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クララの出家(クララのしゅっけ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-21 11:14:15 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 その瞬間に彼女は真黄まっきいに照り輝く光の中に投げ出された。芝生も泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがいた。クララの胸を掴んで起させないものがあった。クララはそれが天使ガブリエルである事を知った。「天国にとつぐためにお前はきよめられるのだ」そういう声が聞こえたと思った。同時にガブリエルは爛々らんらんと燃える炎の剣をクララの乳房の間からずぶりとさし通した。燃えさかった尖頭きっさきは下腹部まで届いた。クララは苦悶のうちに眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督キリストの姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉のごとくおののいた。のども裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力をしぼり切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。
 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっと起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇あかつきやみの中に厳かな姿を見せていた。クララはとびらをあけて柔かい春の空気を快く吸い入れた。やがてポルタ・カプチイニの方にかすかな東明しののめの光が漏れたと思うと、救世主のエルサレム入城を記念する寺の鐘が一時に鳴り出した。快活な同じ鐘の音は、ふもとの町からも聞こえて来た、牡鶏おんどりが村から村に時鳴ときき交すように。
 今日こそは出家して基督キリストに嫁ぐべき日だ。その朝の浅い眠りを覚ました不思議な夢も、思い入った心には神の御告げに違いなかった。クララは涙ぐましい、しめやかな心になってアグネスを見た。十四の少女は神のように眠りつづけていた。
 部屋は静かだった。

       ○

 クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝れいはいサンルフィノ寺院に出かけて行った。在家ざいけの生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐しんじゅひもで編んで後ろに垂れ、ベネチヤの純白な絹を着た。家の者のいないすきに、手早く置手紙と形見の品物を取りまとめて机の引出しにしまった。クララの眼にはあとからあとから涙が湧き流れた。眼に触れるものは何から何までなつかしまれた。
 一人の婢女はしためを連れてクララは家を出た。コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日はうららかに輝いて、祭日の人心を更らに浮き立たした。男も女も僧侶もクララを振りかえって見た。「光りの髪のクララが行く」そういう声があちらこちらで私語ささやかれた。クララは心の中で主の祈を念仏のように繰返し繰返しひたすらに眼の前を見つめながら歩いて行った。この雑鬧ざっとうな往来の中でも障碍しょうがいになるものは一つもなかった。広い秋の野を行くように彼女は歩いた。
 クララは寺の入口を這入はいるとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に坐を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着とんじゃくはしていなかった。彼女は座席につくとおもてを伏せて眼を閉じた。ややともすると所もわきまえずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、すべてのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄しょうじょうな世界にクララの魂だけがただ一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とがかわがわる襲って来た。不安が沈静に代る度にクララの眼には涙が湧き上った。クララの処女らしい体はあしの葉のように細かくおののいていた。光りのようなその髪もまた細かに震えた。クララの手はおのずからアグネスの手をもとめた。
「クララ、あなたの手の冷たく震える事」
「しっ、静かに」
 クララは頼りないものを頼りにしたのを恥じて手を放した。そしてせるほどな参詣人さんけいにんの人いきれの中でまた孤独に還った。
「ホザナ……ホザナ……」
 内陣から合唱が聞こえ始めた。会衆の動揺は一時にしずまって座席を持たない平民たちは敷石の上にひざまずいた。開け放した窓からは、柔かい春の光と空気とが流れこんで、壁に垂れ下った旗やながばたを静かになぶった。クララはふと眼をあげて祭壇を見た。花に埋められ香をたきこめられてビザンチンけいの古い十字架聖像クロチェ・フィッソが奥深くすえられてあった。それを見るとクララはせ入りながら「アーメン」と心にとなえて十字を切った。何んという貧しさ。そして何んという慈愛。
 祭壇を見るとクララはいつでも十六歳の時の出来事を思い出さずにはいなかった。殊にこの朝はその回想が厳しく心にせまった。
 今朝けさの夢で見た通り、十歳の時のあたり目撃した、ベルナルドーネのフランシスの面影おもかげはその後クララの心を離れなくなった。フランシスが狂気になったといううわさも、父から勘当を受けて乞食の群に加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスの事になるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑い草にした。クララはそういう雑言ぞうごんを耳にする度に、自分でそんな事を口走ったように顔を赤らめた。
 クララが十六歳の夏であった、フランシスが十二人の伴侶なかま羅馬ローマに行って、イノセント三世から、基督キリストを模範にして生活する事と、寺院で説教する事との印可いんかを受けて帰ったのは。この事があってからアッシジの人々のフランシスに対する態度は急に変った。ある秋の末にクララが思い切ってその説教を聞きたいと父に歎願した時にも、父は物好きな奴だといったばかりで別にとめはしなかった。
 クララの回想とはその時の事である。クララはやはりこの堂母ドーモのこの座席に坐っていた。着物を重ねても寒い秋寒に講壇には真裸まっぱだかなレオというフランシスの伴侶なかまが立っていた。男も女もこの奇異な裸形らけいに奇異な場所で出遇って笑いくずれぬものはなかった。卑しい身分の女などはあからさまに卑猥ひわいな言葉をその若い道士に投げつけた。道士は凡ての反感に打克うちかつだけの熱意を以て語ろうとしたが、それには未だ少し信仰が足りないように見えた。クララは顔を上げ得なかった。
 そこにフランシスがこれも裸形のままで這入はいって来てレオに代って講壇に登った。クララはなお顔を上げなかった。
「神、その独子ひとりご、聖霊及び基督の御弟子みでしかしらなる法皇の御許によって、末世の罪人、神の召によって人を喜ばす軽業師かるわざしなるフランシスが善良なアッシジの市民に告げる。フランシスは今日教友のレオに堂母ドーモで説教するようにといった。レオは神を語るだけの弁才を神からさずかっていないとこばんだ。フランシスはそれなら裸になって行って、体で説教しろといった。レオは雄々おおしくも裸かになって出て行った。さてレオが去った後、レオにかかる苦行くぎょうを強いながら、何事もなげに居残ったこのフランシスを神は厳しくむちうち給うた。眼ある者は見よ。懺悔ざんげしたフランシスは諸君の前に立つ。諸君はフランシスの裸形を憐まるるか。しからば諸君が眼を注いで見ねばならぬものが彼所かしこにある。眼あるものは更に眼をあげて見よ」
 クララはいつの間にか男の裸体と相対している事も忘れて、フランシスを見やっていた。フランシスは「眼をあげて見よ」というと同時に祭壇に安置された十字架聖像クルシ・フィッキスうやうやしく指した。十字架上の基督は痛ましくもせこけた裸形のままで会衆を見下ろしていた。二十八のフランシスは何所どこといって際立って人眼を引くような容貌を持っていなかったが、祈祷きとうと、断食だんじきと、労働のためにやつれた姿は、霊化した彼れの心をそのまま写し出していた。長い説教ではなかったが神の愛、貧窮ひんきゅうの祝福などを語って彼がアーメンといって口をつぐんだ時には、人々の愛心がどん底からゆすりあげられて思わず互に固い握手をしてすすり泣いていた。クララは人々の泣くようには泣かなかった。彼女は自分の眼が燃えるように思った。
 その日彼女はフランシスに懺悔ざんげの席につらなる事を申しこんだ。懺悔するものはクララのほかにも沢山いたが、クララはわざと最後を選んだ。クララの番が来て祭壇の後ろのアプスに行くと、フランシスはただ一人獣色けものいろといわれる樺色かばいろの百姓服を着て、繩の帯を結んで、胸の前に組んだ手を見入るように首を下げて、壁添いの腰かけにかけていた。クララを見ると手まねで自分の前にある椅子いすに坐れと指した。二人は向いあって坐った。そして眼を見合わした。
 曇った秋の午後のアプスは寒く淋しく暗みわたっていた。ステインド・グラスから漏れる光線は、いくつかの細長い窓を暗くいろどって、それがクララの髪の毛に来てしめやかにたわむれた。恐ろしいほどにあたりは物静かだった。クララの燃える眼は命の綱のようにフランシスの眼にすがりついた。フランシスの眼は落着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。やがてクララの眼に涙が溢れるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を伝って流れはじめた。彼女はそれでも真向まっこうにフランシスを見守る事をやめなかった。こうしてまたいくらかの時が過ぎた。クララはただ黙ったままで坐っていた。
「神の処女むすめ
 フランシスはやがて厳かにこういった。クララは眼を外にうつすことが出来なかった。
「あなたの懺悔は神に達した。神はよみし給うた。アーメン」
 クララはこの上控えてはいられなかった。椅子からすべり下りると敷石の上に身を投げ出して、思い存分泣いた。その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠まどおにつぶやき始めた。小雨こさめの雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クララの心をうった。
「何よりもいい事は心の清く貧しい事だ」
 独語のようなささやきがこう聞こえた。そしてしばらく沈黙が続いた。
「人々は今のままで満足だと思っている。私にはそうは思えない。あなたもそうは思わない。神はそれをよしと見給うだろう。兄弟の日、姉妹の月は輝くのに、人は輝く喜びを忘れている。雲雀ひばりは歌うのに人は歌わない。木はおどるのに人は跳らない。淋しい世の中だ」
 また沈黙。
「沈黙は貧しさほどに美しく尊い。あなたの沈黙を私は美酒うまざけのように飲んだ」
 それから恐ろしいほどの長い沈黙が続いた。突然フランシスはふるえる声を押鎮めながらつぶやいた。
「あなたは私を恋している」
 クララはぎょっとしてあらためて聖者を見た。フランシスは激しい心の動揺から咄嗟とっさの間に立ちなおっていた。
「そんなに驚かないでもいい」
 そういって静かに眼を閉じた。
 クララは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによってはじめて知った。長い間の不思議な心の迷いをクララは種々いろいろに解きわずらっていたが、それがその時始めて解かれたのだ。クララはフランシスの明察を何んと感謝していいのか、どうびねばならぬかを知らなかった。狂気のような自分の泣き声ばかりがクララの耳にやや暫らくいたましく聞こえた。
「わが神、わがすべて」
 また長い沈黙がつづいた。フランシスはクララの頭に手を置きそえたまま黙祷もくとうしていた。
「私の心もおののく。……私はあなたに値しない。あなたは神に行く前に私に寄道した。……さりながら愛によってつまずいた優しい心を神は許し給うだろう。私の罪をもまた許し給うだろう」
 かくいってフランシスはすっと立上った。そして今までとは打って変って神々こうごうしい威厳でクララを圧しながら言葉を続けた。
「神の御名みなによりて命ずる。永久とこしえに神の清き愛児まなごたるべき処女おとめよ。腰に帯して立て」
 その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の処女ではなくなっていた。彼女はその時の回想に心をうわずらせながら、その時泣いたように激しく泣いていた。

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