四
渠は稲田雪次郎と言う――宿帳の上を更めて名を言った。画家である。いくたびも生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。 構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。―― 「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生命の親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘も忰も、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を食って、一時に、一百二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣切れない。――深更に無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭撃を留めさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、留めて見ると言ったって、水の流は留められるものではない。が、女の力だ。あなたの情だ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに留めさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈を違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川で以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸の響と一所に姿が横に消えると、颯と血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然として震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請ったような料簡ではありません。真人間が、真面目に、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤児だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大な革鞄の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」 と言った。面が白蝋のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛のまたたくとともに、床に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。 「あら! 私……」 この、もの淑なお澄が、慌しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段を踏立てて、かかる夜陰を憚らぬ、音が静寂間に湧上った。 「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」 と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた件の幇間と頷かれる。白い呼吸もほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。 「や、お澄――ここか、座敷は。」 扉を開けた出会頭に、爺やが傍に、供が続いて突立った忘八の紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾に頸からさきへ突込む目に、何と、閨の枕に小ざかもり、媚薬を髣髴とさせた道具が並んで、生白けた雪次郎が、しまの広袖で、微酔で、夜具に凭れていたろうではないか。 正の肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉の立つようなお澄は、呼吸も黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘虎襟の大外套の厚い煙に包まれた。 「いつもの上段の室でございますことよ。」 と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、扉隣へ導くと、紳士の開閉の乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。
五
「旦那は――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」 階子段に足踏して、 「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜の鷭だよ、トンと打つけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて行く。 あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂寞した。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。 「黙れ!」 と梁から天井へ、つつぬけにドス声で、 「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木片でもない。――俺が汝等の手で面へ溝泥を塗られたのは夢じゃないぞ。この赫と開けた大きな目を見ろい。――よくも汝、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は打ぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」 「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は鸚鵡がえしで、夜具に凭れて、両の肩を聳やかした。そして身構えた。 が、そのまま何もなくバッタリ留んだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打つ音が響く。チンチンチンチンと、微に鉄瓶の湯が沸るような音が交る。が、それでないと、湯気のけはいも、血汐が噴くようで、凄じい。 雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五度廻った。――衝と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝子を嵌めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚覗かれた――と思う。……そのまま忍寄って、密とその幕を引なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露呈に白く捻上げられて、半身の光沢のある真綿をただ、ふっくりと踵まで畳に裂いて、二条引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の結目を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛って、忘八の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠に、ひッつる肌に青い筋の蜿るのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼吸さえせぬのである。 「ええ! ずぶてえ阿魔だ。」 と、その鉄火箸を、今は突刺しそうに逆に取った。 この時、階段の下から跫音が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。 さまでの苦痛を堪えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢のようについた。横顔で突ぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、鬢のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。…… かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇間が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。 銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。 扉から雪次郎が密と覗くと、中段の処で、肱を硬直に、帯の下の腰を圧えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢がしたか、ふいに真青な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。 隣室には、しばらく賤げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。 「何をしてうせおる。――遅いなあ。」 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。 「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」 「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、 「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」 「首途に、くそ忌々しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」
六
「貴方、ちょっと……お話がございます。」
――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。―― 「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「撃つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳いて動いた。船である。 睡眠は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿かれ、鷭よ。 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が硬ばったのである。
「貴方、ちょっと……お話がございます。」 お澄が静にそう言うと、からからと釣を手繰って、露台の硝子戸に、青い幕を深く蔽うた。 閨の障子はまだ暗い。 「何とも申しようがない。」 雪はとなって手を支いた。 「私は懺悔をする、皆嘘だ。――画工は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌に面目のあるような男じゃない。――その大革鞄も借ものです。樊の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画いたのは事実です。女郎屋の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕がせて、湖の鷭を狙撃に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等の口うつしに言うらしい、その三頭も癪に障った。なにしろ、私の画が突刎ねられたように口惜かった。嫉妬だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」 「貴方。」 とお澄がきっぱり言った。 「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊です。路傍の塵なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」 「その、その、その事だよ……実は。」 「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品。」 「ただ一品。」 「貴方の小指を切って下さい。」 「…………」 「澄に、小指を下さいまし。」 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、 「親が、両親があるんだよ。」 「私にもございますわ。」 と凜と言った。 拳を握って、屹と見て、 「お澄さん、剃刀を持っているか。」 「はい。」 「いや、――食切ってくれ、その皓歯で。……潔くあなたに上げます。」 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児が乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛は鋭かった。 渠は大夜具を頭から引被った。 「看病をいたしますよ。」 お澄は、胸白く、下じめの他に血が浸む。……繻子の帯がするすると鳴った。
大正十二(一九二三)年一月
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