五十七
我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋もれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶れた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。 お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳んでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気なく向うを向いてしまったので、力無げに歩を停めた、目には暗涙を湛えたり。 やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺ぶられる、のりうつぎの花の梢は、少年を包んで見えなくなった。 これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥か彼方の峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯と寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺を暗くした中に、娘の白い膚を包んで、はたと仰向に僵れた。 「あれえ、」 叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕れたが、宙を飛んで躍りかかった。拳を握って高く上げると、大鷲の翼を蹈んで、その頸を打ったのである。 「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」 と怒気満面に溢れて叱咤した。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。 黒雲一団渦く中に、鷲は一双の金の瞳を怒らしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空に退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦の矢を白い花の上に残した。 少年が勇威凜々として今大鷲を搏った時の風采は、理学士をして思わず面を伏せて、僵れたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。 かくして少年ははた掌を拍って塵を払ったが、吐息を吐いて、さすがに心弛み、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々なお雪を見て、眉を顰めて、 「ちょッ、しようのねえ女だな。」 やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆に乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃に怒をなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧のごとく居って、やや動き且つ動くのを、屹と睨んでは仰いで見たが、衝と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎの花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟けて、ややあって一座の巌石、形蟇の天窓に似たのが前途を塞いで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。 もとより後は見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋って蝙蝠の攀ずるがごとく、ひらりひらりと巌の頂に上った。この巌の頂は、渠を載せて且つ歩を巡らさしむるに余あるものである。 時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾わせ、天を頂いて突立ったが、何とかしけむ、足蹈をして、 「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色は面に溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響である。 少年はいと忙しく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝と端に臨んで、俯向いて見る見る失望の色を顕した。思わず嘆息をして口惜しそうに、 「どこまで祟るんだな、獣め。」
五十八
少年を載せた巌は枝に留まった梟のようで、その天窓大きく、尻ッこけになって幾千仭とも弁えぬ谷の上へ、蔽い被さって斜に出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木は、梢を揃えて件の巌の裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯し瞰して、雲の桟橋のなきに失望した。しかるに倒に伏して覗かぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌の裾に居て、可怪い喬木の梢なる樹々の葉を褥として、大胡坐を組んだ、――何等のものぞ。 面赭く、耳蒼く、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色の産毛のようで、房々として柔かに長い毛が一面の生いて、人か獣かを見分かぬが、朦朧としてただ霧を束ねて鋳出したよう。真俯向になって面を上げず、ものとも知らぬ濁みたる声で、 「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干を数えて呟きながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件の細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻 る。時に手を留めてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠を掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危く一重の皮を残して、まさに断切れて逆さまに飛ばんとする。 あれあれ、とばかりに学士は目も眩れ、心も消え、体に悪熱を感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己が耳にも定かならず。可恐しきものの巌を切る音は、肝先を貫いて、滝の響は耳を聾するようであった。 羽撃聞えて、鷲は颯と大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭に縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥ったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然として可恐い夢から覚めたのである。 拓は茫然自失して、前のまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵れようとしたが、ふと闇のままうとうとと居眠ったのに、いつ点いたか、見えぬ目に燈が映えるのに心着いた。 確かに傍に人の気勢。
五十九
「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。 急に答がないので、更に、 「誰だ。」 「はい、」と幽かに応えた。 理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑も無いお雪である。 これを聞いて渠は思わず手を差延べて、抱こうとしたが、触れば消失せるであろうと思って、悚然として膝に置いたが、打戦く。 「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」 と判然、それも一言ごとに切なく呼吸が切れる様子。ありしがごとき艱難の中から蘇生って来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚して、 「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。 お雪はその時答えなかった。 理学士は繰返してまた、 「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳らして口を噤む。 しばらくして、 「送って来て下さいましたよ。」 「そして 」 「あの、お向の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」 「そうか、」といったが、我ながら素気なく、その真心を謝するにも、怨をいうにも、喜ぶにも、激して容易くは語も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人斉しく涙を湛えて、差俯向いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。 框に人の跫音がしたが、慌しく奥に来て、壮な激しい声は、沈んで力強く、 「遁げろ、遁げねえか、何をしとる!」 お雪は薄暗い燈の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾しや! 「洪水だ、しっかりしろ。」 お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。 「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起きようとして燈を消した。 「周章てるない、」といって滝太郎は衝と戻って、やにわにお雪の手を取った。 「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽えたか、扶けられた滝太郎の手を振放して、僵れかかって拓の袖を千切れよと曳いた。
六十
お雪は曳いて、曳き動かして、 「どうしましょう、あれ、早く貴方、貴方。」 拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷ったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫えた。ただ森として縁板が颯と白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。 「ええ、」といって学士も立った。 「可恐しい早さだ、放すな!」と滝太郎は背をお雪に差向ける。途端に凄じい音がして、わっという声が沈んで聞える。 「お雪! お雪。」 学士も我を忘れて助を呼んだのである。 「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」 「うむ、」 「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」 「二人じゃあ不可ねえや、」 「内の人を、私の夫を。」 「おいら、お前でなくっちゃあ、」 「厭、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。 「だって、汝の良人なら、おいらにゃあ敵だぜ。」 「私は死んでしまいます。」 「へへ、駄目だい、」と唾するがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。 「滝だ、大丈夫だ。」 「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退って壁にひたりと背をあてた。 「あれ、拓さん、」とばかり身を急るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。 「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。 滝太郎は真中に立って、件の鋭い目に左右を して瞳を輝かした。 「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可けなけりゃ皆で死のう。」 雨は先刻に止んで、黒雲の絶間に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々立てた高張の明が射して、眼のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲る水は、随処、亀甲形[#「亀甲形」は底本では「亀申形」]に畝り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸に縋らせて、滝太郎は面も触らず件の洞穴を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、 「拓さん堪忍して。」 声を残して、魚の跳るがごとく、身を飜して水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼なんど、五七人乗った小舟を漕寄せたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷を突いたので、船は波に乗って颯と退いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟を立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。 その夜湯の谷で溺れたのが十七人、……お雪はその中の一人であった。 水は一晩で大方退いて、翌日は天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来する。勇美子は裾を引上げて濁水に脛を浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背を干して、傍に立っていた、水はやや駒の蹄を没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏く見て、腕捲りをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母に似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁が六つ、黄粉を包んだ蘂が六つ、莟が一つ。 数年の後、いずこにも籍を置かぬ一艘の冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼等が乗組んで、大洋の波に浮んだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号けるのであろう。
明治三十二(一八九九)年六~八月
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「火+發」 |
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262-14、276-15、308-13 |
「なべぶた/(田+久)」 |
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