まだ羽織も着ない。手織縞の茶つぽい袷の袖に、鍵裂が出來てぶら下つたのを、腕に捲くやうにして笛を握つて、片手向うづきに杖を突張つた、小倉の櫂の口が、ぐたりと下つて、裾のよぢれ上つた痩脚に、ぺたんことも曲んだとも、大きな下駄を引摺つて、前屈みに俯向いた、瓢箪を俯向に、突き出た出額の尻すぼけ、情を知らず故らに繪に描いたやうなのが、ピイロロロピイと仰向いて吹いて、すぐ、ぐつたりと又俯向く。鍵なりに町を曲つて、水の音のやゝ聞こえる、流の早い橋を越すと、又道が折れた。突當りがもうすぐ山懷に成る。其處の町屋を、馬の沓形に一廻りして、振返つた顏を見ると、額に隱れて目の窪んだ、頤のこけたのが、かれこれ四十ぐらゐな年であつた。 うか/\と、あとを歩行いた方は勝手だが、彼は勝手を超越した朝飯前であらうも知れない。笛の音が胸に響く。 私は欄干に彳んで、返りを行違はせて見送つた。おなじやうに、或は傾き、また俯向き、さて笛を仰いで吹いた、が、やがて、來た道を半ば、あとへ引返した處で、更めて乘つかる如く下駄を留めると、一方、鎭守の社の前で、ついた杖を、丁と小脇に引そばめて上げつゝ、高々と仰向いた、さみしい大な頭ばかり、屋根を覗く來日ヶ峰の一處を黒く抽いて、影法師を前に落して、高らかに笛を鳴らした。 ――きよきよらツ、きよツ/\きよツ! 八千八谷を流るゝ、圓山川とともに、八千八聲と稱ふる杜鵑は、ともに此地の名物である。それも昨夜の按摩が話した。其時、口で眞似たのが此である。例の(ほぞんかけたか)を此の邊では、(きよきよらツ、きよツ/\)と聞くらしい。 ひと聲、血に泣く其の笛を吹き落すと、按摩は、とぼ/\と横路地へ入つて消えた。 續いて其處を通つたが、もう見えない。 私は何故か、ぞつとした。 太鼓の音の、のびやかなあたりを、早足に急いで歸るのに、途中で橋を渡つて岸が違つて、石垣つゞきの高塀について、打つかりさうに大な黒い門を見た。立派な門に不思議はないが、くゞり戸も煽つたまゝ、扉が夥多しく裂けて居る。覗くと、山の根を境にした廣々とした庭らしいのが、一面の雜草で、遠くに小さく、壞れた四阿らしいものの屋根が見える。日に水の影もさゝぬのに、其の四阿をさがりに、二三輪、眞紫の菖蒲が大くぱつと咲いて、縋つたやうに、倒れかゝつた竹の棹も、池に小船に棹したやうに面影に立つたのである。 此の時の旅に、色彩を刻んで忘れないのは、武庫川を過ぎた生瀬の停車場近く、向う上りの徑に、じり/\と蕊に香を立てて咲揃つた眞晝の芍藥と、横雲を眞黒に、嶺が颯と暗かつた、夜久野の山の薄墨の窓近く、草に咲いた姫薊の紅と、――此の菖蒲の紫であつた。 ながめて居る目が、やがて心まで、うつろに成つて、あツと思ふ、つい目さきに、又うつくしいものを見た。丁ど瞳を離して、あとへ一歩振向いた處が、川の瀬の曲角で、やゝ高い向岸の、崖の家の裏口から、巖を削れる状の石段五六段を下りた汀に、洗濯ものをして居た娘が、恰もほつれ毛を掻くとて、すんなりと上げた眞白な腕の空ざまなのが睫毛を掠めたのである。 ぐらり、がたがたん。 「あぶない。」 「いや、これは。」 すんでの處。――落つこちるのでも、身投でも、はつと抱きとめる救手は、何でも不意に出る方が人氣が立つ。すなはち同行の雪岱さんを、今まで祕しておいた所以である。 私は踏んだ石の、崖を崩れかゝつたのを、且つ視て苦笑した。餘りの不状に、娘の方が、優い顏をぽつと目瞼に色を染め、膝まで卷いて友禪に、ふくら脛の雪を合はせて、紅絹の影を流に散らして立つた。 さるにても、按摩の笛の杜鵑に、拔かしもすべき腰を、娘の色に落ちようとした。私は羞ぢ且つ自ら憤つて酒を煽つた。――なほ志す出雲路を、其日は松江まで行くつもりの汽車には、まだ時間がある。私は、もう一度宿を出た。 すぐ前なる橋の上に、頬被した山家の年増が、苞を開いて、一人行く人のあとを通つた、私を呼んで、手を擧げて、「大な自然薯買うておくれなはらんかいなア。」……はおもしろい。朝まだきは、旅館の中庭の其處此處を、「大きな夏蜜柑買はんせい。」……親仁の呼聲を寢ながら聞いた。働く人の賣聲を、打興ずるは失禮だが、旅人の耳には唄である。 漲るばかり日の光を吸つて、然も輕い、川添の道を二町ばかりして、白い橋の見えたのが停車場から突通しの處であつた。橋の詰に、――丹後行、舞鶴行――住の江丸、濱鶴丸と大看板を上げたのは舟宿である。丹後行、舞鶴行――立つて見たばかりでも、退屈の餘りに新聞の裏を返して、バンクバー、シヤトル行を睨むが如き、情のない、他人らしいものではない。――蘆の上をちら/\と舞ふ陽炎に、袖が鴎になりさうで、遙に色の名所が偲ばれる。手輕に川蒸汽でも出さうである。早や、その蘆の中に並んで、十四五艘の網船、田船が浮いて居た。 どれかが、黄金の魔法によつて、雪の大川の翡翠に成るらしい。圓山川の面は今、こゝに、其の、のんどりと和み軟いだ唇を寄せて、蘆摺れに汀が低い。彳めば、暖く水に抱かれた心地がして、藻も、水草もとろ/\と夢が蕩けさうに裾に靡く。おゝ、澤山な金魚藻だ。同町内の瀧君に、ひと俵贈らうかな、……水上さんは大な目をして、二七の縁日に金魚藻を探して行く。…… 私は海の空を見た。輝く如きは日本海の波であらう。鞍掛山、太白山は、黛を左右に描いて、來日ヶ峰は翠なす額髮を近々と、面ほてりのするまで、じり/\と情熱の呼吸を通はす。緩い流は浮草の帶を解いた。私の手を觸れなかつたのは、濡れるのを厭つたのでない、波を恐れたのでない。圓山川の膚に觸れるのを憚つたのであつた。 城崎は――今も恁の如く目に泛ぶ。
こゝに希有な事があつた。宿にかへりがけに、客を乘せた俥を見ると、二臺三臺、俥夫が揃つて手に手に鐵棒を一條づゝ提げて、片手で楫を壓すのであつた。――煙草を買ひながら聞くと、土地に數の多い犬が、俥に吠附き戲れかゝるのを追拂ふためださうである。駄菓子屋の縁臺にも、船宿の軒下にも、蒲燒屋の土間にも成程居たが。――言ふうちに、飛かゝつて、三疋四疋、就中先頭に立つたのには、停車場近く成ると、五疋ばかり、前後から飛びかゝつた。叱、叱、叱! 畜生、畜生、畜生。俥夫が鐵棒を振舞すのを、橋に立つて見たのである。 其の犬どもの、耳には火を立て、牙には火を齒み、焔を吹き、黒煙を尾に倦いて、車とも言はず、人とも言はず、炎に搦んで、躍上り、飛蒐り、狂立つて地獄の形相を顯したであらう、と思はず身の毛を慄立てたのは、昨、十四年五月二十三日十一時十分、城崎豐岡大地震大火の號外を見ると同時であつた。 地方は風物に變化が少い。わけて唯一年、もの凄いやうに思ふのは、月は同じ月、日はたゞ前後して、――谿川に倒れかゝつたのも殆ど同じ時刻である。娘も其處に按摩も彼處に―― 其の大地震を、あの時既に、不氣味に按摩は豫覺したるにあらざるか。然らば八千八聲を泣きつゝも、生命だけは助かつたらう。衣を洗ひし娘も、水に肌は焦すまい。 當時寫眞を見た――湯の都は、たゞ泥と瓦の丘となつて、なきがらの如き山あるのみ。谿川の流は、大むかでの爛れたやうに……其の寫眞も赤く濁る……砂煙の曠野を這つて居た。 木も草も、あはれ、廢屋の跡の一輪の紫の菖蒲もあらば、それがどんなに、と思ふ。
――今は、柳も芽んだであらう――城崎よ。
大正十五年四月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
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