三
翌日は日曜日、田舍の新聞は暢氣なもので、官衙や學校と同じに休む。私は平日の如く九時頃に眼を覺した。恐ろしく喉が渇いて居るので、頭を擡げて見 したが、下に持つて行つたと見えて鐵瓶が無い。用の無いのに起きるのも詰らず、寒さは寒し、さればと云つて床の中で手を拍つて、女中を呼ぶのも變だと思つて、また仰向になつた。幸ひ其處へ醜女の芳ちやんが、新聞を持つて入つて來たので、知つてる癖に『モウ何時だい』と聞くと、 『まだ早いから寢て居なされよ、今日は日曜だもの。』 と云つて出て行く。 『オイ/\、喉が渇いて仕樣が無いよ。』 『そですか。』 『そですかぢやない。眞に渇くんだよ、昨晩少し飮んで來たからな。』 『少しなもんですか。』 と云つたが、急にニヤ/\と笑つて立戻つて來て、私の枕頭に膝をつく。また戯れるなと思ふと、不恰好な赤い手で蒲團の襟を敲いて、 『私に一生のお願ひがあるで、貴君聽いて呉れますか?』 『何だい?』 『マアさ。』 『お湯を持つて來て呉れたら、聽いてやらん事もない。』 『持つて來てやるで。あのね、』と笑つたが『貴方好え物持つてるだね。』 『何をさ?』 『白ッぱくれても駄目ですよ。貴方の顏さ書いてるだに、半可臭え。』 『喉が渇いたとか?』 『戯談ば止しなされ。これ、そんだら何ですか。』と手を延べて、机の上から何か取る樣子。それは昨晩の淡紅色の手巾であつた。市子が種蒔を踊つた時の腰付が、チラリと私の心に浮ぶ。 『嗅んで見さいな、これ。』と云つて自分で嗅いで居たが、小さい鼻がぴこづいて、目が恍惚と細くなる。恁 好い香を知らないんだなと思つて、私は何だか氣の毒な樣な氣持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。 『私貰つてくだよ、これ。』と云ふ語は、滿更揶揄ふつもりでも無いらしい。 『やるよ。』 『本當がね。』と目を輝かして、懷に捻じ込む眞似をしたが、 『貴方が泣くべさ。』と云つて、フワリと手巾を私の顏にかけた儘、バタ/\出て行つた。 目を瞑ると、好い香のする葩の中に魂が包まれた樣で、自分の呼氣が温かな靄の樣に顏を撫でる。 乎として目を開くと、無際限の世界が唯モウ薄光の射した淡紅色の世界で、凝として居ると遙か遙か向うにポッチリと黒い點、千里の空に鷲が一羽、と思ふと、段々近づいて來て、大きくなつて、世界を掩ひ隱す樣な翼が、目の前に來てパット消えた。今度は楕圓形な翳が横合から出て來て、煙の樣に、動いて、もと來た横へ逸れて了ふ。ト、淡紅色の襖がスイと開いて、眞黒な鬚面の菊池君が…… 足音がしたので、急いで手を出して手巾を顏から蒲團の中へ隱す。入つて來たのは小い方の女中で、鐵瓶と茶器を私の手の屆く所へ揃へて、出て行く時一寸立止つて枕頭を見 した。芳の奴が喋つたなと感付く。怎したものか、既茶を入れて飮まうと云ふ氣もしない。 昨晩の事が歴々と思出された。女中が襖を開けて鬚面の菊池君が初めて顏を出した時の態が目に浮ぶ。巖の樣な日下部君と芍藥の樣な市子の列んで坐つた態、今夜は染直したから新しくなつたでせうと云つて、ヌット突出した志田君の顏、色の淺黒い貧相な一人の藝妓が、モ一人の袖を牽いて、私の前に坐つて居る市子の方を顋で指し乍ら、何か密々話し合つて笑つた事、菊池君が盃を持つて立つて來て、西山から聲をかけられた時、怎やら私達の所に坐りたさうに見えた事、雀躍する樣に身體を搖がして、踊をモ一つ所望した小松君の横顏、……それから、市子の顏を明瞭描いて見たいと云ふ樣な氣がして、折角努めて見たが、怎してか浮んで來ない。今度は、甚 氣がしてアノ手巾を私の袂に入れたのだらうと考へて見たが、否、不圖すると、アレは市子でなくて、名は忘れたが、ソレ、アノ何とか云つた、色の淺黒い貧相な奴が、入れたんぢやないかと云ふ氣がした。が、これには自分ながら直ぐ可笑くなつて了つて、又しても「左の袂、左の袂」を思ひ出す。…… 「ウワッハハ」と高く笑つて、薄く雪明のした小路を、大跨に歩き去つた。――其後姿が目に浮ぶと、(此朝私の頭腦は餘程空想的になつて居たので、)種々な事が考へられた。 大跨に、然うだ、菊池君は普通の足調でなく、屹度大跨に歩く人だ。無雜作に大跨に歩く人だ。大跨に歩くから、時としてドブリと泥濘へ入る、石に躓く、眞暗な晩には溝にも落こちる、若しかして溝が身長よりも深いとなると、アノ人の事だから、其溝の中を大跨に歩くかも知れない。 「溝の中を歩く人、」と口の中で云つて、私は思はず微笑した。それに違ひない、アノ洋服の色は、饐えた、腐つた、溝の中の汚水の臭氣で那 に變色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた證據だ。激しい勞働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、再口の中で云つて見たが、此語は、吾乍ら鋭い錐で胸をもむ樣な連想を起したので、狼狽へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。 何にしても菊池君は失敗を重ねて來た人だ、と、勝手に斷定して、今度は、アノ指が確かに私の二本前太いと思つた。で、小兒みたいに、密と自分の指を蒲團の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の對手を西山社長にした。何と云ふ譯もないが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑深い目付きとが、怎しても菊池君と調和しない樣な氣がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で惡く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を下げる。菊池がそれを憤慨して、入社した三日目に突然、社長の頬片を擲る。社長は蹣跚と行つて椅子に倒れ懸りながら、「何をするツ」と云ふ。其頭にポカポカと拳骨が飛ぶ、社長は卓子の下を這つて向うへ拔けて拔萃に使ふ鋏を逆手に握つて眞蒼な顏をして、「發狂したか?」と顫聲で叫ぶ。菊池君は兩手を上衣の衣嚢に突込んで、「馬鹿な男だ喃。」と吃る樣に云ひ乍ら、悠々と「毎日」を去る。そして其足で直ぐ私の所へ來て、「日報」に入れて呉れないかと頼む。――思はず聲を立てて私は笑つた。 が、此妄想から、私の頭腦に描かれて居る菊池君が、怎やら、アノ鬚で、權力の壓迫を春風と共に受流すと云つた樣な、氣概があつて、義に堅い、豪傑肌の、支那的色彩を帶びて現れた。私は、小い時に讀んだ三國史中の人物を、それか、これかと、此菊池君に當嵌めようとしたが、不圖、「馬賊の首領に恁 男は居ないだらうか。」と云ふ氣がした。 馬賊……滿州……と云ふ考へは、直ぐ「遠い」と云ふ感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ鬚面が初めて現れた時は、菊池は何處か遠い所から來たのぢや無かつたらうかと思はれる。考が直ぐ移る。 昨晩の座敷の樣子が、再鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、餘程の間隔がある。「ウワッハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて來たりする時は、アノ人が自分の世界から態々出掛けて來て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎唯人の目を向けさせるだけで、一向效力が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐をかいた膝頭を、兩手で攫んで、凝然として居る人だ。…………… ト、今度は、菊池君の顏を嘗て何處かで見た事がある樣な氣がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵がパッと目に浮ぶ。中學の門と斜に向ひ合つて、一軒の理髮床があつたが、其前で何日かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ級の友人のお父親の鬚だつたと氣がつく。其頃私の姉の家では下宿屋をして居たが、其家に泊つて居た鬚……違ふ、アノ鬚なら氣仙郡から來た大工だと云つて、二ケ月も遊んで喰逃して北海道へ來た筈だ。ト、以前私の居た小樽の新聞社の、盛岡生れだと云つた職工長の立派な髭[#「髭」は底本では「考」]が腦に浮ぶ。若しかすると、菊池君は何時か私の生れた村の、アノ白澤屋とか云ふ木賃宿の縁側に、胡坐をかいて居た事がなかつたらうかと考へたが、これも甚だ不正確なので、ハテ、何處だつたかと、氣が少し苛々して來て、東京ぢやなかつたらうかと、無理な方へ飛ぶ。東京と言へば、直ぐ須田町――東京中の電車と人が四方から崩れる樣に集つて來る須田町を頭腦に描くが、アノ雜沓の中で、菊池君が電車から降りる……否、乘る所を、私は餘程遠くからチラリと後姿を……無理だ、無理だ、電車と菊池君を密接けるのは無理だ。…… 『モウ起きなさいよ、十一時が打つたから。那 に寢てて、貴方何考へてるだべさ。』 と、取つて投げる樣な、癇高い聲で云つて、お芳が入つて來た。ハッとすると、血が頭からスーッと下つて行く樣な、夢から覺めた樣な氣がして、返事もせず、眞面目な顏をして默つて居ると、お芳も存外眞面目な顏をして、十能の火を火鉢に移す。指の太い、皹だらけの、赤黒い不恰好な手が、忙がしさうに、細い眞鍮の火箸を動す。半巾を欲しがつてる癖に……と考へると、私は其手巾を蒲團の中で、胸の上にシッカリ握つてる事に氣がついた。ト、急に之をお芳に呉れるのが惜しくなつて來たので、對手にそれを云ひ出す機會を與へまいと、寢返りを打たうとしたが、怎したものか、此瞬間に、お芳の目元が菊池に酷似てると思つた。不思議だナと考へて、半分 しかけた頭を一寸戻して、再お芳の目を見たが、モウ似て居ない。似て居る筈が無いサと胸の中で云つて、思ひ切つて寢返りを打つ。 『私の顏など見たくもなかべさ。ねえ、橘さん。』 『何を云ふんだい。』 と私は何氣なく云つたが、ハハア、此女が、存外眞面目な顏をしてる哩と思つたのは、ヤレ/\、これでも一種の姿態を作つて見せる積りだつたかと氣が附くと、私は吹出したくなつて來た。 『フン』 とお芳が云ふ。 私は、顏を伏臥す位にして、呼吸を殺して笑つて居ると、お芳は火を移して了つて、炭をついで、雜巾で火鉢の縁を拭いている樣だつたが、軈て鐵瓶の蓋を取つて見る樣な音がする、茶器に觸る音がする。 『喉が渇いて渇いて、死にそだてからに、湯は飮まねえで何考えてるだかな。』 と、獨語の樣に云つて、出て行つて了つた。
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