『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前見ずの亂暴で、其亂暴が生來で、そして、果して眞に困つちまふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎だ。矢張それも生來で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。從兄弟君、怒つたのかい。』 『怒つたつて仕樣が無い。』と稍霎時してから、忠志君が横向いて云つた。 『「仕樣が無い」とは仕樣が無い。それこそ仕樣が無いぢやないか。』 『だつて、實際。仕樣が無いから喃。』 『然し君は大分苦い顏をして居るぜ。一體その顏は不可よ。笑ふなら腸まで見える樣に口をあかなくちや不可。怒るなら男らしく眞赤になつて怒るさ。そんな顏付は側で見てるさへ氣の毒だ。そら、そら段々苦くなッて來る。宛然洋盃に一昨日注いだビールの樣だ。仕樣のない顏だよ。』 『馬鹿な。君は怎も、實際仕樣がない。』 『復「仕樣がない」か。アハヽヽヽ。仕樣が無い喃』 話が途斷れると、ザザーッといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍ひを聞くでもなく聞かぬでもなく、横になつた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穗頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸ばかりのところで、チョイと渦を卷いて、忽ち海風に散つてゆく、浪は相不變、活動寫眞の舞踊の歩調で、重り重り沖から寄せて來ては、雪の舌を銀の齒車の樣にグルグルと卷いて、ザザーツと怒鳴り散らして颯と退く、退いた跡には、シーッと音して、潮の氣がえならぬ強い薫を撒く。
二
程經てから、『折角の日曜だツたのに……』と口の中で呟いて、忠志君は時計を出して見た。『兎に角僕はお先に失敬します。』と楠野君の顏色を覗ひ乍ら、インバネスの砂を拂つて立つ。 對手は唯『然うですか。』と謂ツただけで、別に引留めようともせぬので、彼は聊か心を安んじたらしく、曇つて日の見えぬ空を一寸背身になツて見乍ら、『もう彼是十二時にも近いし、それに今朝親父が然言つてましたから、先刻話した校長の所へ、これから つて見ようかと思ふんです。尤も恁いふ都會では、女なら隨分資格の無い者も用ツてる樣だけれど、男の代用教員なんか可成採用しない方針らしいですから、果して肇さんが其方へ入るに可か怎か、そら解りませんがね。然し大抵なら那の校長は此方のいふ通りに都合してくれますよ。謂ツちや變だけれど、僕の親父とは金錢上の關係もあるもんですからね。』 『あゝ然ですか。何れ宜敷御盡力下さい。後藤君が此函館に來たについちや、何しろ僕等先住者が充分盡すべき義務があるんですからね。』 『…………まあ然です。兎に角僕は失敬します。肇さんも晝飯までには歸つて來て呉れ給へ。ぢや失敬。』 忠志君は急歩に砂を踏んで、磯傳ひに右へ辿つて行く。殘つた二人は默つて其後姿を見て居る。忠志君は段々遠くなつて、目を細うくして見ると、焦茶のインバネスが薄鼠の中折を被つて立ツて居る樣に見える。 『あれが僕の從兄なんだよ、君。』と肇さんが謂ふ。 『頭が貧しいんだね。』 忠志君の頭の上には、昔物語にある巨人の城郭の樣に、函館山がガッシリした諸肩に灰色の天を支へて、いと嚴そかに聳えて居る。山の中腹の、黒々とした松林の下には、春の一刷毛あざやかに、仄紅色の霞の帶、梅に櫻をこき交ぜて、公園の花は今を盛りなのである。木立の間、花の上、處々に現れた洋風の建築物は、何樣異なる趣きを見せて、未だ見ぬ外國の港を偲ばしめる。 不圖、忠志君の姿が見えなくなつた。と見ると、今まで忠志君の歩いて居た邊を、三臺の荷馬車が此方へ向いて進んで來る。浪が今しも逆寄せて、馬も車も呑まむとする。呀と思ツて肇さんは目を見張ツた。碎けた浪の白 は、銀の齒車を卷いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分まで沒した。小さいノアの方舟が三つ出來る。浪が退いた。馬は平気で濡れた砂の上を進んで來る。復浪が來て、今度は馬の腹まで噛まうとする。馬はそれでも平氣である。相不變ズン/\進んで來る。肇さんは驚きの目を つて、珍らし氣に此状を眺めて居た。 『怎だへ、君、函館は可かね。』と、何時しか紙莨を啣へて居た楠野君が口を開いた。 『さうさね。昨日來たばかしで、晝寢が一度、夜寢が一度、飯を三度しか喰はん僕にや、まだ解らんよ。……だがね。まあ君那を見給へ。そら、復浪が來た。馬が輾ぶぞ。そうら、……處が輾ばないんだ。矢張平気で以て進んで來る。僕は今急に函館が好になつたよ。喃、君、那 豪い馬が内地になんか一疋だツて居るもんか。』 『ハハヽヽヽ』と楠野君は哄笑したが、『然しね君、北海道も今ぢや内地に居て想像する樣な自由の天地ではないんだ。植民地的な、活氣のある氣風の多少殘つてる處もあるかも知れないが、此函館の如きは、まあ全然駄目だね。内地に一番近い丈それ丈不可。内地の俗惡な都會に比して優ツてるのは、さうさね、まあ月給が多少高い位のもんだらう。ハハヽヽヽ。』 『そんなら君は何故三年も四年も居たんだ。』 『然いはれると立瀬が無くなるが、……詰り僕の方が君より遙かに意氣地が無いんだね。……昨夜も話したツけが、僕の方の學校だツて、其内情を暴露して見ると、實際情け無いもんだ。僕が這入つてから既に足掛三年にもなるがね。女學校と謂へや君、若い女に教へる處だらう。若い女は年をとツて、妻になり、母になる、所謂家庭の女王になるんだらう。其處だ、君。僕は初めに其處を考へたんだ。現時の社會は到底破壞しなけやならん。破壞しなけやならんが、僕等一人や二人が、如何に聲を大きくして叫んだとて、矢張駄目なんだね。それよりは、年の若い女といふものは比較的感化し易い、年若い女に教へる女學校が、乃ち僕等の先づ第一に占領すべき城だと考へたね。若い女を改造するのだ。改造された女が妻となり、母となる。家庭の女王となる。……なるだらう、必ず。詰り唯一人の女を救ふのが、其家庭を改造し、其家庭の屬する社會を幾分なりとも改造することが出來る譯なんだ。僕は然思つたから、勇んで三十五圓の月給を頂戴する女學校の教師になツたんだ。』 『なツて見たら、燐寸箱の樣だらう。學校といふものは。』 『燐寸箱! 然だ、燐寸箱だよ、全たく。狹くて、狹くて、全然身動きがならん。蚤だつて君、自由に跳ねられやせんのだ。一寸何分と長の定つた奴許りが、ギッシリとつめ込んである。僕の樣なもんでも今迄何囘反逆を企てたか解らん。反逆といッても、君の樣に痛快な事は自分一人ぢや出來んので詰り潔く身を退く位のものだがね。ところが、これでも多少は生徒間に信用もあるので、僕が去ると生徒まで動きやしないかといふ心配があるんだ。そこが私立學校の弱點なんだね。だから怎しても僕の要求を聽いてくれん。樣々な事をいつて留めるんだ。留められて見ると妙なもんで、遂また留まツて行ツて見ようといふ樣な氣にもなる。と謂つた譯でグズ/\此三年を過したんだが、考へて見れや其間に自分のした事は一つもない。初めは、新聞記者上りといふので特別の注目をひいたもんだが、今ぢやそれすら忘られて了ツた。平凡と俗惡の中に居て、人から注意を享けぬとなツては、もう駄目だね。朝に下宿を出る時は希望もあり、勇氣もある。然しそれも職員室の扉を開けるまでの事だ。一度其中へ這入つたら何ともいへぬ不快が忽ちにこみ上げて來る。何の顏を見ても、鹿爪らしい、横平な、圓みのない、陰氣で俗惡な、疲れた樣な、謂はゞ教員臭い顏ばかりなんぢやないか。奴等の顏を見ると、僕は恁う妙に反抗心が昂まッて來て、見るもの聞くもの、何でも皆頭から茶化して見たい樣な氣持になるんだ。』 『茶化す?』 『 、眞面目になつて怒鳴る元氣も出ないやね。だから思ふ存分茶化してやるんだ。殊に君、女教員と來ちや全然箸にも棒にもかゝツたもんぢやない。犬だか猫だか、雀だか烏だか、……兎も角彼らが既に女でないだけは事實だね。女でなくなツたんだから、人間でもないんだ。謂はゞ一種の厭ふべき變性動物に過ぎんのだね。……それで生徒は怎かといふに、情無いもんだよ君、白い蓮華の蕾の樣な筈の、十四十五という少女でさへ、早く世の中の風に染ツて、自己を僞ることを何とも思はん樣になツて居る。僕は時々泣きたくなツたね。』 『 、解る、解る。』 『然し、何だよ、君が故郷で教鞭を採る樣になつてからの手紙には、僕は非常に勵まされた事がある。嘗ては自らナポレオンを以て任じた君が、月給八圓の代用教員になツたのでさへ一つの教訓だ。況してそれが、朝は未明から朝讀、夜は夜で十一時過ぎまでも小兒等と一緒に居て、出來るだけ多くの時間を小兒等のために費やすのが滿足だと謂ふのだから、宛然僕の平生の理想が君によつて實行された樣な氣がしたよ。あれあ確か去年の秋の手紙だツたね。文句は僕がよく暗記して居る、そら、「僕は讀書を教へ、習字を教へ、算術を教へ、修身のお話もするが、然し僕の教へて居るのは蓋し之等ではないだらうと思はれる。何を教へて居るのか、自分にも明瞭解らぬ。解らぬが、然し何物かを教へて居る。朝起きるから夜枕につくまで、一生懸命になツて其何物かを教へて居る。」と書いてあつたね。それだ、それだ。完ツたくそれだ、其何物かだよ。』 『噫、君、僕は怎も樣々思出されるよ。……だが、何だらうね、僕の居たのは田舍だツたから多少我儘も通せたやうなものの、恁いふ都會めいた場所では、矢張駄目だらうね。僕の一睨みですくんで了ふやうな校長も居まいからね。』 『駄目だ、實際駄目だよ。だから僕の所謂改造なんていふ漸進主義は、まだるツこくて效果が無いのかも知れんね。僕も時々然思ふ事があるよ。「明朝午前八時を期し、予は一切の責任を負ふ決心にてストライキを斷行す。」といふ君の葉書を讀んだ時は、僕は君、躍り上ツたね。改造なんて駄目だ。破壞に限る。破壞した跡の燒野には、君、必ず新しい勢の可い草が生えるよ。僕はね。宛然自分が革命でも起した樣な氣で、大威張で局へ行ツて、「サカンニヤレ」といふ那の電報を打ツたんだ。』 肇さんは俯向いて居て、暫し默して居たが、 『ストライキか、アハヽヽヽ。』と突然大きな聲を出して笑つた。大きな聲ではあつたが、然し何處か淋しい聲であつた。 『昨夜君が歸ツてから、僕は怎しても眠れなかツた。』 と楠野君の聲は沈む。『一體村民の中に、一人でも君の心を解してる奴があツたのかい。』『不思議にも唯一人、君に話した役場の老助役よ。』 『血あり涙あるを口癖にいふ老壯士か。』 『然だ。僕が四月の初めに辭表を出した時、村教育の前途を奈何と謂ツて、涙を揮ツて留めたのも彼。それならばといツて僕の提出した條件に、先づ第一に賛成したのも彼。其條件が遂に行はれずして、僕が最後の通告を諸方へ飛ばし、自ら令を下して全校の生徒を休學せしめた時から、豫定の如く免職になり、飄然として故郷の山河を後にした時まで、始終僕の心を解して居てくれたのは、實に唯彼の老助役一人だツたのだ。所謂知己だね。』 『 、それや知己だね。……知己には知己だが、唯一人の知己だね。』 『怎して二人と無いもんだらう。』 『 ……』 『一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人、噫。』と、肇さんは順々に指を伏せて見たが、『君。』と強く謂ツて、其手でザクリと砂を攫んだ。『僕も泣くことがあるよ。』と聲を落す。 『 。』 『夜の九時に青森に着いて、直ぐに船に乘ツたが、翌朝でなけれや立たんといふ。僕は一人甲板に寢て厭な一夜を明かしたよ。』 『……………………』 『感慨無量だツたね。……眞黒な雲の間から時々片破月の顏を出すのが、恰度やつれた母の顏の樣ぢやないか。……母を思へば今でも泣きたくなるが。……終にや山も川も人間の顏もゴチャ交ぜになつて、胸の中が宛然、火事と洪水と一緒になッた樣だ。……………僕は一晩泣いたよ、枕にして居た帆綱の束に噛りついて泣いたよ。』 『 』 『海の水は黒かツた。』 『黒かつたか。噫。黒かつたか。』と謂ツて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それや不可。止せ、後藤君。自殺は弱い奴等のする事た。……死ぬまで行れ。否、殺されるまでだ。……』 『だから僕は生きてるぢやないか。』 『 』 『死ぬのは不可が、泣くだけなら可だらう。』 『僕も泣くよ。』 『涙の味は苦いね。』 『 』 『實に苦いね。』 『 』 『戀の涙は甘いだらうか。』 『 』 『世の中にや、味の無い涙もあるよ。屹度あるよ。』
三
『君の顏を見ると、怎したもんだか僕あ氣が沈む。奇妙なもんだね。敵の眞中に居れあ元氣がよくて味方と二人ツ限りになると、泣きたくなツたりして。』 肇さんは、恁云ツて、温和い微笑を浮かべ乍ら、楠野君の顏を覗き込んだ。 『僕も然だよ。日頃はこれでも仲々意氣の盛んな方なんだが、昨夜君と逢ツてからといふもの、怎したもんか意氣地の無い事を謂ひたくなる。』 『一體何方が先きに弱い音を吹いたんだい。』 『君でもなかツた樣だね。』 『君でもなかツた樣だね。』 『何方でも無いのか。』 『何方でも無いんだ。ハハヽヽヽヽ。』と笑つたが、『胸に絃があるんだよ。君にも、僕にも。』 『これだね。』と云ツて、楠野君は礑と手を拍つ。 『然だ、同じ風に吹かれて一緒に鳴り出したんだ。』 二人は聲を合せて元氣よく笑ツた。 『兎も角壯んにやらうや。』と楠野君は胸を張る。 『 。やるとも。』 『僕は少し考へた事もあるんだ。怎せ君は、まあ此處に腰を据ゑるんだらう。』 『喰ひ詰めるまで置いて貰はう。』 『お母さんを呼ばう。』 『 。呼ばう。』 『呼んだら來るだらう。』 『來てから何を喰はせる。』 『那 心配は不要よ。』 『不要こともない。僕の心配は天下にそれ一つだ。今まで八圓ぢや仲々喰へなかつたからね。』 『大丈夫だよ。那 事は。』 『然かへ。』 『まあ僕に委せるさ。』 『 、任せよう。』 『忠志君の話の方が駄目にしても、何か必ず見付けるよ。』 『然か。』 『君は英語が巧い筈だツけね。』 『筈には筈だツけが、今は怎だかな。』 『まあ可さ。但し當分は先づ食ツて行けるだけでも、仕方がないから辛抱するさ。』 『委せたんだから、君が可い樣にしてくれるさ。』 『秋まで辛抱してくれ給へ。そしたら何か必ず行らう、ね君。』 『 。やるとも。』と云ツて、肇さんは復仰向になつた。 會話が斷れると、浪の音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた樣に、一寸時計を出して見たが。 『あ、もう十二時が遂に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を捻ツて居たが、『怎だ君、今夜少し飮まうぢやないか。』 『酒をか?』 『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』 『それぢや今は教會にも行かんだらう。』 『無論、……解放したんだ。』 『教會から信仰を。』 『一切の虚僞の中から自己をだ。』 『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出來んだらうか。』 『世の中から?』 『然だ、世の中から辭職するんだ。』 『フム、君は其 に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎も角今夜は飮まうや。』 『 。飮まう。』 『幾杯飮める?』 『幾杯でも飮めるが、三杯やれば眞赤になる。』 『弱いんだね。』 『オイ君、凾館にも藝妓が居るか。』 『居るとも。』 『矢張黒文字ツて云ふだらうか。』 『黒文字とは何だい。』 『ハハア、君は黒文字の趣味を知らんのだね。』 『何だ、其黒文字とは?』 『小楊枝のこツた。』 『小楊枝が怎したと云ふんだ。』 『黒文字ツて出すんださうだ。』 『小楊枝をか?』 『然さ、クドイ男だ喃。』 『だツて解らんぢやないか。』 『解ツてるよ、藝妓が黒文字ツて小楊枝を客の前に出すんだ。』 『だからさ、それに何處に趣味があるんだ。』 『楊枝入は錦かなんかの、素的に綺麗なものなさうだ。それを帶の間から引張り出して、二本指で、一寸と隅の所を捻ると、楊枝入の口へ楊枝が扇形に頭を並べて出すんださうだ。其楊枝が君、普通の奴より二倍位長いさうだぜ。』 『出す時黒文字ツて云ふんだね。』 『さうだ。』 『面白いことを云ふね。』 『面白いだらう。』 『何處で那 ことを覺えたんだ?』 『役場の書記から聞いた。』 『ハハア、兎も角今夜は飮まうよ。』
四
『怎だ、ソロソロ歸るとしよう。』と云ツて、楠野君は傍らに投げ出してあツた風呂敷を引張り寄せた。風呂敷の中から、大きい夏蜜柑が一つ輾げ出す。『アまだ一つ殘つて居ツた。』 『僕はまだ歸らないよ。君先きに行ツて呉れ給へ。』 『一緒に行かうや。一人なら路も解るまい。』 『大丈夫だよ。』 『だツて十二時が過ぎて了ツたぢやないか。』 『腹が減ツたら歸ツてゆくよ。』 『さうか。』と云ツたが、楠野君はまだ何となく危む樣子。 『大丈夫だといふに。……緩くり晝寢でもしてゆくから、構はず歸り給へ。』 『そんなら餘り遲くならんうちに歸り給へ。今夜は僕の方で誘ひに行くよ。』 古洋服を着た楠野君の後姿が、先刻忠志君の行ツたと同じ浪打際を、段々遠ざかツてゆく。肇さんは起き上ツて、凝然と其友の後姿を見送ツて居たが、浪の音と磯の香に犇々と身を包まれて、寂しい樣な、自由になツた樣な、何とも云へぬ氣持になツて、いひ知らず涙ぐんだ。不圖、先刻の三臺の荷馬車を思出したが、今は既に影も見えない。此處まで來たとは氣が附かなかツたから、多分浪打際を離れて町へ這入つて行ツたのであらう。一彎の長汀ただ寂寞として、碎くる浪の咆哮が、容赦もなく人の心を擘ざく。黒一點の楠野君の姿さへ、見る程に見る程に遠ざかツて行く。肇さんの頭は低く垂れた。垂れた頭を起すまいとする樣に、灰色の雲が重々しく壓へつける。
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社 1970(昭和45)年11月20日発行 ※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。 ※底本の「揚子」はすべて「楊子」に改めました。 入力:Nana ohbe 校正:松永正敏 2003年3月20日作成 青空文庫ファイル: このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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