展望室
申入れが通じて、僕たちは本艇の頂部の一部に設けられたる展望室に出入することを許されるようになった。 それにしても、艇長リーマン博士がよくこれを許したものだと思う。もちろんイレネが僕たち記者連の鼻息の荒さを艇長に伝えて艇長を動かしたせいもあろう。 ベラン氏だけは、ついに仲間外れになった。そして残りの五名の記者は、イレネに伴われて、はじめて展望室に足を踏み入れたのであった。 宇宙展望室。それは暗い水族館の中を想像してもらえば幾分感じが分るであろう。 通路は環状になっていて、手前に欄干があり、前が厚い硝子張の横に長い窓になっていた。通路を一巡すれば、上下相当の視角にわたって四方八方が見渡せるのであった。 部屋の中央部は、大きな円筒型の壁になっていて、その中には何があるのか分らなかった。床はリノリューム張りであった。天井は金属板が張ってあったが、約四分の一は硝子張りになっていて、それを通して上の部屋が見えた。その硝子天井は相当厚いものであるが、展望窓のそれにくらべると比較にならないほど薄かったが、それでも一メートルはあったろう。上の部屋は、汽船でいうと船橋に相当するところであって、発令室と呼ばれ、複雑な通信機がやっぱり環状にならんで据えつけられ、艇長リーマン博士のほか、数名の高級艇員が執務していた。 だが展望室との間は、完全な防音ができているので、発令室の話声は、少しもこっちへ聞えて来なかった。ただリーマン博士らが、僕の想像もしていなかったほどの熱心さをもって勤務を続けているのが、硝子天井を通して、はっきり見られた。僕は今まで考えちがいをしていたようだ。博士にすまない気がした。 欄干につかまって、展望窓から外を見たが、こっちの姿がうつっているだけで、何にも見えなかった。 しかしこれはまだ用意ができていなかったわけである。イレネは、ズドという名の見張員を僕たちに紹介してくれた。日焦けした彫像のように立派な体躯を持った若者だった。そのズドが、 「それでは窓を開きます」 といって、まず中央の円筒型の壁の一部を開き、その中に取付けてある配電盤に向って何かしているうちに、がらがらと音がして硝子天井から洩れていた光が消え、室内の灯火も急に暗くなり、その代りに展望窓の方から、青味を帯びた光がさっとさし込んできた。 「ああ、月だ。月世界だ」 魚戸の声だ。 僕はそのとき呀っと息をのんだ。展望窓の上の方から、大きな丸い光る籠がぶらさがっているように見えたが、それこそ月世界であった。ようやく極く一部分が見えているのである。考えていたより何百倍か大きいものであった。月面は青白く輝き、くっきり黒い影でふちをとられた山岳や谿谷が手にとるようにありありと見えた。殊に放射状の深い溝を周囲に走らせている巨大な噴火口のようなものは、非常に恐ろしく見えた。 月世界の外の空間は全く暗黒であったが、その中に無数の星が寒そうな光を放って輝いていた。 僕は背中に氷がはり始めたような寒さを覚えた。そしてまた、僕たちの乗っているロケットが縹渺たる大宇宙の中にぽつんと浮んでいる心細さに胸を衝かれた。なるほど、こんな光景を永い間眺めていたら、誰でも頭が変になるであろう。僕は初めの意気込みにも似ず、この上展望室に立っていられなくなり、大急ぎでそこを出た。そして階段づたいにあたふたと記者倶楽部へ逃げもどってきた。 そのとき室内には、居る筈と思ったベラン氏の姿もなく、誰もいなかった。僕は長椅子のうえに身を投げ出した。破裂しそうな大きな動悸、なんとかしてそれが早く鎮まってくれることを祈った。 それから暫くすると、ワグナーが、部屋の中へ転げこんできた。彼の顔は死人のように蒼ざめていた。それに続いてフランケが戻ってきた。彼もふうふうと肩を波打たせていた。展望室にいた連中は、均しく誰も彼も大宇宙の悽愴なる光景に大きな衝動をうけたのであろう。 だが、魚戸とミミとは、いつまでたっても部屋へ戻ってこなかった。 僕は魚戸を呼び戻してやらねばならぬような気がしたが、立っていく元気はなかった。 そのうちに、どういうわけか、天井の電灯が急に燭力を落とした。そして妙な息づかいを始めた。と同時に、部屋全体が振動を起した。それはだんだん烈しくなっていった。 僕たちは皆立ち上って、部屋の真中に集った。 「なんだろう、これは……」 「なにか椿事が起ったのだ。こんなことは今までに一度もなかった」 だが、誰もその理由を説明できる者もなかったし、真相を糺しに行こうとする元気のある者もなかった。 ちょうどそのとき、入口の扉が荒々しくあいて、十名ばかりの艇員がどやどやと踏み込んできた。彼らは顔から胸へ、水の中を潜ってきたような汗をかいていた。 「皆さん、ごめんなさい。艇長の命令によって、卓子と椅子を外して持ち出します」 「えっ、なんだって」 応える代りに、彼等はスパナーと鉄棒とを使って、床にとりつけてあったナットを外し、卓子をもぎとり、椅子を引きはいだ。 「何をするのかね」 僕は尋ねた。しかし艇員は応えなかった。口をきくと、行動が鈍くなると思っているらしい。それほど彼らは忙いでいた。そして扉を開くと、それを担いでどんどん外へ搬び出した。僕たちは只目を瞠るばかりだった。 そのとき、戸棚の中から、魚戸の声がとびだした。その声は、腸を絞るような響きを持っていた。 「おい、岸はいないか。いたら、すぐ展望室へ来い。艇の外に、すさまじい光景が見える。本艇は宇宙墓地のすぐ傍に近づいたのだ。早く来い。これを見なければ……」 とまでいったが、そのあとはどうしたものか、声が消えてしまった。 僕は、魚戸の声に、元気をとり直した。そして同室の二人を促して、ふたたび展望室へ駈けあがっていったのである。
難航
展望室には、魚戸がいるだけだった。 ミミの姿も見えなかったし、その夫たるベラン氏も見えなかった。 魚戸は、僕たちの駈けあがってきたのを見ると、きつい顔付のまま満足げに肯いて、窓の外を指し、 「いま、本艇は大作業を始めている。この作業が成功しなかったら、本艇はわれわれを乗せたまま、永遠に宇宙墓地の墓石となり果てるのだ」 と、演説しているような口調でいった。 「もっと詳しく説明してくれ」 僕は魚戸の腕を抱えて、ゆすぶった。 「あれを見ろ」と魚戸は僕の身体を前方へ引摺るようにして、斜め上方を指し「探照灯は本艇が出しているのだが、あの青白い光の中に黒い小山のようなものが並んでしずかに動いているのが見えるだろう。おい見えるか、見えないか」 「うん、見える、見える」 僕はようやく魚戸の指すものを探し当てた。ふしぎな島の行列だった。暗黒の宇宙に、なぜこのような多島群があるのであろうか。 「見えたか。おい岸。あれを何だと思う」 「何だかなあ」 「あれが宇宙墓地なんだ。宇宙をとんでいる隕石などが、地球と月との引力の平衡点に吸込まれて、あのように堆積するのだ。あのようになると、地球と月とに釘付けされたまま、もう自力では宇宙を飛ぶことはできなくなるのだ。引力の場が、あすこに渦巻をなして巻き込んでいるのだ」 「ふうん」 僕は言葉も出なかった。 「ところで本艇は今、ずるずると宇宙墓地のなかに引込まれつつある。これはリーマン艇長の予期しなかった出来事なのだ。艇長は、そういうことなしに安全に平衡圏を突破できるものと考えていたのだ。どこかに計算のまちがいがあったわけだ。しかし艇長は、こういう場合に処する用意を考えて置いた。今それが始まっている。見たまえ、下の方を。本艇から、いろいろな物を外へ放り出しているのが見えるだろう」 と、魚戸は指を下の方に指した。 僕は欄干につかまって、下方を覗きこんだ。曲面を持った凹レンズ式の展望窓は、本艇の尾部の方を残りなく見ることが出来るようになっていた。尾部には強力なる照明灯が点いていて、昼間のように明るい。見ていると、艇側から、ぽいぽいと函のようなものが放り出される。その函は、マッチ箱ぐらい小さいようにも見えるし、また見ようによっては蜜柑箱よりも、もっと大きいようにも思われる。 「あの函はなんだろう」 「あれは屍体の入った棺桶だ」 「えっ、棺桶。ずいぶん数があるようだが、どうしてあんなに……」 「地球を出発して以来、本艇内には死者が十九名できた。その棺桶だ」 「なぜ放り出すのか。宇宙墓地へ埋葬するためかね」 「それは偶然の出来事だ。本当の意味は、この際、本艇の持っている不要の物品をできるだけ多く外へ投げ出し、引力の場を攪乱して、本艇が平衡点に吸込まれるのを懸命に阻止することにある。分るかね」 「よく分らない」 「じゃあこう思えばいいのだ。舟が渦巻のなかに吸込まれそうになっている。そのとき舟から大きな丸太を渦巻の中心へ向って投げ込むのだ。すると渦巻はその丸太を嚥みに懸るが、嚥んでいる間は渦巻の形が変る。ね、そうだろう。その機を外さず、舟は力漕して渦巻から遁れるのだ。それと同じように、いま本艇から出来るだけ沢山の物品を投げ出して、平衡点から遁れようとしているのだ。これで分ったろう」 「まあ、そのくらいでいい」僕には、はっきりしたことが嚥みこめなかった。「それで、それはうまく成功する見込みかね」 「今やっている最中だ。はっきり分るのは、もうすこし経ってだ。おお、卓子や長椅子を放り出している。艇長は、最後には、艇内にいる三十八人の発狂者を投げ出す決心をしている」 「三十八人の発狂者を……」 いつの間にそんなにたくさんの発狂者が出たのであろうか。僕は、ベラン氏のことを思い出した。 「それは人道に反する。発狂者とて、まだ生きているのではないか。生きているものをむざむざと……」 「待て。リーマン博士の考えはこうなんだ。もしも平衡点離脱に成功しなかったら、本艇の乗員三百九十名の生命は終焉だ。そればかりではない。折角の計画が挫折することは人類にとって一大損失だ。迫り来る地球人類の危機を如何にして防衛すべきかという問題の答案が、又もやこれから十何年も遅れることになる。それは思っても由々しきことだ。三十八人の発狂者を捨てるくらいは、小さい犠牲だと」 「そういわれると、そうではあるが……」僕は途中で息をついて「しかし僕はベラン氏の身の上を考えさせられるのだ。ベラン氏もやがて捨てられる番をまっているのじゃないか」 僕はこのところベラン氏の姿を見ないので、さては拘束されて発狂の三十八人組の中に入っているのに違いないと思った。 「ああベラン君のことかね。ベラン君なら、一時間ほど前から艇長に迫って、自分を直ちに本艇から地球へ戻せと駄々をこねだした。艇長は、そんなことは出来ないと突っ放ねた」 「今そんなことを持ち出すなんて、自ら火の中へとびこむようなものだ。じゃあ、ベラン氏は今はもう三十八人組の中に入れられたに違いない」 「それはどうかな。とにかくここに居たベラン夫人ミミがさっき艇長のところへ呼ばれていったが、そのままになっている」 「ミミが……。じゃあ、ベラン氏は取戻されるかもしれん」 「おれもそれを祈っているところだ」 魚戸はそういった後で、暗示を受けたようにぶるっと肩を慄わすと、展望窓から下をのぞきこんだ。と、彼は悲鳴に似た声をあげた。 「あっ、始まっている……」 「ええっ」 僕は魚戸の横にとんでいって、欄干越しに窓の下方を見た。ああ、たしかに始まっていた。宇宙墓地の方に向って、蜿蜒と続いて流れ込んでいく夥しい棺桶の列と家具の流れ。そのあとにぽつんぽつんと、落葉のように身体を曲げながら人間が続いていく。彼らは、艇側を離れると、何かを掴もうとするように手足をやけにばたばたさせるが、しばらく経つと四肢をぴんと張って、奴凧のような恰好になり、それから先は板のように硬直して空間をしずかに流れていくのだった。 「……十五、十六、十七……」 と、魚戸は数を数えている。捨てられゆく発狂者を数えているのだろう。 僕は魚戸のように落着いていることができず、その場にぺったり坐って、両腕の中に頭を抱えた。 「二十一、二十二、二十三……」 魚戸は数え続ける。僕は気の毒なベラン氏がその中に加わっていないことを一生けんめい祈り続けた。 「……三十七、三十八、三十九。可哀そうに、みんなで三十九人だ。三十九人も捨てられてしまった」 もう駄目だ。可哀想なベラン氏よ。僕は口の中で、ベラン氏の冥福を祈った。そして頭をいよいよ床にこすりつけた。そのとき急に自分の身体が……いやその部屋がひどく揺れだした。そして今まで聞いたことのない激しい物音が、僕をおどろかした。今にもこの部屋が裂けてしまうのではないかと心配であった。僕はちよっと目をあけたが、室内は暗黒であった。傍に立っていた筈の魚戸の姿さえ分らなかった。刻々激しさを加えていく鳴動の中に、僕は奈落へふり落とされていくような感じを受けたが、それっきり知覚をうしなってしまった。
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