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鷭狩(ばんがり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-23 10:29:50 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       四

 かれ稲田いなだ雪次郎と言う――宿帳の上をあらためて名を言った。画家である。いくたびも生死しょうしの境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。
 構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――
「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生命いのちの親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘もせがれも、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲をくらって、一時いっときに、一百いっそく二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣切やりきれない。――深更よふけに無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭うちめさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、めて見ると言ったって、水のながれは留められるものではない。が、女の力だ。あなたのなさけだ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちにめさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈てはずを違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川かけはしがわで以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸たまひびきと一所に姿が横に消えると、さっと血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然ぞっとして震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請ねだったような料簡りょうけんではありません。真人間が、真面目まじめに、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤児みなしごだが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌いはいを、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、おおき革鞄かばんの中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」
 と言った。おもて白蝋はくろうのように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛まつげのまたたくとともに、とこに置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
「あら! 私……」
 この、ものしずかなお澄が、あわただしく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段はしごだんを踏立てて、かかる夜陰をはばからぬ、音が静寂間しじま湧上わきあがった。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」
 と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いたくだんの幇間とうなずかれる。白い呼吸いきもほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
「や、お澄――ここか、座敷は。」
 ドアを開けた出会頭であいがしらに、爺やがそばに、供が続いて突立つったった忘八くつわの紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾きばやくびからさきへ突込つっこむ目に、何と、ねやの枕に小ざかもり、媚薬びやく髣髴ほうふつとさせた道具が並んで、生白なまじろけた雪次郎が、しまの広袖どてらで、微酔ほろよいで、夜具にもたれていたろうではないか。
 しょうの肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉うつせみの立つようなお澄は、呼吸いきも黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘虎襟らっこえり大外套おおがいとうの厚い煙に包まれた。
「いつもの上段のでございますことよ。」
 と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、ドア隣へ導くと、紳士の開閉あけたての乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。

       五

旦那だんなは――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中ごこうちゅうぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」
 階子段はしごだん足踏あしぶみして、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜よなかの鷭だよ、トンとつけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏くいなだ、水鶏だ、トントントトン。」と下りてく。
 あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂寞ひっそりした。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
 とはりから天井へ、つつぬけにドス声で、
「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木片こっぱでもない。――俺が汝等うぬらの手でつら溝泥どぶどろを塗られたのは夢じゃないぞ。このかッと開けた大きな目を見ろい。――よくもうぬ、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳はぶちぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」
「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は鸚鵡おうむがえしで、夜具にもたれて、両の肩をそびやかした。そして身構えた。
 が、そのまま何もなくバッタリんだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打むちうつ音が響く。チンチンチンチンと、かすかに鉄瓶の湯がたぎるような音がまじる。が、それでないと、湯気のけはいも、血汐ちしおが噴くようで、すさまじい。
 雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五たび廻った。――と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝子がらすめた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚のぞかれた――と思う。……そのまま忍寄って、そっとその幕をひきなぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌めこみになっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露呈あらわに白く捻上ねじあげられて、半身の光沢つやのある真綿をただ、ふっくりとかかとまで畳に裂いて、二条ふたすじ引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の結目むすびめを、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛のりかかって、忘八くつわの紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸ひばしで、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠ごうりゃくに、ひッつる肌に青い筋のうねるのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼吸いきさえせぬのである。
「ええ! ずぶてえ阿魔あまだ。」
 と、その鉄火箸かなひばしを、今は突刺しそうに逆に取った。
 この時、階段の下から跫音あしおとが来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
 さまでの苦痛をこらえたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目がやすりのようについた。横顔でつっぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、びんのおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条ひとすじを、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
 かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇間ほうかんが帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
 銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
 ドアから雪次郎がそっと覗くと、中段の処で、ひじを硬直に、帯の下の腰をおさえて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢けはいがしたか、ふいに真青まっさおな顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
 隣室には、しばらくいやしげに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
首途かどでに、くそ忌々いまいましい事があるんだ。どうだかなあ。さらけめて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」

       六

貴方あなた、ちょっと……お話がございます。」

 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻さっきお勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖のおもてがほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧をいて動いた。船である。
 睡眠ねむりは覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿いのちながかれ、鷭よ。
 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨がこわばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」
 お澄がしずかにそう言うと、からからとつりを手繰って、露台の硝子戸がらすどに、青い幕を深くおおうた。
 ねやの障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
 雪は※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうとなって手をいた。
「私は懺悔ざんげをする、皆嘘だ。――画工えかきは画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄やけまぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌いはいに面目のあるような男じゃない。――その大革鞄おおかばんかりものです。※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかいの盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭をいたのは事実です。女郎屋じょろやの亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪をわせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船をがせて、湖の鷭を狙撃ねらいうちに撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等やつらの口うつしに言うらしい、その三頭もしゃくに障った。なにしろ、私の突刎つっぱねられたように口惜くやしかった。嫉妬ねたみだ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思ってこらえてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
 とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野のあざみです。路傍みちばたちりなんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品ひとしな。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親ふたおやがあるんだよ。」
「私にもございますわ。」
 とりんと言った。
 こぶしを握って、きっと見て、
「お澄さん、剃刀かみそりを持っているか。」
「はい。」
「いや、――食切くいきってくれ、その皓歯しらはで。……潔くあなたに上げます。」
 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児おさなごが乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛いたみは鋭かった。
 かれは大夜具を頭から引被ひっかぶった。
「看病をいたしますよ。」
 お澄は、胸白く、下じめのほかに血がにじむ。……繻子しゅすの帯がするすると鳴った。

大正十二(一九二三)年一月




 



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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    「辟/鳥」    436-12

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