火星着陸
エンジン室の様子は、戦場のようにものすごかった。 艇長デニー博士は、一段と高い指揮台の上に立ちあがり、声をからして次から次へと伝令を出した。博士の顔は、血がたれそうにまっ赤で、灰色の頭髪は風に吹かれる枯れすすきの原のように逆立ち、博士の両眼は皿のように大きく見開かれたままだった。 「界磁電圧を六百ボルトまであげろ。……発電機がこわれたっていい。あと五分間もてばいいんだ。……第三電動機、回転をあげろ。三千八百回転まで、油圧を上げろ……」 老博士の声は、まるで若者のように響いた。 四少年も、あっちへ走り、こっちへ走りして力を添える。 マートン技師と河合少年が、まるで二人三脚をやっているように、身体をくっつけ合って配電盤の方へ走る。 張は、界磁用抵抗器のハンドルにぶら下って、両足をばたばたやっている。 ネッドは――ああ可哀そうに頭から黒い油をあびてしまった。 山木は、鋼鉄の梁の上によじのぼり、そこに据えつけてあった大きな双眼鏡にかじりついて、外を見ている。 「……あと一万三千メートル。艇はすこし西へ流れた。……沙漠だ。広い沙漠だ。湖が見える。大きな輪がいくつも見える。何だかわからない……」 山木は、双眼鏡の中に入ってくるものをとらえて、片っ端から言葉に直す。 「まだか、まだか、マートン技師」 デニー博士の声が、爆風のように響く。その答はない。 「マートン技師。どうした……」 すると漸くマートンの右手があがった。と博士の肩がぶるぶると慄えた。 「重力中和機の全部。スイッチ入れろ」 「よいしょッ」 と、ぐぐぐぐッと地鳴りのような響がして、けたたましく警鈴が鳴りだした。 「ああッ」 「うーむ……」 エンジン室の全員が、電気に引懸ったように呻った。そして誰もが、死の苦悶のような表情で、目を閉じ、歯を喰いしばった。 ネッドは、油の海へいやというほど顔をおしつけられた。張は配電盤へおしつけられ、服のお尻のところへ火花がぱちぱち飛んだ。河合はマートン技師の股ぐらへ首をつっこんでしまった。山木は、後へ急に引かれて、鋼鉄の梁に宙ぶらりんとなった。 時間にして四十秒の短い間だったが、人々はそれを百年のように永く感じた。その間人々の息は停り、心臓さえ、はたと停ってしまったように思った。 「うまく行ったぞ。重力は減った。墜落の速度は落ちた。た、た、助かるぞ、これなら……」 最初に声を出したのは、艇長デニー博士であった。博士の最後的努力が遂に効を奏したのだった。 嵐が急にやんだように、狂瀾怒濤が一時に鳴りを鎮めたように、乗組員たちの気分は俄かにさわやかとなった。立っていた者は、へたへたとその場に崩れるように尻餅をついた。 油の海の中に気を失っているネッドが、河合によって助け起された。そこへマートン技師が駆けつけて、活を入れてくれたので、ネッドは息をふきかえした。助けられた者も、助けた者も、共に顔はまっ黒で、全身から油がしたたり、まるで油坊主のようであった。 「……高度五百メートル、六百メートル。少し上昇していきます」 いつ、元の双眼鏡へ戻ったか、山木が元気な声で叫んだ。 と、デニー博士がよろよろとよろめきながら、指揮台の手すりを力に立上った。 「マートン技師。重力中和機を調整するのだ。着陸用意。舵を下げろ。五度へ下げろ。それから零度へ戻せ……」 マートンが、油をはねとばしながら駈け出した。 「……大きな密林だ。密林だ。あっ、密林が切れて、今度は海だ。海、海……」 山木が叫ぶ。 「右旋回……」デニー博士の声。 「なに、やっぱり駄目か。……噴流器の右側の列を使うんだ。早く早くしろ」 博士のこの言葉がなかったら、宇宙艇はむざんにも火星の海に頭を突込んで沈んでしまったろう。そうなれば折角ここまで宇宙艇を護りつづけてきたデニー博士以下の乗組員たちも、哀れ、火星着陸の声を聞くと共に異境の海に全員溺死してしまったであろう。博士の沈着にして果断な処置が、危機一髪のところで全員を救ったのだ。 「沙漠! 沙漠!」 右側の噴流器から、その全部ではないが、二三本の猛烈なる黒色瓦斯を吹きだしたので、宇宙艇はお尻を右に曲げたとたんに、海が無くなって、白い沙漠が現れた。それから四五秒後に、轟然たる音響と共に、宇宙艇の腹部が砂原に接触した。これこそ、記録すべき火星着陸の瞬間だった。 「開放……」 エンジンは外された。弾力はまだ残っていた。宇宙艇は沙漠のまん中を、濛々と砂煙をあげてなおも滑走した。 が、何が幸いになるか分らないもので、この沙漠着陸のおかげで、宇宙艇の尾部における火災が俄かに下火となった。
感激の乗組員
滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止したのだった。 全員は、おどりあがって歓呼の声をあげた。誰の目からも、よろこびの涙があふれて頬をぬらしていた。そうでもあろう。火星への大航空が遂に自分たちの手によって完成したのである。乗組員はわずか十名たらずの少人数で、この困難な大事業を見事にやりとげたのであった。生命の危険にさらされること幾度か。それを切抜けることができたのは全くふしぎでならぬ。いや、これこそ全員が、互に助けあい、自分の勝手を行わず、指揮者デニー博士の命令に従い、すこしも乱れることなく組織の最高能率を発揮した結果に外ならないのだ。 そして友を救おうとして、自分を救うことにもなったのだ。美しい友情だ。愛の勝利であった。 艇長デニー博士のよろこびは、誰よりも大きかった。火星探険協会を起こしてからここに二十五年、遂にその大事業は成功したのだ。その間、博士は、或る時は山師とあざけられ、また或る時は資金は尽きて、ナイフやフォークまで売り払わねばならなかったこともあった。 だが今やそんなことはすっかり忘れていいのである。 だが博士はこの大歓喜に酔ってばかりいるわけにはいかなかった。というわけは、博士が設計し建造したこの宇宙艇は、今漸く火星に着陸したばかりである。仕事はそれで終ったのではない。いやむしろ仕事は今後にあるのだ。 着陸したところは、地球の上ではない。勝手のわからない火星の上だ。気候、風土の違った火星の上である。空気も稀薄だ。重力もたいへん違っている。温度も激しく変る住みにくい土地だ。更に、火星においては、どんな生物にぶつかるかしれない。彼等の心とわれら地球人類の心とが、果してうまく通うであろうか。自分たち一行は、火星生物の恐るべき迫害にさらされるのではなかろうか。ちょうどわれら人類の祖先が、かの有史前において、昼といわず夜といわず、猛獣毒蛇の襲撃にあい、毎日の如く大きい犠牲を払いながら苦闘と忍耐とをつづけたように。――デニー博士は、大歓喜に酔うことは一時預けとして、直ちに適切な命令を次々に発しなければならないのだ。人類最高の名誉をになう彼の部下を率い、そしてこれらの部下を保護し、更に進んで火星生物との間にむずかしい交渉を開始し、それを平和的に解決しなければならないのだ。思えば思えば、デニー博士の上にかかっている責任は、測りしられぬほど重且つ大である。 「各室の空気洩れを点検!」 博士が第一番に出した命令は、これであった。空気洩れの箇所がないか、調べるのであった。火星には空気が少い。これまでに研究せられたところでは、火星の空気の濃さは地球で一番高いといわれる標高八千八百八十二メートルのエベレスト峯頂上の空気よりももっと稀薄であろうといわれていた。それは地上の気圧の約三分の一に相当するが、これによって火星の大気は、地球のそれの四分の一かそれ以下であろうと想像された。 だからもし宇宙艇が、各室の空気洩れの穴をそのままに放っておけば、艇内の空気はどんどん外へ出ていってしまい、艇内の人々は呼吸困難に陥らなければならない。だから空気洩れの箇所を調べ、もしもそれがあるときはその部屋を犠牲にして、次の部屋との境にある密閉戸を下ろさねば危険となるのだ。しかもこのことは大急ぎでやらなければならなかった。 生憎と宇宙艇はこれまでの難航によって、方々が壊れた。その都度応急処置をとったのであるが、何分にも航行の仕事に手がかかって、空気洩れ防止の方は十分に行われていなかった。デニー博士が、まずこの始末について第一の命令を発したのは正しかった。 全員は各室を駆けまわり、すこし惜しかったけれど、漏洩のある部屋はどんどん捨てて、それより手前の密閉戸を下ろしていった。 その作業は、各員の努力によって、早くも五分後には大体終了した。 「全員、上陸用空気服を点検!」 第二の命令が、デニー博士の口をついて出た。こんどは、各自の上陸用空気服の点検であった。上陸用というのは、火星へ上陸することを意味しているのであって、この艇内から出るには普通のままの服装では出られない。まず酸素不足などを補うために、特別製の圧搾空気をつめた槽から空気を送って呼吸しなければならぬ。それがためには、潜水服に似たものを着、そして潜水兜に似たものを頭に被り、空気槽を背負わなければならなかった。それだけではない。火星の上には、温度の激変が起ると思われているので、それにはこの空気服がスイッチ一つで温められるようになっていなければならない。いわゆる電熱服である。 普通の電熱服は服についている紐線の端のプラグを、艇内の配電線のコンセントへさしこめば、それで電流が通って服が暖くなるわけであったが、上陸用空気服では、そうはいかない。艇から長い紐線を引張って歩くわけにはいかないからだ。そこで特別の電熱が用意されてあった。それは極く小さな原子力エンジンに直結された発電装置であった。この原子力発電機は、その他いろいろな仕事をも、つとめる源であった。 上陸用空気服の点検は終った。各自はいつでもこれを着用できる準備をととのえた。 デニー博士は、第三の命令を発した。それは各自が、それぞれの新部署につくことであった。新部署というのは、火星の上で生活をするための仕事の分担だった。 河合は、マートン技師の下でエンジン係をやることになったし、ネッドは食堂の給仕係を、張は料理人を勤めることになり、前と同じ役目に戻ったわけだ。山木は見張員として活躍することとなり、正式に六方向テレビジョン――通称テレビ見張器の前に席が出来た。山木はよく気がつき、むしろ過敏すぎる神経の持主だから、この役はうってつけだ。 その山木は、博士の第三命令の直後、テレビ見張器の映写幕に向い、全神経を目に集めて、四方を見張っていたが、その彼は何を見つけたか、突然、 「おやッ」 と呻いて、テレビ見張器の拡大ハンドルを掴むと、それを急いで廻しはじめた。
異形の生物
テレビ映写幕には広々とした沙漠と、その向うにある密林とがうつっていた。 山木が拡大ハンドルを廻すと、その密林は幕面の上を急速にこちらへ近づき、映像は大きくなって来た。 密林を作っている木は、どこか松に似た逞しい灌木であった。それが密生しているのだった。木の高さは十メートルぐらいはあるように思われた。かなり背の高い木であった。 山木のおどろいたのは、その木の背の高いことでもなく、また密林の壮観でもなかった。その密林の或る箇所において、何か動いているもののあるのを見つけたからだ。それは密林の木間に見えたり隠れたりしている。 (火星の動物らしい) 山木は、その姿をもっとはっきり見定めようとして、テレビ見張器の拡大をあげていったわけだが、その木の間にうごめくものはだんだん大きくはっきりと映写幕にうかびあがってきた。 果して、それは動物だった。 だが何という妙な形をもった動物であろうか。早くいえば、それは蛸と昆蟲の中間の様なものであった。すなわち大きな頭部を持ち、それを細い体が重そうに持ちあげているのだ。頭部には、大きな目が二つついていた。鼻は見あたらず、その代りに絵にかいてある蛸の口吻そっくりの尖ったものが顎の上につき出ているのだった。その上に顔の両側に驢馬の耳によく似た耳がついていた。それからたいへん奇妙なことに、頭のてっぺんに根きり蟲が持っているような長い触角らしいものが二本だか三本だか生えていて、それは非常に柔軟に見え、そしてさかんに頭の上で活動して居り、まるで触角で踊っているようにも見えた。 その動物の首から下を見ると気の毒なくらい痩せていた。小さな瘤のような胴中、それから三本のぐにゃぐにゃした腕、それから三本の同じような脚――この脚は、たしかに蛸の足を思わせるものであった。 一体何だろうか、このえたいのしれない動物は……。山木はその動物のあたりに[#「あたりに」はママ]奇妙な姿にかぎりない興味をおぼえ、それを発見したことを報告するのを忘れていたくらいだった。 その奇妙な動物は、木の間を縫って、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙がしそうにしていた。そして彼らの或るものは、幹にぴたりと寄り添って、大きな目をぐるぐる廻し、触角を盛んにふり立てて、宇宙艇の方を注視している様子であった。 「……へ、へんな動物が見えます。沙漠の向うの、正面の密林の中です」 山木はこのとき漸く吾れに帰って、火星の動物を発見したことにつき、第一報を叫んだのである。 「なに、へんな動物だって……」 デニー博士が、山木のうしろに近よった。山木は、テレビ見張器の映写幕の上を指した。 「あ、これか。いたな。やっぱりそうだったか。これはなかなか油断が出来ないぞ。相手はわれわれよりも相当に高級な身体を持っている……」 デニー博士は、一大感心の有様で、木の間にうごめく生物を見つめた。 「先生、あれは何んという動物ですか。蛸みたいですが、蛸なら林の中にいるのはおかしいですね」 山木は、そういいながら博士の方をふりかえった。 「あれは蛸ではない。あれは多分、火星人だろうと思う」 「ええっ、火星人。あれが火星の人間なんですか」 「うん。まずそれに違いないであろうね。こうして見たところ、身体の工合が、わしがこれまでに研究し、想像していたところとよく一致しているからねえ」 「へえーっ。あれが火星人だとすると、火星人て気持が悪いものですね。僕はやっぱり地球の上と同じような人間が住んでいることと思っていましたが……」 「いや、そうはいかない。何しろ気候も違うし、火星の成因や歴史も違うんだし、そのうえに何万年も火星独得の進化と生長とをとげたんだから、地球人類と同じ形をしたものが、この火星の上に住んでいることは考えられなかったのだ」 博士と山木が話しをしているうちに、他の乗組員も、テレビ見張器の前へぞろぞろと集って来た。誰も皆、火星人が見えるというので、興味をわかして集って来たわけである。 「いやらしい恰好をしているね」 「これじゃちょっとつきあい憎いね」 「どれが男で、どれが女かな」 「さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ」 「やれ、気の毒に……」 どっと笑声が起った。 「先生、林の中に、火星人がずいぶんたくさん集結しています。なんだか気味が悪いですね。こっちへ向って来るのじゃないでしょうか」 山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出したので、デニー博士へ報告した。 博士は、それにはもう気がついているようであった。 「……何とか平和的に、火星人と交渉したいものだ。が、油断は出来ない。こっちも十分に武装をして行かねばならぬ」 博士は、進んで火星人に近づく心であったらしい。そして平和裡に、事をきめたい考えであることが分った。が、このとき火星人たちは、何思ったものか、急に密林から姿を現わした。そして広い沙漠を、まるで飛ぶようにしてこっちへ向って来るではないか。何百人、いや何千人、いやいやもっと多いのだ。まるで赤蟻の大群が引越しをするような有様で、隊伍をととのえて沙漠を横断し、この宇宙艇へ向けて殺到する勢いを示したのである。 ああ、危機来る! こっちは僅か十人足らずの地球人類だ。相手は何万何十万と数知れぬ火星人の大集団だ。しかもこっちの者にとっては、勝手のちがう異境火星の上だ。デニー博士の一行は非常に不利な立場にある。
迫る火星人
事態はすこぶる険悪だった。 頭のでっかい赤蟻が立ったような恰好の火星人の大群は、見事な隊伍をつくって、刻一刻、沙漠に腹這いになった宇宙艇へ近づいて来る。 わが火星探険団の指揮をとるデニー老博士は、指揮台の上に突立ち、テレビ見張器の六つの映写幕をじっと見つめて、身動きさえしない。 ああ、このままで行けば、一行九名は、火星人の大群の襲撃をうけて、たちまち踏みにじられてしまいそうである。 河合は、このときマートン技師のそばについていたが、技師が食料品をすこし食堂へ行って貰ってくるようにといったので、河合はいそいでそちらへ走った。 食堂へ入ってみると、張とネッドが、有機硝子の丸窓へ顔を押しつけて、外を一生けんめいに見ていて、河合の入って行ったのにも気がつかないようだった。 「おい、マートン技師からだ。ソーセージとアスパラガスとコーヒーを頼むぜ」 河合の声に、張とネッドはびっくりして後を振返った。 「へえっ。食べるどころのさわぎじゃないじゃないか」 と、ネッドが目を丸くした。 張の方は「よろしい」と答えて、厨房へ駆けこんだ。 「いや、腹がへっては駄目だ。今のうち食べられるだけ詰めこんでおけと、マートンさんはいうのだ」 「羨しいなあ。僕みたいな食いしん坊でも、今はビスケット一つ食べようとは思わない」 張が厨房から駆け戻ってきた。ソーセージとアスパラガスの缶詰と、コーヒーの入った魔法壜とを河合に渡した。 「ありがとう、ねえ、張君。これから先、いったいどうなるんだい」 河合は張に訊ねた。 「そんなこと、僕が知るもんか」 「牛頭仙人の力で、水晶の珠にうかがってみたらいいじゃないか」 「それはさっき、張君にやらせたんだよ」 とネッドがわきから口を出した。 「おい張君。あの話を河合君にしておやりよ」 「あんな予言は駄目だよ」と張がいった。 「僕は自信がないんだ。でもネッド君がぜひやれというもんだから……」 「牛頭仙人が、自分の力を知らないじゃ困るね。とにかく河合君に話しておやりよ」 ネッドが熱心にいうものだから、張ははずかしそうに語りだした。 「……つまりね、水晶の珠を見つめていると、こんな光景が見えたような気がしたんだ。僕たち四人がね。あの乳牛の箱自動車の上で、面白そうに狸踊りをおどっているのさ」 「へえ、狸踊り?」 「ほら、いつか山木君が教えてくれたじゃないか。何とか寺の狸ばやしの踊りだ。太い尻尾をぶらさげて、へんな恰好で踊るやつさ」 「ああ、あれか。證城寺の狸ばやしだよ」 「うん、それだ。で、僕たちが自動車の上で踊っていると、そこへ、ばらばらと赤いものが雨のように降って来るんだ。それで幻は消えた。おしまいだ」 「何だい、その赤いものが、ばらばらというのは……」 「それが分らない。火の子よりは大きいんだ。綿をちぎったほどの赤いものだ」 「すると焼夷弾が上から降ってくるのかな」 「焼夷弾が落ちてくる下で踊るわけもないじゃないか」 とネッドが異議を申立てた。 「だから僕は、そのうらないは、やがていいことのあるしらせだと思う」 「君は楽天家で、羨しいよ。とにかく今にそれが本当か嘘か分るだろう。あばよ」 そういって河合は、食料品を抱え直すと、マートン技師の許へ走り戻った。 河合が、ちょっと留守をしている間に、艇外の形勢はいよいよ険悪の度を加えていた。テレビ見張器で見ると、艇の四方はもはや完全に火星人の大群で包囲されていた。 そして不気味な生物たちは、ひしめきあいながら、次第にじりじりと艇の方へ向って包囲の輪を縮めつつあった。 と、とつぜん彼等の頭上に、青い花火のようなものが、ぱんぱんと炸裂した。するとそれが合図と見え、火星人の大群は、まるで海岸にうちよせる怒濤のようになっておどりあがり、そして非常な速さで四方八方からわっと艇へ殺到したのであった。遂に運命のきわまるときが来た。今やこの少人数の宇宙艇は、彼らのために踏みにじられるその寸前にある! 「エフ瓦斯を放出せよ」 デニー博士の号令がひびきわたった。と、その号令は次々へ伝えられた。 器械がうなり出す。睡っていたような艇が震動をはじめる。と、もうもうたる褐色の瓦斯が、艇の腹の数ヶ所からふきだした。その瓦斯は、その重さが火星の大気と同じくらいか稍重いかの瓦斯と見え、艇よりはすこしあがるが、あまり上にはのぼらず、そして見る見るうちに艇をすっかり包んでしまった。 見張器の映写幕にも、この瓦斯がひろがって行く有様が手に取るように眺められた。そして今や幕面は完全にこの褐色瓦斯に蔽われてしまったが、しかし、夜の闇さえ透して物の見えるテレビ見張器の特長として、エフ瓦斯をとおして四方の情景はあいかわらずはっきりと見えていた。 そうなのだ。火星人の大群が先程までのあのすさまじい勢いはどこへやら、この瓦斯にぶつかってたちまち大混乱の状態となり、列を乱し、ころげまわって、吾れ勝ちに向こうへ逃げてゆく有様が、おかしいほどはっきりとうつっていた。 「火星人は余程おどろいたらしいぞ。総退却だ。これで彼らも、そう無茶なことを仕掛けて来はすまい」 デニー博士は、ほっとした顔だった。 「今のエフ瓦斯というのは、どんな毒瓦斯なんですか」 と、河合はマートン技師に訊ねた。 「あれかね。エフ瓦斯は毒瓦斯というほどのものでなく、軟い皮膚をすこしぴりぴりさせるくらいのものだ。しかし彼らをびっくりさせるには十分だったようだね」 マートン技師は、そういって微笑した。
興奮の地球
それからもエフ瓦斯の放出は、やすみなく続けられた。瓦斯の厚い壁は、壊れた宇宙艇をすっかり包んでいて火星人の襲撃から安全に保護していた。 一応危機が去ったので、デニー博士は、乗組員に交代で睡ることを命じた。 しかし博士は休養をとらず、これから火星人とどのようにして交渉に入ったものかについて、幹部の人々と会議を始めた。 それから一時間ほど経った後、艇内に歓呼の声が起った。 「無電が通じるようになったぞ。地球との無電連絡がとれるようになったぞ」 えっ、無電が地球へ届くようになったか。それと聞いた乗組員は、いそいで無電室へ集った。寝たばかりの連中も、寝台からはね起きて無電室へ駆付けた。 「もしもし、KGO局ですね。……そうですよ、危機一髪のところで墜落を免れて着陸しました。……皆おどろいていますって。局へ電話がどんどんかかってきますって。自動車で乗りつける人もある。それは愉快だな。……こっちの乗組員の氏名ですか。まず艇長のデニー博士、それから……」 地球の上では早くもこれが全世界に電波の力で報道され、大興奮の渦巻となった様子であった。会議中だったデニー博士も遂にマイクの前に引張り出された。 「余は、わが火星探険協会長に永年よせられたるアメリカ全国民の後援に対し、衷心感謝の意を表するものであります。今やわが地球人類は、火星にまで足跡を印したのでありますが、われわれはその光栄のために、今日までのあらゆる苦闘を一瞬にして忘れてしまいました。さりながらわれわれの任務は重且つ大でありまして、火星人との交渉はこれから始まらんとして居ります。われわれは地球人類の光栄と名誉を保持し、それを汚すことなく、この新しい使命について万全の努力を払おうとする次第であります。ただ心にかかることは、宇宙艇の大破損と、燃料の大部分を失ったことでありますが、只今もその善後策について、最善の途を考慮中であります。最後に余は、アメリカ国民諸君、いな全地球人諸君に深く期待し、この火星探険をしてわれらの生きとし生けるものの幸福と栄光へ導かんことを願うものであります。ありがとう」 このデニー博士のあいさつは、非常な感激を地球上の人々に与えたようである。 それから後は、無電室は猛烈に忙しくなった。公式の通信の隙間に、各通信社からの特別通信申込が殺到して、それにいちいちどう答えてよいのか分りかねた。なにしろこっちは只一つの無電装置が回復したばかりであって、とても地球からのおびただしい通信の申込みを満足させることができなかった。 デニー博士が再びマイクの前に立って、われわれは今火星に着陸したものの、非常な危険に曝されて居り、火星探険記などについて今詳しい報告を送っている余裕のないことを正直に告げなかったとしたら、せっかく回復した宇宙艇の無電装置は使いすぎのため間もなく壊れてしまったことであろう。ようやく事態が地球上にも分かり、政府は、命令を以て、今後当分のうち、宇宙艇との通信は公報にかぎられることとし、一方デニー博士の要求に応じてあらゆる後援を惜しまず、その申出に待機することとなった。 こうして地球と宇宙艇との通信さわぎは、一先ず治まり、無電員も楽になった。 デニー博士は会議の席へ戻った。そしてそれから二時間、割合としずかな時刻が過ぎていった。 「いったい、今、時刻は何時なんだろうね」 と、乗組員のひとりが、同僚に訊ねた。 「お昼頃だろうね。ほら、太陽は頭の上に輝いているよ」 彼は丸窓を通して、上を指した。 「でもへんだぜ、この火星へ着陸してからもう四時間は過ぎたのに、太陽は初めからほとんど同じように、頭の上に輝いているんだからね」 「そんなばかなことがあってたまるか」 「だって、それは本当だから仕方がない」 「それはこういうわけさ」と、通りかかったマートン技師が笑いながらいった。 「火星の上では、一日が四十八時間なんだもの。つまり火星は地球の約半分の遅い速さで廻っているので、二倍の時間をかけないと一日分を廻り切らないのだ」 「へへえ、そいつはやり切れないな。三度の食事に、二倍ずつ食べないと、腹が減って目がまわっちまうぜ」 「なあに、一日に六度食べればいいのさ」 「いや、そうはいかないぜ。夜が二十四時間もつづくんだろう。二十四時間を何にも食べないで生きていられるだろうか」 「さあ、それはちょっとつらいね。途中で一ぺん起きて食事をし、それからまた続きを睡るってえことになるかな」 「なんだか訳が分らなくなった。どうも厄介な土地へ来たもんだ。はっはっはっ」 一同は顔を見合せて大笑いをした。
再襲来か
火星人の大群が、宇宙艇の前方において、再び大々的の集結を始めたという山木の報告は、又もや乗組員たちの顔を、不安に曇らせた。 いったん潮の引くように退いた火星人たちは、こんどは前よりも一層勢いをつよめて宇宙艇へ追って来つつあるのだ。 火星人たちの人数がふえたばかりか、こんどは手に手に異様な棒を持っている。 先が丸く膨らんだ棍棒みたいなものである。そればかりではない。彼らは高い櫓のようなものを後に引張っていた。それは四五階になっていて、どの階にも気味のわるい火星人の顔が、まるでトマトを店頭に並べたように鈴なりになっていた。そういうものが、密林の中から次第次第に現われ、数を増してくるのであった。 (いったい彼らは、どうしようという気だろうか) 櫓と棍棒とおびただしい火星人の群! さっきはエフ瓦斯をくらって総退却した彼らだったが、こんどはそれに対抗する手段を考えて向ってきたものに違いない。 艇内には、非常配置につけの号令が出、デニー博士はまたもや指揮台の上に立って、テレビ見張器に食い入るような視線を投げつけている。 と、火星人たちが、手にしていた棍棒みたいなものを一せいに高くさしあげた。 するとふしぎにも、風がぴゅうぴゅう吹きだした。沙漠の砂塵が、舞いあがった。と、宇宙艇を包んでいたエフ瓦斯の幕が吹きとばされて見る見るうちに淡くなっていった。
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