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湯島の境内(ゆしまのけいだい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-23 10:53:49 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 泉鏡花集成7
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1995(平成7)年12月4日
入力に使用: 1995(平成7)年12月4日第1刷

底本の親本: 鏡花全集
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1942年7月刊行開始

 

  湯島の境内 (婦系図―戯曲―一齣)

※(歌記号、1-3-28)返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
仮声使こわいろつかい、両名、登場。
※(歌記号、1-3-28)上野の鐘のも氷る細き流れの幾曲いくまがり、すえは田川に入谷村いりやむら
その仮声使、料理屋のかどに立ち随意に仮色を使って帰る。
※(歌記号、1-3-28)くるわへ近き畦道あぜみちも、右か左か白妙しろたえに、
この間に早瀬主税ちから、おつたとともに仮色使と行逢ゆきあいつつ、登場。
※(歌記号、1-3-28)往来ゆききのなきをさいわいに、人目を忍びたたずみて、
仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留たちどまる。
お蔦 貴方あなた……貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭いやだ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇やみだ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体からだですもの。……
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。……初手しょてから覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労がたのしみよ。月も雪もありゃしません。(四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわす)ちょいとお花見をしてきましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)
※(歌記号、1-3-28)たしかにここと見覚えの門のとぼそに立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)
お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。
※(歌記号、1-3-28)風に鳴子なるこの音高く、
時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月がすわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃい。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 …………
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親のなさけが貴方に乗憑のりうつったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日おひる過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体からだにはちょうどい空合いでしたから、貴方の留守に、おっかさんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町いいだまちへ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命いのちがけのねがいかなって、容子ようすの可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、おっかさんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、たまには一所に連れて出て下さいまし。夫婦いっしょになると気抜きぬけがして、意地もはりもなくなって、ただ附着くッついていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。――そうおっかさんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込ふさぎこんでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可いけないと思って強請ねだったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にもめられたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日きのう一昨日おとといまでだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊すりの手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜くやしいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間からふさいでいるのはその事でしょう。いじゃありませんか。んだりたりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のおっかさんもそう云いました。蔦がどんな苦労でもたのしみにしますから、お世帯向はして御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有ありがたい、おいら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のおっかさんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲もかかるだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇やみにもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷きとうは身勝手、御不沙汰ごぶさたの御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴ぐちを云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年みどしで、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとのよ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くがい、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍しのばずまで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証ないしょ々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるがい。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。
早瀬 なぜ、ほかの事とは違う、信心ごとをしちゃ不可いけない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 つまらん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来でかした、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶うっとうしいからって、貴方が脱いだ外套がいとうをここに置きますよ。夜露がかかる、着た方がいわ。
※(歌記号、1-3-28)気転きかして奥と口。
お蔦 (拍手かしわでうつ。)
天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐こわいんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷したや上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃつまを取ってりゃ、鬼が来てもいけれども、今じゃ按摩あんま可恐こわいんだもの。
早瀬 し、大きな目をいて見ていてやる。大丈夫だ、早くきなよ。
お蔦 あい。
※(歌記号、1-3-28)互に心合鍵に、
早瀬見送る。――お蔦く。――
…………………………
※(歌記号、1-3-28)はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく三千歳みちとせが、
このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕をこまぬきものおもいに沈む。
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は……こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気がいて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にしてすがる)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さしのぞく)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のおそばはよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可いけません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むがい。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町なかちょうの角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町まさごちょうの先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、して決して河野こうのなんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、……
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々にこにこしつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっときまりの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃかった。……堪忍おしよ。いいだねえ。



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