日本の名随筆23 画 |
作品社 |
1984(昭和59)年9月25日 |
1991(平成3)年10月20日第12刷 |
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色彩について繊細極まる感覚を持つた一人の青年が現はれた。彼れは普通の写真を見て、黒白の濃淡を凝視することによつて、写された物体の色彩が何んであつたかを易々と見分けるといふことである。この天賦の敏感によつて彼れは一つの大きな発明をしたが、私のこゝに彼れについて語らうとするのはそのことではない。彼れがいつたと称せられる言葉の中に、私に取つて暗示の深い一つの言葉があつた、それを語らうとするのである。 その言葉といふのは、彼れによれば、普通に云はれている意味に於て、自然の色は画家の色より遥かに美しくない、これである。 この言葉は逆説の如く、又誤謬の如く感ぜられるかも知れないと思ふ。何故ならば昔から今に至るまで、画家その人の殆ど凡てが、自然の美を驚嘆してやまなかつたから。而してその自然を端的に表現することの如何に難事であるかを力説してやまなかつたから。それ故私達は色彩の専門家なる人々の所説の一致をそのまゝ受け入れて、自然は凡ての人工の美の総和よりも更らに遥かに美しいとうなづいてゐた。而してそれがさう見えねばやまなかつた。如何に精巧なる絵具も、如何に精巧に配置されたその絵具によつての構図も、到底自然が専有する色彩の美を摩して聳ゆることは出来ない。さう私達は信じさせられると思つてそれを信じた。而して実際にさう見え始めた。
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然しながら、暫らく私達の持つ先入主観から離れ、私達の持つかすかな実感をたよりにして、私はかの青年の直覚について考へて見たい。 巧妙な花の画を見せられたものは大抵自然の花の如く美しいと嘆美する。同時に、新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美するではないか。 前の場合に於て、人は画家から授けられた先入主観によつて物をいつてゐるのだ。それは確かだ。後の場合に於て、彼れは明らかに自己の所信とするところのものを裏切つてゐる。彼れは平常の所信と相反した意見を発表して、そこに聊かの怪訝をも感じてはゐないやうに見える。これは果して何によるのだらう。単に一時の思索的錯誤に過ぎないのか。 それともその言葉の後ろには、或る気付かれなかつた意味が隠されてゐるのか。
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人間とは誇大する動物である。器具を使用する動物であるといふよりも、笑ふといふことをなし得る動物であるといふよりも、自覚の機能を有する動物であるといふよりも、この私のドグマは更らに真相を穿つに近い。若し何々する動物であるといふ提言を以て人間を定義しようとすることが必要であるならば。 彼れの為すところは、凡て自然の生活からの誇大である。彼れが人間たり得た凡ての力とその作用とは、悉く自然が巧妙な均衡のもとに所有してゐたところのものではないか。人間が人間たり得た唯一の力は、自然が持つ均衡を打破つて、その或る点を無限に誇大するところに成立つ。人類の歴史とは、畢竟この誇大的傾向の発現の歴史である。或る時代にあつては、自然生活の或る特殊な点が誇大された。他の時代にあつては他の点が誇大された。或る地方にあつてはこの点が、而して他の地方にあつてはかの点が誇大された。このやうにして文化が成り立ち、個人の生活が成り立ち而してそれがいつの間にか、人間の他の生物に対する優越を結果した。 智慧とは誇大する力の外の何者であらう。
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暫らく私のドグマを許せ。画家も亦画家としての道に於て誇大する。 画家をして自然の生活をそのまゝに受け入れしめよ。彼れは一個の描き能はざる蛮人に過ぎないであらう。彼れには描くべき自然は何所にもあり得ないだらう。自然はそれ自らにしてユニークだから。而して勿論ユニークなものは一つ以上あることが許されないから。 だから一個の蛮人が画家となるためには、自然を誇大することから始めねばならぬ。彼れは擅まに自然を切断する。自然を抄略する――抄略も亦誇大を成就する一つの手段だ――。自然を強調する。蛮人が画家となつて、一つの風景を色彩に於て表現しようとすると仮定しようか。彼れは先づ自然に存する色彩の無限の階段的配列を切断して、強い色彩のみを継ぎ合すだらう。又色彩を強く表はす為めに、その隣りにある似寄りの色彩を抄略するだらう。又自然に存する各の色を、それに類似した更らに強い色彩によつて強調するだらう。かくの如くして一つの風景画は始めて成立つのだ。それは明らかに自然の再現ではない。自然は再現され得ない。それは自然の誇大だ。その仲間の一人によつて製作された絵画を見た蛮人は、恐らくその一人が発狂したと思つたであらう。何故ならば、それは彼等が素朴に眺めてゐる自然とは余り遠くかけ隔つてゐるから。 然しながら、本然に人間が持つてゐる誇大性は、直ちに誇大せられた表現に親しみ慣れる。而してその表現が自然の再現であるかの如く感じ始められる。かくて巧妙なる画の花は自然の花の如く美しく鑑賞されるに至るのだ。 この時に当つて画家はいふ「自然の美は極まりない。その美を悉く現はすことは人間に取つて、天才に取つてさへ不可能である」と。いふ心は、私達が普通に考へてゐるそのやうにあるのではないのだ。その画家の言葉を聞いた私達は恐らくかう考へてはゐないか。自然の有する色彩は、如何に精緻に製造された絵具の中にも発見され得ない。又その絵具の如何なる配列の中にも発見され得ない。又如何なる天才の徹視の下にも端倪され得ない。それだから自然の持つ色彩は、常に絵画の持つ色彩よりも極りなく麗はしいと。 私は考へる。その言葉を吐いた画家自身はさう考へていつたのではないにしても、私はかう考へる。画家のその言葉は普通に考へられてゐる、前のやうな意味に於てゞはなくいはれたのだ。自然の美は極りないといつた時、画家は既に誇大して眺められた自然について云つてゐるのだ。彼れの言葉の以前に、画家の誇大された色感が既に自然に投入されてゐたのだ。誇大された絵具の色彩によつて義眼された彼れの眼は、知らず識らずその色彩を以て自然を上塗りしてゐたのだ。而して自然には――絵具の色の如く美しくないにしても――色の無限の階段的駢列がある。その駢列の凡てを誇大された絵具によつて表現しようとするのは、それは確かに不可能事を企てようとすることであらねばならぬ。それは謂はゞ一段調子を高くした自然を再現することである。誇大によつてのみ自己の存在自由を確保されてゐる人間に出来得べきことではない。天才たりとも為すなきの境地だ。それ故に画家のその嘆声。
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然るにかの青年は、色彩に敏感ではあつたけれども画家ではなかつた。彼れは色彩に対する誇大性を所有してゐない。謂はゞ彼れは科学的精神の持主であつた。それ故彼れは画家の凡てが陥つてゐる色彩上の自己暗示に襲はれることなしに、自然の色と絵具の色とを比較することが出来た。而してその結果を彼れは平然として報告したのだ。 それをいふのは単に彼の青年ばかりでない。画家の無意識な偽瞞に煩はされないで、素朴に色彩を感ずる俗人は、新鮮な自然の花を見た場合に、嘆じていふ「おゝこの野の花は画の花の如く美しい」と。
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「おゝこの野の花は絵の花の如く美しい」 画家は彼れを呼んで済度すべからざる俗物といふだらう。それが画家に取つての最上の Compliment であるのを忘れつゝ。 自然の一部だけを誇大したその結果を自然の全部に投げかけて、自然の前に己れの無力を痛感する画家に取つて、神の如き野の花が、一片の画の花に比較されるのを見るのは、許すべからざる冒涜と感じられよう。かゝる比較を敢てして、したり顔するその男が、人間たる資格を欠くものとさへ思はれよう。 然し、画家よ、暫らく待て。彼れは君の最上の批評家ではなかつたか。公平な、而して、公平の結果の賞讚をためらひなく君に捧げるところの。 その理由をいふのは容易だ。彼れは君が発見した色彩の美が自然の有する色彩の美よりも、更らに美しいと証明したに過ぎないのだから。而かも彼れはそれを阿諛なしにいつてゐるのだ。画家の仕事に対するこれ程な承認が何所にあらう。
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私は既にいふべきものゝ全部をいつてしまつたのを感ずる。青年の言葉によつて与へられた暗示は私にこれだけのことを考へさせた。而しそれを携へて私は私自身の分野に帰つて行く。 芸術家は創造するといはれてゐる。全くの創造は芸術家にも許されてはゐない。芸術家は自然の或る断面を誇大するに過ぎない。偽りの芸術家は意識的にそれをする。本当の芸術家は知らずしてそれを為し遂げる。而してそれを彼れに個有な力と様式とをもつて為し遂げる。彼れは他の人が見なかつたやうに自然を見る。而してその見方を以て他の人々を義眼する。かくて自然は嘗てありしところの相を変へる。創造とはそれをいふのだ。自然が創造されたのではない。謂はゞ自然の幻覚が創造されたのだ。 然しながらこの幻覚創造が如何に人間生活の内容を豊富にすることよ。何故ならば人間は幻覚によつてのみ本当に生きることが出来るのだから。
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自然をそのまゝに客観するものは科学者である。少くともさうしようと企てるものが科学者である。彼れは自然の或る面に対して敏感でなければならない。而して同時にそれを誇大する習癖から救はれてゐなければならない。 彼れは常に芸術の誇大から自然を解放する。その所謂美しくない姿に於ての自然を露出せしめる。人間性の約束として彼れも亦何等かの方面に於て自然を誇大してゐるであらう。然しながら彼れのかゝはる学に於ては、人間の本性なる誇大的傾向から去勢されてゐなければならないのだ。 幻覚の持つ有頂天を無惨にも踏み躙る冷やかな徹視。彼れ科学者こそは、謂ひ得べくは、まことの自然を創造するものだ。人間を裏切つて自然への降伏を敢てするものは彼れだ。 水に於ては死水を、大気に於ては赤道直下を、大地に於ては細菌なき土壌を、而して人生に於ては感激なき生活を。 古人が悪魔と名けたところのものは、即ち近代が科学者と呼ぶところのものだ。人間が自覚の初期に於て、誇大した自己を自然に向つて投写したのが、神だつた。又その誇大性から人間を自然に還元しようとする精神を具体化したのが悪魔だつた。それ故に人間は神を崇び悪魔を避けた。然しながら自覚の成熟と共に、神は人間の中に融けこんで芸術的衝動となり、悪魔も亦人間の中に融けこんで批評的精神となつたのだ。
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然らば科学者は畢竟人間的進軍の中に紛れこんだ敵の間諜に過ぎないのか。さうだ。而してさうではない。 人間は既に誇大されたものを自然そのものであるかの如く思ひこんで、それを更らに誇大することはないか。 無いどころではない。余りにそれはあり過ぎる。人間は屡彼れの特権を濫用することによつて、特権のために濫用される。大地に根をおろして、梢を空にもたげるものは栄える。梢に大地をつぎ木して、そこに世界を作らうとするものは危い。而してこの奇怪な軽業が、如何に屡わが芸術家によつて好んで演出されるよ。 科学の冷やかな三十棒は、大地に倚つて立つ木の上にも加へられるだらう。けれども、その木はその三十棒を膏雨として受取ることが出来る。然しながらその三十棒が、梢につぎ木された大地の上にふり降される時、それは天地を暗らくする頽嵐となつて働くのだ。 人はこの頽嵐を必要としないか。 人は、土まみれになつたその梢の洗らひ浄められるのを、首を延べて待ち望んでゐるではないか。 嵐よ、吹きまくれ。
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科学者への警告。 君は人間の存在理由を無視するところから出発するものだ。その企ては勇ましい。 然しながら君は人間の夢を全くさまし切ることは出来ないだらう。何故ならば、人間の夢をさまし切つた時、そこにはもう人間はゐないから。
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一つの強い縄となる為めには、少くとも二つの小索の合力が必要だ。 自然と接触する所には、人間特有の誇大性を。人間特有の誇大性によつて誇大された産物と接触する所には、冷厳無比な科学的精神を。 これが人間の保持すべき唯一無二の道徳である。
●表記について
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