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黒百合(くろゆり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 13:13:48 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       五十七

 我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花にうずもれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細いやつれた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。
 お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げにたたずんでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気そっけなく向うを向いてしまったので、力無げにあゆみとどめた、目には暗涙をたたえたり。
 やがて後姿に触れて、ゆさゆさとゆすぶられる、のりうつぎの花のこずえは、少年を包んで見えなくなった。
 これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツはる彼方かなたの峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくにさっと寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺あたりを暗くした中に、娘の白いはだえを包んで、はたと仰向あおむけたおれた。
「あれえ、」
 叫ぶに応じて少年は、再び猛然としてあらわれたが、宙を飛んで躍りかかった。こぶしを握って高く上げると、大鷲の翼をんで、そのうなじを打ったのである。
「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」
 と怒気満面にあふれて叱咤しったした。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。
 黒雲一団うずまく中に、鷲は一双の金の瞳をいからしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空こくうに退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、たたかいの矢を白い花の上に残した。
 少年が勇威凜々りんりんとして今大鷲をった時の風采は、理学士をして思わずおもてを伏せて、たおれたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。
 かくして少年ははたたなそこってちりを払ったが、吐息をいて、さすがに心ゆるみ、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々たえだえなお雪を見て、眉をひそめて、
「ちょッ、しようのねえ女だな。」
 やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪はさかさまに乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃にいかりをなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空にいかのぼりのごとくすわって、やや動き且つ動くのを、きっにらんでは仰いで見たが、と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎの花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後をけて、ややあって一座の巌石、形ひきがえる天窓あたまに似たのが前途ゆくてふさいで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。
 もとよりうしろは見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角にすがって蝙蝠こうもりずるがごとく、ひらりひらりといわおの頂に上った。この巌の頂は、かれを載せて且つあゆみを巡らさしむるにあまりあるものである。
 時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲をただよわせ、天を頂いて突立つったったが、何とかしけむ、足蹈あしぶみをして、
「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色はおもてに溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐひびきである。
 少年はいとせわしく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、と端に臨んで、俯向うつむいて見る見る失望の色をあらわした。思わず嘆息をして口惜しそうに、
「どこまでたたるんだな、けだものめ。」

       五十八

 少年を載せた巌は枝に留まったふくろのようで、その天窓あたま大きく、尻ッこけになって幾千仭いくせんじんともわきまえぬ谷の上へ、おおかぶさってななめに出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木きょうぼくは、こずえを揃えてくだんいわの裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これをみおろして、雲の桟橋かけはしのなきに失望した。しかるにさかさまに伏してのぞかぬ目には見えないであろう、尻ッこけになったいわおの裾に居て、可怪あやしい喬木の梢なる樹々の葉をしとねとして、大胡坐おおあぐらを組んだ、――何等のものぞ。
 面赭かおあかく、耳あおく、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色うすかばいろの産毛のようで、房々としてやわらかに長い毛が一面の生いて、人かけだものかを見分かぬが、朦朧もうろうとしてただ霧をつかねて鋳出いだしたよう。真俯向まうつむきになっておもてを上げず、ものとも知らぬみたる声で、
「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干えとを数えてつぶやきながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、くだんの細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)かきむしる。時に手をとどめてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌のかけを掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内にあやうく一重の皮を残して、まさに断切ちぎれて逆さまに飛ばんとする。
 あれあれ、とばかりに学士は目もれ、心も消え、体に悪熱あくねつを感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うしておのが耳にも定かならず。可恐おそろしきものの巌を切る音は、肝先きもさきを貫いて、滝のひびきは耳をろうするようであった。
 羽撃はばたき聞えて、鷲はさっと大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年のかしらに縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空におちいったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然がくぜんとして可恐おそろしい夢から覚めたのである。
 拓は茫然自失して、さきのまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねてたおれようとしたが、ふとやみのままうとうとと居眠ったのに、いついたか、見えぬ目にともしびが映えるのに心着いた。
 確かにかたわらに人の気勢けはい

       五十九

「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。
 急に答がないので、更に、
「誰だ。」
「はい、」とかすかにこたえた。
 理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のはうたがいも無いお雪である。
 これを聞いてかれは思わず手を差延べて、いだこうとしたが、触れば消失きえうせるであろうと思って、悚然ぞっとして膝に置いたが、打戦うちわななく。
「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」
 と判然はっきり、それも一言ひとことごとに切なく呼吸いきが切れる様子。ありしがごとき艱難かんなんうちから蘇生よみがえって来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚びっくりして、
「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。
 お雪はその時答えなかった。
 理学士は繰返してまた、
「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸をおどらして口をつぐむ。
 しばらくして、
「送って来て下さいましたよ。」
「そして※(疑問符感嘆符、1-8-77)
「あの、おむこうの荒物屋に休んでいらっしゃいます。」
「そうか、」といったが、我ながら素気そっけなく、その真心を謝するにも、うらみをいうにも、喜ぶにも、激して容易たやすくはことばも出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、うつつのごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人ひとしく涙をたたえて、差俯向さしうつむいて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。
 かまちに人の跫音あしおとがしたが、あわただしく奥に来て、さかんな激しい声は、沈んで力強く、
げろ、遁げねえか、何をしとる!」
 お雪は薄暗いともしびの影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白あおじろい顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うもしや!
洪水みずだ、しっかりしろ。」
 お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。
「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起はねおきようとしてともしを消した。
周章あわてるない、」といって滝太郎はと戻って、やにわにお雪の手を取った。
「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽うろたえたか、たすけられた滝太郎の手を振放して、たおれかかって拓の袖を千切れよといた。

       六十

 お雪は曳いて、曳き動かして、
「どうしましょう、あれ、早く貴方あなた、貴方。」
 拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷ふみすべったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなとふるえた。ただしんとして縁板がさっと白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。
「ええ、」といって学士も立った。
可恐おそろしい早さだ、放すな!」と滝太郎はせなかをお雪に差向ける。途端にすさまじい音がして、わっという声が沈んで聞える。
「お雪! お雪。」
 学士も我を忘れてたすけを呼んだのである。
「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」
「うむ、」
「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」
「二人じゃあ不可いけねえや、」
「内の人を、私の夫を。」
「おいら、お前でなくっちゃあ、」
いや、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。
「だって、おめえ良人ていしゅなら、おいらにゃあかたきだぜ。」
「私は死んでしまいます。」
「へへ、駄目だい、」とつばするがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。
「滝だ、大丈夫だ。」
「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退すさって壁にひたりとせなをあてた。
「あれ、拓さん、」とばかり身をあせるお雪が膝は、早や水に包まれているのである。
「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。
 滝太郎は真中まんなかに立って、くだんの鋭い目に左右を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして瞳を輝かした。
「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、けなけりゃみんなで死のう。」
 雨は先刻さっきんで、黒雲くろくも絶間たえまに月が出ていた。湯の谷の屋根に処々ところどころ立てた高張のあかりして、のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いてみなぎる水は、随処、亀甲形きっこうがた[#「亀甲形」は底本では「亀申形」]うねり畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪をうなじに縋らせて、滝太郎はおもてらずくだん洞穴ほらあなを差して渡ったが、縁を下りる時、破屋あばらやは左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水みずの上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、
「拓さん堪忍して。」
 声を残して、うおおどるがごとく、身をひるがえして水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋のばばなんど、五七人乗った小舟を漕寄こぎよせたが、流れて来る材木がくるりと廻ってふなばたを突いたので、船は波に乗ってさっ退いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟みずけぶりを立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。
 その湯の谷でおぼれたのが十七人、……お雪はそのうちの一人であった。
 水は一晩で大方退いて、翌日あくるひは天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来ゆききする。勇美子は裾を引上げて濁水にはぎを浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立のせなを干して、かたわらに立っていた、水はやや駒のひづめを没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏めざとく見て、腕捲うでまくりをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母ばいもに似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁はなびらが六つ、黄粉こうふんを包んだしべが六つ、つぼみが一つ。
 数年ののち、いずこにも籍を置かぬ一そうの冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼が乗組んで、大洋の波にうかんだ時は、必ずこの黒百合をもって船になずけるのであろう。

明治三十二(一八九九)年六~八月




 



底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
   1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
※底本の誤植は親本を参照して直しました。
入力:もんむー
校正:門田裕志
2005年3月16日作成
2005年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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    「火+發」    262-14、276-15、308-13
    「なべぶた/(田+久)」    264-5

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