四
群集ばらばらと一斉に左右に分れ候。 不意なれば蹌踉めきながら、おされて、人の軒に仰ぎ依りつつ、何事ぞと存じ候に、黒き、長き物ずるずると来て、町の中央を一文字に貫きながら矢の如く駈け抜け候。 これをば心付き候時は、ハヤその物体の頭は二、三十間わが眼の前を走り去り候て、いまはその胴中あたり連りに進行いたしをり候が、あたかも凧の糸を繰出す如く、走馬燈籠の間断なきやう俄に果つべくも見え申さず。唯人の頭も、顔も、黒く塗りて、肩より胸、背、下腹のあたりまで、墨もていやが上に濃く塗りこくり、赤褌襠着けたる臀、脛、足、踵、これをば朱を以て真赤に色染めたるおなじ扮装の壮佼たち、幾百人か。一人行く前の人の後へ後へと繋ぎあひ候が、繰出す如くずんずんと行き候。およそ半時間は連続いたし候ひしならむ、やがて最後の一人の、身体黒く足赤きが眼前をよぎり候あと、またひらひらと群集左右より寄せ合うて、両側に別れたる路を塞ぎ候時、その過行きし方を打眺め候へば、彼の怪物の全体は、遥なる向の坂をいま蜿り蜿りのぼり候首尾の全きを、いかにも蜈蚣と見受候。あれはと見る間に百尺波状の黒線の左右より、二条の砂煙真白にぱツと立つたれば、その尾のあたりは埃にかくれて、躍然として擡げたるその臼の如き頭のみ坂の上り尽くる処雲の如き大銀杏の梢とならびて、見るがうちに、またただ七色の道路のみ、獅子の背のみ眺められて、蜈蚣は眼界を去り候。疾く既に式場に着し候ひけむ、風聞によれば、市内各処における労働者、たとへばぼてふり、車夫、日傭取などいふものの総人数をあげたる、意匠の俄に候とよ。 彼の巨象と、幾頭の獅子と、この蜈蚣と、この群集とが遂に皆式場に会したることをおん含の上、静にお考へあひなり候はば、いかなる御感じか御胸に浮び候や。
五
別に凱旋門と、生首提灯と小生は申し候。人の目鼻書きて、青く塗りて、血の色染めて、黒き蕨縄着けたる提灯と、竜の口なる五条の噴水と、銅像と、この他に今も眼に染み、脳に印して覚え候は、式場なる公園の片隅に、人を避けて悄然と立ちて、淋しげにあたりを見まはしをられ候、一個年若き佳人にござ候。何といふいはれもあらで、薄紫のかはりたる、藤色の衣着けられ候ひき。 このたび戦死したる少尉B氏の令閨に候。また小生知人にござ候。 あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生はさて置きて夫人のみあはれに悄れて見え候は、人いきりにやのぼせたまひしと案じられ、近う寄り声をかけて、もの問はむと存じ候折から、おツといふ声、人なだれを打つて立騒ぎ、悲鳴をあげて逃げ惑ふ女たちは、水車の歯にかかりて撥ね飛ばされ候やう、倒れては遁げ、転びては遁げ、うづまいて来る大蜈蚣のぐるぐると巻き込むる環のなかをこぼれ出で候が、令閨とおよび五三人はその中心になりて、十重二十重に巻きこまれ、遁るる隙なく伏まろび候ひし。警官駈けつけて後、他は皆無事に起上り候に、うつくしき人のみは、そのまま裳をまげて、起たず横はり候。塵埃のそのつややかなる黒髪を汚す間もなく、衣紋の乱るるまもなくて、かうはなりはてられ候ひき。 むかでは、これがために寸断され、此処に六尺、彼処に二尺、三尺、五尺、七尺、一尺、五寸になり、一分になり、寸々に切り刻まれ候が、身体の黒き、足の赤き、切れめ切れめに酒気を帯びて、一つづつうごめくを見申し候。 日暮れて式場なるは申すまでもなく、十万の家軒ごとに、おなじ生首提灯の、しかも丈三尺ばかりなるを揃うて一斉に灯し候へば、市内の隈々塵塚の片隅までも、真蒼き昼とあひなり候。白く染め抜いたる、目、口、鼻など、大路小路の地の上に影を宿して、青き灯のなかにたとへば蝶の舞ふ如く蝋燭のまたたくにつれて、ふはふはとその幻の浮いてあるき候ひし。ひとり、唯、単に、一宇の門のみ、生首に灯さで、淋しく暗かりしを、怪しといふ者候ひしが、さる人は皆人の心も、ことのやうをも知らざるにて候。その夜更けて後、俄然として暴風起り、須臾のまに大方の提灯を吹き飛ばし、残らず灯きえて真闇になり申し候。闇夜のなかに、唯一ツ凄まじき音聞え候は、大木の吹折られたるに候よし。さることのくはしくは申上げず候。唯今風の音聞え候。何につけてもおなつかしく候。 月 日
ぢい様
●表記について
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