六
「あい、」といひすてに、急足で、與吉は見る内に間近な澁色の橋の上を、黒い半被で渡つた。眞中頃で、向岸から駈けて來た郵便脚夫と行合つて、遣違ひに一緒になつたが、分れて橋の兩端へ、脚夫はつか/\と間近に來て、與吉は彼の、倒れながらに半ば黄ばんだ銀杏の影に小さくなつた。
七
「郵便!」 「はい、」と柳の下で、洗髮のお品は、手足の眞黒な配達夫が、突當るやうに目の前に踏留まつて棒立になつて喚いたのに、驚いた顏をした。 「更科お柳さん、」 「手前どもでございます。」 お品は受取つて、青い状袋の上書をじつと見ながら、片手を垂れて前垂のさきを抓むで上げつゝ、素足に穿いた黒緒の下駄を揃へて立つてたが、一寸飜して、裏の名を讀むと、顏の色が動いて、横目に框をすかして、片頬に笑を含むで、堪らないといつたやうな聲で、 「柳ちやん、來たよ!」といふが疾いか、横ざまに驅けて入る、柳腰、下駄が脱げて、足の裏が美しい。
八
與吉が仕事場の小屋に入ると、例の如く、直ぐ其まゝ材木の前に跪いて、鋸の柄に手を懸けた時、配達夫は、此處の前を横切つて、身を斜に、波に搖られて流るゝやうな足取で、走り去つた。 與吉は見も遣らず、傍目も觸らないで挽きはじめる。 巨大なる此の樟を濡らさないために、板屋根を葺いた、小屋の高さは十丈もあらう、脚の着いた臺に寄せかけたのが突立つて、殆ど屋根裏に屆くばかり。この根際に膝をついて、伸上つては挽き下ろし、伸上つては挽き下ろす、大鋸の齒は上下にあらはれて、兩手をかけた與吉の姿は、鋸よりも小さいかのやう。 小屋の中には單こればかりでなく、兩傍に堆く偉大な材木を積んであるが、其の嵩は與吉の丈より高いので、纔に鋸屑の降積つた上に、小さな身體一ツ入れるより他に餘地はない。で恰も材木の穴の底に跪いてるに過ぎないのである。 背後は突拔けの岸で、こゝにも地と一面な水が蒼く澄むで、ひた/\と小波の畝が絶えず間近う來る。往來傍には又岸に臨むで、果しなく組違へた材木が並べてあるが、二十三十づゝ、四ツ目形に、井筒形に、規律正しく、一定した距離を置いて、何處までも續いて居る、四ツ目の間を、井筒の彼方を、見え隱れに、ちらほら人が通るが、皆默つて歩行いて居るので。 淋い、森とした中に手拍子が揃つて、コツ/\コツ/\と、鐵槌の音のするのは、この小屋に並んだ、一棟、同一材木納屋の中で、三個の石屋が、石を鑿るのである。 板圍をして、横に長い、屋根の低い、濕つた暗い中で、働いて居るので、三人の石屋も齊しく南屋に雇はれて居るのだけれども、渠等は與吉のやうなのではない、大工と一所に、南屋の普請に懸つて居るので、ちやうど與吉の小屋と往來を隔てた眞向うに、小さな普請小屋が、眞新い、節穴だらけな、薄板で建つて居る、三方が圍つたばかり、編むで繋いだ繩も見え、一杯の日當で、いきなり土の上へ白木の卓子を一脚据ゑた、其上には大土瓶が一個、茶呑茶碗が七個八個。 後に置いた腰掛臺の上に、一人は匍匐になつて、肱を張つて長々と伸び、一人は横ざまに手枕して股引穿いた脚を屈めて、天窓をくツつけ合つて大工が寢そべつて居る。普請小屋と、花崗石の門柱を並べて扉が左右に開いて居る、門の内の横手の格子の前に、萌黄に塗つた中に南と白で拔いたポンプが据つて、其縁に釣棹と畚とがぶらりと懸つて居る、眞にもの靜かな、大家の店前に人の氣勢もない。裏庭とおもふあたり、遙か奧の方には、葉のやゝ枯れかゝつた葡萄棚が、影を倒にうつして、此處もおなじ溜池で、門のあたりから間近な橋へかけて、透間もなく亂杭を打つて、數限もない材木を水のまゝに浸してあるが、彼處へ五本、此處へ六本、流寄つた形が判で印した如く、皆三方から三ツに固つて、水を三角形に區切つた、あたりは廣く、一面に早苗田のやうである。この上を、時々ばら/\と雀が低う。
九
其他に此處で動いてるものは與吉が鋸に過ぎなかつた。 餘り靜かだから、しばらくして、又しばらくして、樟を挽く毎にぼろ/\と落つる木屑が判然聞える。 (父親は何故魚を食べないのだらう、)とおもひながら膝をついて、伸上つて、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて輕く、材木の一處から湧くやうになつて、肩にも胸にも膝の上にも降りかゝる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時雨のやうな微な響が、寂寞とした巨材の一方から聞えた。 柄を握つて、挽きおろして、與吉は呼吸をついた。 (左樣だ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がつたまゝ、皿の中に殘るのだ、) と思ひながら、絶えず拍子にかゝつて、伸縮に身體の調子を取つて、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた溢れて來る。 (何故だらう、これは鋸で挽く所爲だ、)と考へて、柳の葉が痛むといつたお品の言が胸に浮ぶと、又木屑が胸にかゝつた。 與吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周圍は、杉の香、松の匂に包まれた穴の底で、目を つて、跪いて、鋸を握つて、空ざまに仰いで見た。 樟の材木は斜めに立つて、屋根裏を漏れてちら/\する日光に映つて、言ふべからざる森嚴な趣がある。この見上ぐるばかりな、これほどの丈のある樹はこの邊でつひぞ見た事はない、橋の袂の銀杏は固より、岸の柳は皆短い、土手の松はいふまでもない、遙に見える其梢は殆ど水面と並んで居る。 然も猶これは眞直に眞四角に切たもので、およそ恁る角の材木を得ようといふには、杣が八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。 那な大木のあるのは蓋し深山であらう、幽谷でなければならぬ。殊にこれは飛騨山から して來たのであることを聞いて居た。 枝は蔓つて、谷に亙り、葉は茂つて峰を蔽ひ、根はたゞ一山を絡つて居たらう。 其時は、其下蔭は矢張こんなに暗かつたが、蒼空に日の照る時も、と然う思つて、根際に居た黒い半被を被た、可愛い顏の、小さな蟻のやうなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞつとしたが、 (父親は何うしてるだらう、)と考へついた。 鋸は又動いて、 (左樣だ、今頃は彌六親仁がいつもの通、筏を流して來て、あの、船の傍を漕いで通りすがりに、父上に聲をかけてくれる時分だ、) と思はず振向いて池の方、うしろの水を見返つた。 溜池の眞中あたりを、頬冠した、色のあせた半被を着た、脊の低い親仁が、腰を曲げ、足を突張つて、長い棹を繰つて、畫の如く漕いで來る、筏は恰も人を乘せて、油の上を辷るやう。 する/\と向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛脛を掠めて、蒼い水の上を鴎が弓形に大きく鮮かに飛んだ。
十
「與太坊、父爺は何事もねえよ。」と、池の眞中から聲を懸けて、おやぢは小屋の中を覗かうともせず、爪さきは小波を浴ぶるばかり沈むだ筏を棹さして、此時また中空から白い翼を飜して、ひら/\と落して來て、水に姿を宿したと思ふと、向うへ飛んで、鴎の去つた方へ、すら/\と流して行く。 これは彌六といつて、與吉の父翁が年來の友達で、孝行な兒が仕事をしながら、病人を案じて居るのを知つて居るから、例として毎日今時分通りがかりに其消息を傳へるのである。與吉は安堵して又仕事にかゝつた。 (父親は何事もないが、何故魚を喰べないのだらう。左樣だ、刺身は一寸だめしで、鱠はぶつぶつ切だ、魚の煮たのは、食べると肉がからみついたまゝ頭に繋つて、骨が殘る、彼の皿の中の死骸に何うして箸がつけられようといつて身震をする、まつたくだ。そして魚ばかりではない、柳の葉も食切ると痛むのだ、)と思ひ/\、又この偉大なる樟の殆ど神聖に感じらるゝばかりな巨材を仰ぐ。 高い屋根は、森閑として日中薄暗い中に、ほの/″\と見える材木から又ぱら/\と、ぱら/\と、其處ともなく、鋸の屑が溢れて落ちるのを、思はず耳を澄まして聞いた。中央の木目から渦いて出るのが、池の小波のひた/\と寄する音の中に、隣の納屋の石を切る響に交つて、繁つた葉と葉が擦合ふやうで、たとへば時雨の降るやうで、又無數の山蟻が谷の中を歩行く跫音のやうである。 與吉はとみかうみて、肩のあたり、胸のあたり、膝の上、跪いてる足の間に落溜つた、堆い、木屑の積つたのを、樟の血でないかと思つてゾツとした。 今まで其上について暖だつた膝頭が冷々とする、身體が濡れはせぬかと疑つて、彼處此處袖襟を手で拊いて見た。仕事最中、こんな心持のしたことは始めてである。 與吉は、一人谷のドン底に居るやうで、心細くなつたから、見透かす如く日の光を仰いだ。薄い光線が屋根板の合目から洩れて、幽かに樟に映つたが、巨大なるこの材木は唯單に三尺角のみのものではなかつた。 與吉は天日を蔽ふ、葉の茂つた五抱もあらうといふ幹に注連繩を張つた樟の大樹の根に、恰も山の端と思ふ處に、しツきりなく降りかゝる翠の葉の中に、落ちて落ち重なる葉の上に、あたりは眞暗な處に、蟲よりも小な身體で、この大木の恰も其の注連繩の下あたりに鋸を突さして居るのに心着いて、恍惚として目を つたが、氣が遠くなるやうだから、鋸を拔かうとすると、支へて、堅く食入つて、微かにも動かぬので、はツと思ふと、谷々、峰々、一陣轟!と渡る風の音に吃驚して、數千仞の谷底へ、眞倒に落ちたと思つて、小屋の中から轉がり出した。 「大變だ、大變だ。」 「あれ! お聞き、」と涙聲で、枕も上らぬ寢床の上の露草の、がツくりとして仰向けの淋い素顏に紅を含んだ、白い頬に、蒼みのさした、うつくしい、妹の、ばさ/\した天神髷の崩れたのに、淺黄の手絡が解けかゝつて、透通るやうに眞白で細い頸を、膝の上に抱いて、抱占めながら、頬摺していつた。お品が片手にはしつかりと前刻の手紙を握つて居る。 「ねえ、ねえ、お聞きよ、あれ、柳ちやん――柳ちやん――しつかりおし。お手紙にも、そこらの材木に枝葉がさかえるやうなことがあつたら、夫婦に成つて遣るツて書いてあるぢやあないか。 親の爲だつて、何だつて、一旦他の人に身をお任せだもの、道理だよ。お前、お前、それで氣を落したんだけれど、命をかけて願つたものを、お前、其までに思ふものを、柳ちやん、何だつてお見捨てなさるものかね、解つたかい、あれ、あれをお聞きよ。もう可いよ。大丈夫だよ。願は叶つたよ。」 「大變だ、大變だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂つた、大變だ、枝が出來た。」 と普請小屋、材木納屋の前で叫び足らず、與吉は狂氣の如く大聲で、此家の前をも呼はつて歩行いたのである。 「ね、ね、柳ちやん――柳ちやん――」 うつとりと、目を開いて、ハヤ色の褪せた唇に微笑むで頷いた。人に血を吸はれたあはれな者の、將に死なんとする耳に、與吉は福音を傳へたのである、この與吉のやうなものでなければ、實際また恁る福音は傳へられなかつたのであらう。
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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