地図を思いうかべた。彼女は、今は躊躇するところなく、第一号室へとびこんだのであった。 その部屋の飾りつけは、夜明けだか夕暮だか分らないけれど、峨々たる巌を背にして、頭の丸い地蔵菩薩らしい像が五六体、同じように合掌をして、立ち並んでいた。 轟々たる躁音は、どうやら、この巌の下が深い淵であって、そこへ荒浪が、どーんどーんと打ちよせている音を模したものらしいことが呑みこめた。 第一号室は、たったそれだけであった。
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