泉鏡花集成7 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1995(平成7)年12月4日 |
1995(平成7)年12月4日第1刷 |
湯島の境内 (婦系図―戯曲―一齣)
冴返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
仮声使、両名、登場。
上野の鐘の 音も氷る細き流れの 幾曲、すえは田川に 入谷村、
その仮声使、料理屋の門に立ち随意に仮色を使って帰る。
廓へ近き 畦道も、右か左か 白妙に、
この間に早瀬主税、お蔦とともに仮色使と行逢いつつ、登場。
往来のなきを 幸に、人目を忍び 彳みて、
仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留る。
お蔦 貴方……貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭だ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇だ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体ですもの。……
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。…… 初手から覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労が 楽みよ。月も雪もありゃしません。( 四辺を す)ちょいとお花見をして 行きましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)
慥にここと見覚えの門の 扉に立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)
お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。
風に 鳴子の音高く、
時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月が射すわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃ可い。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 …………
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親の情が貴方に乗憑ったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日お午過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体にはちょうど可い空合いでしたから、貴方の留守に、お母さんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町へ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命がけの願が叶って、容子の可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、お母さんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、偶には一所に連れて出て下さいまし。夫婦になると気抜がして、意地も張もなくなって、ただ附着いていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。――そうお母さんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可ないと思って強請ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にも誉められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日、一昨日までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱いでいるのはその事でしょう。可いじゃありませんか。蹈んだり蹴たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽みにしますから、お世帯向は決して御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有い、俺ら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のお母さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇にもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷は身勝手、御不沙汰の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴を云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間よ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くが可い、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍まで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるが可い。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。
早瀬 なぜ、他の事とは違う、信心ごとを止しちゃ不可ない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 詰らん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来した、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶しいからって、貴方が脱いだ外套をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可いわ。
気転きかして奥と口。
お蔦 (拍手うつ。)
天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (行きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐いんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃ褄を取ってりゃ、鬼が来ても可いけれども、今じゃ按摩も可恐いんだもの。
早瀬 可し、大きな目を開いて見ていてやる。大丈夫だ、早く行きなよ。
お蔦 あい。
互に心合鍵に、
早瀬見送る。――お蔦行く。―― …………………………
はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく 三千歳が、
このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。 早瀬、腕を拱きものおもいに沈む。
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は……こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気が急いて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にして縋る)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さし覗く)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のお傍はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可ません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可い。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町の角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町の先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、決して決して河野なんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、……
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々しつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極りの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃ可かった。……堪忍おしよ。いい児だねえ。
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