海野十三全集 第12巻 超人間X号 |
三一書房 |
1990(平成2)年8月15日 |
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷 |
1
一代の奇賊烏啼天駆と、頑張り探偵袋猫々との対峙も全く久しいものだ。 だが奇賊烏啼天駆にいわせると、袋猫々なる迷探偵などは歯牙にもかけていないそうで、袋めは奇賊烏啼を捕えて絞首台へ送ってみせると日頃から宣伝を怠らず、その実一度だって捕えたこともなく、つまりは袋探偵は余輩天駆の名声に便乗し虚名をほしいままにしているのだとある。 これに対して、探偵袋猫々は曰く、「烏啼天駆の如き傍若無人の兇賊を現代に蔓らせておくことは、わが国百万の胎児を神経質にし、将来恐怖政治時代を発生せしめる虞れがある。兇賊烏啼天駆は一日も早く絞首台へ送らざるべからず、而して今日彼を彼処へ送り得る能力ある者は、僕猫々を措いて外になし」と。 賊天駆と探偵猫々と、どっちの言分が正しいのか、今はここにちゃんと割切ってみせて答を出す必要はなかろう。それよりもここに一筆しておかなければならないことは、かれ烏啼天駆がこの頃何を悟ったものか「健全なる社会経済を維持するためには、何人といえども、ものの代金、仕事に対する報酬を払わなければならない。もしそれを怠るような者があれば、その者は真人間ではない」といいだしたことである。 そして彼はこの語に続いて小さな声で、次のような文句を附加えたものだ。「……たとい電車の中の掏摸といえども、乗客から蟇口を掏りとったときは、その代償として相手のポケットへチョコレート等をねじこんでおくべきだ。そういう仁義に欠ける者は、猫畜生に劣る」 犬畜生というべきところを猫畜生といったのを勘考すると、烏啼天駆は袋猫々を歯牙にもかけずといいながら、実はやっぱり常日頃、心の隅に探偵猫々の姿を貼りつけて、多少気にしているものと見える。 とにかく、彼天駆がそういう風に菩提心を起したことは、逸早く機関誌「ザ・プロシーデングス・オブ・ザ・インスチチュート・オブ・ニッポン・スッパ・エンド・オシコミ」に記載せられ、会員及び広く被害性大衆に一大感動を与えたことだった。この記事を読んで会員の一人である掏摸与太郎は慨歎した。「するてえと、電車の中で五百円紙幣を稼ぐためには、おいらは背中にチョコレートの入った大きな包を背負って電車に乗込まなきゃならねえぞ。こいつはどうも不便なこった!」
2
闇成金の苅谷勘一郎氏の許へ、その朝恐るべき脅迫状が舞いこんだ。
“脅迫状。拝啓、来る十一月十一日を期し、貴殿夫人繭子どのを誘拐いたすべく候間お渡し下されたく、万一それに応ぜざるときは貴殿は不愉快なる目に遭うべく候。右念のため。草々敬具。烏啼天狗生拝”
まことに念入りな鄭重慇懃を極めた脅迫状であった。しかしいくら鄭重慇懃でも、脅迫状は嬉しくない。受取人の苅谷勘一郎は焦慮熟考の末、一つの成案を得た。 (こういう事件は、警察へ話すよりも、先ず袋猫々探偵に相談した方がいい。あの探偵なら、烏啼天狗専門だから……) 天駆と書き、あるいは天狗と書く。これは彼のそのときの気持次第である。世人は漸くこの奇賊を烏天狗とは呼び始めた。 被脅迫者の苅谷氏は、この段、繭子夫人まで報告してあまり愕かないことを要望した。袋猫々探偵なら、奇賊烏啼を扱うには誰よりも心得ているだろうから、奇賊をして繭子夫人に一指をも染めさせないであろうと、善良にして慈愛に富む夫は述べたことだった。しかし夫人は夫君の説明の後で、烏啼天狗の脅迫状の真蹟をひろげて見るに及んで、声も立てずに長椅子の中に気絶してしまった。 苅谷氏は入念な変装ののち、ひそかに袋猫々探偵の事務所を訪問した。 「……といったようなわけでありまして、憎むべき烏啼天狗は理不尽にもわが最愛の妻を奪取しようというのであります。およそかかる場合において、夫たる身ほど心を悼ましむ者が他にありましょうか」 「令夫人を相手に渡さなければ、あなた様のご心痛もなくて済むわけでしょう」 黒眼鏡をかけたひどい猫背の探偵は事もなげに、こういった。 「ええっと何と仰有る」と苅谷氏は驚愕のあまり紐のついた片眼鏡を眼瞼から下へ落し、「家内を烏天狗に渡さないですむなら勿論結構この上なしですがね、しかしかの脅迫状にはちゃんと断り書がしてありまして気になりますね。つまり家内を渡すのを拒めば、私はたいへん不愉快な目に遭う――つまり次は私の生命が危険になるんでしょうからね。私の生命が危険となる位なら、寧ろ家内を渡してやった方が損害は僅少で済みます」 「では、令夫人をお渡しになりますかな」 「いや、飛んでもない。只今は比較の言論をお聞かせしただけのこと。実際においては家内を渡すことは困るです。しかし渡さなければ後がこわい……」 「後がこわくないように私が計らいましょう。ちゃんと相手に令夫人を渡しましょう」 「いや、それでは困る」 「なあに困りゃしません。これはあなた様と私だけの了解事項なんですが、その当日その場で令夫人を渡したように見せかけ、実は令夫人は渡さないのです」 「ふうん。よく分りませんなあ、猫々先生の仰有る言葉の意味がね」 「これが分らんですかなあ。早くいえば、令夫人の身替りを相手へ渡すんです」 「なるほど、家内の身替りをね。ほほう、これは素晴らしい着想だ。遉に烏啼天狗専門店の名探偵袋猫々先生だけのことはある」 「叱ッ。大きな声はいけません。……よろしいか、この事は大秘密ですぞ」
3
さて十一月十一日の当日、苅谷邸は警官隊で取囲み、ものものしい警戒ぶりであった。 だが時刻は移っても、怪しい者の姿は一向現われず、見張りの者は少々待ち疲れの態であった。すると正午のちょっと前、警察の自動車が、一台、表についた。中から現われたのは警視で、二人の警部補を随えていた。 「やあ。ご苦労じゃ。まだ賊は現われんかね」 「はい。どういうわけか、まだ現われません」 「もう現われる頃じゃ、警戒厳重にな」 「はい」 「苅谷氏に会ってみたい。案内してくれんか」 「はい。どうぞこちらへ……」 警視と苅谷一家との会見は、頗る風変りなものだった。警視は、苅谷夫妻に両手をあげるようにお願いし、室内にいる警官たちにも同様の姿勢をとるように強要した。そうして置いて警視の一行は、苅谷夫人繭子の頭から毛布を被せ、玄関先に待たせておいた自動車で搬び去ったのである。玄関先にも警官隊がいたが、そういう場合、階級の上の警視に指揮権があったので、彼に手伝って苅谷夫人を自動車に搬び入れる手伝いをし、そして敬礼をしてお送りしたのだった。平常割切れる答を出すように習慣づけられた幾人かの彼らは、警視が苅谷夫人を他へ移して、烏啼天狗の誘拐行為に対抗するのだと考えた。 ここまでいえば、警視は怪賊烏啼天狗の変装せるもの、後に随った二人の警部補は彼の二人の部下であったと、今更ことわるまでもないであろう。実に賊烏啼は極めて楽々と苅谷夫人を誘拐し去ったのである。 それはまことに見事なプレーであったが、それでは名探偵袋猫々先生の面目はいずくにか在る? だが、このとき袋猫々探偵は得意の絶頂にいた。なぜならば、彼は巧みに苅谷夫人の代役をつとめていたからである。別言すれば、烏啼が苅谷邸から攫っていったのは、姿こそ繭子夫人であったが、その中身に至っては当の夫人ではなく、実は猫々先生であったのである。名探偵の打った手は見事に成功したといわねばならない。そして当の夫人の身柄は、既に某所に移されて居り、そこにおいて安全静穏な生活を営んでいる現況だった。 夫人代役が苅谷邸を去ってから数分後、苅谷氏は探偵猫々とのかねての打合せにより、悲痛なる呻き声と共に、「家内を奪われた、家内を取戻してくれエ」と騒ぎ立てたし、同席の警官たちにもその職務柄かの贋警視一行の闖入脱出について騒ぎ立てたのである。それから騒ぎは検察本部へ波及し、それから賑かにラジオ、テレビジョン、新聞の報道へ伝播し、それから満都の人々へこの愕くべき誘拐事件が知れ亘り、騒ぎが拡大して行ったのである。
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