三
夕やみはだんだん深まって行った。事務所をあずかる男が、ランプを持って来たついでに、夜食の膳を運ぼうかと尋ねたが、私はひょっとすると君が来はしないかという心づかいから、わざとそのままにしておいてもらって、またかじりつくように原稿紙に向かった。大きな男の姿が部屋からのっそりと消えて行くのを、視覚のはずれに感じて、都会から久しぶりで来て見ると、物でも人でも大きくゆったりしているのに今さらながら一種の圧迫をさえ感ずるのだった。 渋りがちな筆がいくらもはかどらないうちに、夕やみはどんどん夜の暗さに代わって、窓ガラスのむこうは雪と闇とのぼんやりした明暗になってしまった。自然は何かに気を障えだしたように、夜とともに荒れ始めていた。底力のこもった鈍い空気が、音もなく重苦しく家の外壁に肩をあてがってうんともたれかかるのが、畳の上にすわっていてもなんとなく感じられた。自然が粉雪をあおりたてて、所きらわずたたきつけながら、のたうち回ってうめき叫ぶその物すごい気配はもう迫っていた。私は窓ガラスに白もめんのカーテンを引いた。自然の暴威をせき止めるために人間が苦心して創り上げたこのみじめな家屋という領土がもろく小さく私の周囲にながめやられた。 突然、ど、ど、ど‥‥という音が――運動が(そういう場合、音と運動との区別はない)天地に起こった。さあ始まったと私は二つに折った背中を思わず立て直した。同時に自然は上歯を下くちびるにあてがって思いきり長く息を吹いた。家がぐらぐらと揺れた。地面からおどり上がった雪が二三度はずみを取っておいて、どっと一気に天に向かって、謀反でもするように、降りかかって行くあの悲壮な光景が、まざまざと部屋の中にすくんでいる私の想像に浮かべられた。だめだ。待ったところがもう君は来やしない。停車場からの雪道はもうとうに埋まってしまったに違いないから。私は吹雪の底にひたりながら、物さびしくそう思って、また机の上に目を落とした。 筆はますます渋るばかりだった。軽い陣痛のようなものは時々起こりはしたが、大切な文字は生まれ出てくれなかった。こうして私にとって情けないもどかしい時間が三十分も過ぎたころだったろう。農場の男がまたのそりと部屋にはいって来て客来を知らせたのは。私の喜びを君は想像する事ができる。やはり来てくれたのだ。私はすぐに立って事務室のほうへかけつけた。事務室の障子をあけて、二畳敷きほどもある大囲炉裏の切られた台所に出て見ると、そこの土間に、一人の男がまだ靴も脱がずに突っ立っていた。農場の男も、その男にふさわしく肥って大きな内儀さんも、普通な背たけにしか見えないほどその客という男は大きかった。言葉どおりの巨人だ。頭からすっぽりと頭巾のついた黒っぽい外套を着て、雪まみれになって、口から白い息をむらむらと吐き出すその姿は、実際人間という感じを起こさせないほどだった。子供までがおびえた目つきをして内儀さんのひざの上に丸まりながら、その男をうろんらしく見詰めていた。 君ではなかったなと思うと僕は期待に裏切られた失望のために、いらいらしかけていた神経のもどかしい感じがさらにつのるのを覚えた。 「さ、ま、ずっとこっちにお上がりなすって」 農場の男は僕の客だというのでできるだけ丁寧にこういって、囲炉裏のそばの煎餅蒲団を裏返した。 その男はちょっと頭で挨拶して囲炉裏の座にはいって来たが、天井の高いだだっ広い台所にともされた五分心のランプと、ちょろちょろと燃える木節の囲炉裏火とは、黒い大きな塊的とよりこの男を照らさなかった。男がぐっしょり湿った兵隊の古長靴を脱ぐのを待って、私は黙ったまま案内に立った。今はもう、この男によって、むだな時間がつぶされないように、いやな気分にさせられないようにと心ひそかに願いながら。 部屋にはいって二人が座についてから、私は始めてほんとうにその男を見た。男はぶきっちょうに、それでも四角に下座にすわって、丁寧に頭を下げた。 「しばらく」 八畳の座敷に余るようなを帯びた太い声がした。 「あなたはどなたですか」 大きな男はちょっときまりが悪そうに汗でしとどになったまっかな額をなでた。 「木本です」 「え、木本君」 これが君なのか。私は驚きながら改めてその男をしげしげと見直さなければならなかった。疳のために背たけも伸び切らない、どこか病質にさえ見えた悒鬱な少年時代の君の面影はどこにあるのだろう。また落葉松の幹の表皮からあすこここにのぞき出している針葉の一本をも見のがさずに、愛撫し理解しようとする、スケッチ帳で想像されるような鋭敏な神経の所有者らしい姿はどこにあるのだろう。地をつぶしてさしこをした厚衣を二枚重ね着して、どっしりと落ち付いた君のすわり形は、私より五寸も高く見えた。筋肉で盛り上がった肩の上に、正しくはめ込まれた、牡牛のように太い首に、やや長めな赤銅色の君の顔は、健康そのもののようにしっかりと乗っていた。筋肉質な君の顔は、どこからどこまで引き締まっていたが、輪郭の正しい目鼻立ちの隈々には、心の中からわいて出る寛大な微笑の影が、自然に漂っていて、脂肪気のない君の容貌をも暖かく見せていた。「なんという無類な完全な若者だろう。」私は心の中でこう感嘆した。恋人を紹介する男は、深い猜疑の目で恋人の心を見守らずにはいられまい。君の与えるすばらしい男らしい印象はそんな事まで私に思わせた。 「吹雪いてひどかったろう」 「なんの。……温くって温くって汗がはあえらく出ました。けんど道がわかんねえで困ってると、しあわせよく水車番に会ったからすぐ知れました。あれは親身な人だっけ」 君の素直な心はすぐ人の心に触れると見える。あの水車番というのは実際このへんで珍しく心持ちのいい男だ。君は手ぬぐいを腰から抜いて湯げが立たんばかりに汗になった顔を幾度も押しぬぐった。 夜食の膳が運ばれた。「もう我慢がなんねえ」と言って、君は今まで堅くしていたひざをくずしてあぐらをかいた。「きちょうめんにすわることなんぞははあねえもんだから。」二人は子供どうしのような楽しい心で膳に向かった。君の大食は愉快に私を驚かした。食後の茶を飯茶わんに三杯続けさまに飲む人を私は始めて見た。 夜食をすましてから、夜中まで二人の間に取りかわされた楽しい会話を私は今だに同じ楽しさをもって思い出す。戸外ではここを先途とあらしが荒れまくっていた。部屋の中ではストーブの向かい座にあぐらをかいて、癖のように時おり五分刈りの濃い頭の毛を逆さになで上げる男ぼれのする君の顔が部屋を明るくしていた。君はがんじょうな文鎮になって小さな部屋を吹雪から守るように見えた。温まるにつれて、君の周囲から蒸れ立つ生臭い魚の香は強く部屋じゅうにこもったけれども、それは荒い大海を生々しく連想させるだけで、なんの不愉快な感じも起こさせなかった。人の感覚というものも気ままなものだ。 楽しい会話と言った。しかしそれはおもしろいという意味ではもちろんない。なぜなれば君はしばしば不器用な言葉の尻を消して、曇った顔をしなければならなかったから。そして私も苦しい立場や、自分自身の迷いがちな生活を痛感して、暗い心に捕えられねばならなかったから。 その晩君が私に話して聞かしてくれた君のあれからの生活の輪郭を私はここにざっと書き連ねずにはおけない。 札幌で君が私を訪れてくれた時、君には東京に遊学すべき道が絶たれていたのだった。一時北海道の西海岸で、小樽をすら凌駕してにぎやかになりそうな気勢を見せた岩内港は、さしたる理由もなく、少しも発展しないばかりか、だんだんさびれて行くばかりだったので、それにつれて君の一家にも生活の苦しさが加えられて来た。君の父上と兄上と妹とが気をそろえて水入らずにせっせと働くにも係わらず、そろそろと泥沼の中にめいり込むような家運の衰勢をどうする事もできなかった。学問というものに興味がなく、従って成績のおもしろくなかった君が、芸術に捧誓したい熱意をいだきながら、そのさびしくなりまさる古い港に帰る心持ちになったのはそのためだった。そういう事を考え合わすと、あの時君がなんとなく暗い顔つきをして、いらいらしく見えたのがはっきりわかるようだ。君は故郷に帰っても、仕事の暇々には、心あてにしている景色でもかく事を、せめてもの頼みにして札幌を立ち去って行ったのだろう。 しかし君の家庭が君に待ち設けていたものは、そんな余裕の有る生活ではなかった。年のいった父上と、どっちかと言えば漁夫としての健康は持ち合わせていない兄上とが、普通の漁夫と少しも変わりのない服装で網をすきながら君の帰りを迎えた時、大きい漁場の持ち主という風が家の中から根こそぎ無くなっているのをまのあたりに見やった時、君はそれまでの考えののんき過ぎたのに気がついたに違いない。充分の思慮もせずにこんな生活の渦巻の中に我れから飛び込んだのを、君の芸術的欲求はどこかで悔やんでいた。その晩、磯臭い空気のこもった部屋の中で、枕につきながら、陥穽にかかった獣のようないらだたしさを感じて、まぶたを合わす事ができなかったと君は私に告白した。そうだったろう。その晩一晩だけの君の心持ちをくわしく考えただけで、私は一つの力強い小品を作り上げる事ができると思う。 しかし親思いで素直な心を持って生まれた君は、君を迎え入れようとする生活からのがれ出る事をしなかったのだ。詰め襟のホックをかけずに着慣れた学校服を脱ぎ捨てて、君は厚衣を羽織る身になった。明鯛から鱈、鱈から鰊、鰊から烏賊というように、四季絶える事のない忙しい漁撈の仕事にたずさわりながら、君は一年じゅうかの北海の荒波や激しい気候と戦って、さびしい漁夫の生活に没頭しなければならなかった。しかも港内に築かれた防波堤が、技師の飛んでもない計算違いから、波を防ぐ代わりに、砂をどんどん港内に流し入れるはめになってから、船がかりのよかった海岸は見る見る浅瀬に変わって、出漁には都合のいい目ぬきの位置にあった君の漁場はすたれ物同様になってしまい、やむなく高い駄賃を出して他人の漁場を使わなければならなくなったのと、北海道第一と言われた鰊の群来が年々減って行くために、さらぬだに生活の圧迫を感じて来ていた君の家は、親子が気心をそろえ力を合わして、命がけに働いても年々貧窮に追い迫られ勝ちになって行った。 親身な、やさしい、そして男らしい心に生まれた君は、黙ってこのありさまを見て過ごす事はできなくなった。君は君に近いものの生活のために、正しい汗を額に流すのを悔いたり恥じたりしてはいられなくなった。そして君はまっしぐらに労働生活のまっただ中に乗り出した。寒暑と波濤と力わざと荒くれ男らとの交わりは君の筋骨と度胸とを鉄のように鍛え上げた。君はすくすくと大木のようにたくましくなった。 「岩内にも漁夫は多いども腕力にかけておらにかなうものは一人だっていねえ」 君はあたりまえの事を言って聞かせるようにこう言った。私の前にすわった君の姿は私にそれを信ぜしめる。 パンのために生活のどん底まで沈み切った十年の月日――それは短いものではない。たいていの人はおそらくその年月の間にそういう生活からはね返る力を失ってしまうだろう。世の中を見渡すと、何百万、何千万の人々が、こんな生活にその天授の特異な力を踏みしだかれて、むなしく墳墓の草となってしまったろう。それは全く悲しい事だ。そして不条理な事だ。しかしだれがこの不条理な世相に非難の石をなげうつ事ができるだろう。これは悲しくも私たちの一人一人が肩の上に背負わなければならない不条理だ。特異な力を埋め尽くしてまでも、当面の生活に没頭しなければならない人々に対して、私たちは尊敬に近い同情をすらささげねばならぬ悲しい人生の事実だ。あるがままの実相だ。 パンのために精力のあらん限りを用い尽くさねばならぬ十年――それは短いものではない。それにもかかわらず、君は性格の中に植え込まれた憧憬を一刻も捨てなかったのだ。捨てる事ができなかったのだ。 雨のためとか、風のためとか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、なす事なく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間にはたまに来る。そういう時に、君は一冊のスケッチ帳(小学校用の粗雑な画学紙を不器用に網糸でつづったそれ)と一本の鉛筆とを、魚の鱗や肉片がこびりついたまま、ごわごわにかわいた仕事着のふところにねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ。 「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくりおら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです。その心持ちがかいてみたくって、あんな下手なものをやってみるが、からだめです。あんな山の心持ちをかいた絵があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね。天気のいい気持ちのいい日にうんと力こぶを入れてやってみたらと思うけんど、暮らしも忙しいし、やってもおらにはやっぱり手に余るだろう。色もつけてみたいが、絵の具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、おらのような絵にはまた買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしいいいものがあるんだが、力が足んねえです」 と言ったりする君の言葉も様子も私には忘れる事のできないものになった。その時はあぐらにした両脛を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。 私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく吹雪は露ほども力をゆるめなかった。君は君で、私は私で、妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君の事を思った。仁王のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、この上なく美しい事に私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えた。そして私はだんだん私の仕事の事を考えた。どんなにもがいてみてもまだまだほんとうに自分の所有を見いだす事ができないで、ややもするとこじれた反抗や敵愾心から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見る事に興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせた。そしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。 次の日の朝、こうしてはいられないと言って、君はあらしの中に帰りじたくをした。農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろとしいて止めるのも聞かず、君は素足にかちんかちんに凍った兵隊長靴をはいて、黒い外套をしっかり着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだ。なごりを心から惜しんでだろう、農場の人たちも親身にかれこれと君をいたわった。すっかり頭巾をかぶって、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうとみんなが寄って勧めたけれども、君は素朴なはばかりから帽子もかぶらずに、重々しい口調で別れの挨拶をすますと、ガラス戸を引きあけて戸外に出た。 私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった。 そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。 私がそこを発って東京に帰ったのは、それから三四日後の事だった。
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