芥川龍之介作品集第三巻 |
昭和出版社 |
1965(昭和40)年12月20日 |
1965(昭和40)年12月20日 |
笑は量的に分てば微笑哄笑の二種あり。質的に分てば嬉笑嘲笑苦笑の三種あり。……予が最も愛する笑は嬉笑嘲苦笑と兼ねたる、爆声の如き哄笑なり。アウエルバツハの穴蔵に愚昧の学生を奔らせたる、メフイストフエレエスの哄笑なり。
――カアル・エミリウス――
ユダ
逾越[#「逾越」は底本では「逾趣」]と云へる「種入れぬ麺包の祭」近づけり。祭司[#「祭司」は底本では「祭史」]の長学者たち、如何にしてかイエスを殺さんと窺ふ。但民を畏れたり。偖悪魔十二の中のイスカリオテと称ふるユダに憑きぬ。ユダ橄欖の林を歩める時、悪魔彼に云ひけるは、「イエスを祭司の長たちに売せ。然すれば三十枚の銀子を得べし。」されどユダ耳を蔽ひ、林の外に走り去れり。後又イエルサレムの町をさまよへる時、悪魔彼に云ひけるは、「イエスを祭司の長たちに売せ。然らずば爾もイエスと共に、必十字架に釘けらるべし。」されどユダ耳を蔽ひ、イエスのもとに走り去れり。イエス彼に云ひけるは、「ユダよ。我誠に爾[#ルビの「なんぢ」は底本では「なんじ」]を知る。爾は荒野の獅子よりも強し。但小羊の心を忘るる勿れ。」ユダ、イエスの言葉を悦べり。されどその意味を覚らざりき。逾越の祭来りし時、イエス弟子と共に食に就けり。悪魔三度ユダに云ひけるは、「イエスを祭司の長たちに売せ。然すれば爾の名、イエスの名と共に伝はらん。イエスの名太陽よりも光あれば、爾の名黒暗よりも恐怖あらん。爾は天国の奴隷たらざるも、必地獄の王たるべし。バビロンの淫婦は爾[#ルビの「なんぢ」は底本では「なんじ」]の妃、七頭の毒竜は爾の馬、火と煙と硫黄とは汝が黒檀の宝座の前に、不断の香煙を上らしめん。」ユダこの声を聞[#「聞」は底本では「闇」]きし時、目のあたりに地獄の荘厳を見たり。イエス忽ちユダに一撮の食物を与へ、静かに彼に云ひけるは、「爾が為さんとする事は速かに為せ。」ユダ一撮の食物を受け、直ちに出でたり。時既に夜なりき。ユダ祭司の長カヤパの前に至り、イエスを彼に売さんと云へり。カヤパ駭きて云ひけるは、「爾は何物なるか、イエスの弟子か、はたイエスの師か。」そはユダの姿、額は嵐の空よりも黒み、眼は焔よりも輝きつつ、王者の如く振舞ひしが故なり。……
眼
――中華第一の名庖丁張粛臣の談――
眼をね、今日は眼を御馳走しようと思つたのです。何の眼? 無論人間の眼をですよ。そりや眼を召上がらなければ、人間を召上つたとは云はれませんや。眼と云ふやつはうまいものですぜ。脂があつて、歯ぎれがよくつて、――え、何にする? まあ、湯へ入れるんですね。丁度鳩の卵のやうに、白眼と黒眼とはつきりしたやつが、香菜が何かぶちこんだ中に、ふはふは浮いてゐやうと云ふんです。どうです? 悪くはありますまい。私なんぞは話してゐても、自然と唾気がたまつて来ますぜ。そりや清湯燕窩だとか清湯鴒蛋だとかとは、比べものにも何にもなりませんや。所が今日その眼を抜いて見ると、――これにや私も驚きましたね。まるで使ひものにやならないんです。何、男か女か? 男ですよ。男も男も、髭の生えた、フロツク・コオトを着てゐる男ですがね。御覧なさい。此処に名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]があります。Herr Stuffendpuff. ちつとは有名な男ですか? 成程ね、つまりその新聞や何かに議論を書いてゐる人間なんでせう。そいつの眼玉がこれぢやありませんか? そら、壁へ叩きつけても、容易な事ぢや破れませんや。驚いたでせう。二つともこの通り入れ眼ですよ。硝子細工の入れ眼ですよ。
疲労
雨を孕んだ風の中に、竜騎兵の士官を乗せた、アラビア種の白馬が一頭、喘ぎ喘ぎ走つて行つた。と思ふと銃声が五六発、続けさまに街道の寂寞を破つた。その時白楊の並木の根がたに、尿をしやんだ一頭の犬は、これも其処へ来かかつた、仲間の尨犬に話しかけた。 「どうだい、あの白馬の疲れやうは?」 「莫迦々々しいなあ。馬ばかりが獣ぢやあるまいし、――」 「さうとも、僕等に乗つてくれれば、地球の極へも飛んで行くのだが、――」 二匹の犬はかう云ふが早いか、竜騎兵の士官でも乗せてゐるやうに、昂然と街道を走つて行つた。
魔女
魔女は箒に跨りながら、片々と空を飛んで行つた。 それを見たものが三人あつた。 一人は年をとつた月だつた。これは又かと云ふやうに、黙々と塔の上にかかつてゐた。 もう一人は風見の鶏だつた。これはびつくりしたやうに、ぎいぎい桿の上に啼きまはつた。 最後の一人は大学教授 Dundergutz 先生だつた。これはその後熱心に、魔女が空を飛んで行つたのは、箒が魔女を飛ばせたのか、魔女が箒を飛ばせたものか、どちらかと云ふ事を研究し出した。 何でも先生は今日でも、やはり同じ大問題を研究し続けてゐるさうである。 魔女は箒に跨りながら、昨夜も大きな蝙蝠のやうに、片々と空を飛んで行つた。
遊び
崖に臨んだ岩の隙には、一株の羊歯が茂つてゐる。トムはその羊歯の葉の上に、さつきから一匹の大土蜘蛛と、必死の格闘を続けてゐる。何しろ評判の渾名通り、親指位しかない男だから、蜘蛛と戦ふのも容易ではない。蜘蛛は足を拡げた儘、まつしぐらにトムへ殺到する。トムはその度に身をかはせては、咄嗟に蜘蛛の腹へ一撃を加へる。…… それが十分程続いた後、彼等は息も絶え絶えに、どちらも其処へゐすくまつてしまつた。 羊歯の生えた岩の下には、深い谷底が開いてゐる。一匹の毒竜はその谷底に、白馬へ跨つた聖ヂヨオヂと、もう半日も戦つてゐる。何しろ相手の騎士の上には、天主の冥護が加つてゐるから、毒竜も容易に勝つ事は出来ない。毒竜は火を吐きかけ、吐きかけ、何度も馬の鞍へ跳り上る。が、何時でも竜の爪は、騎士の鎧に辷つてしまつた。聖ヂヨオヂは槍を揮ひながら、縦横に馬を跳らせてゐる。軽快な蹄の音、花々しい槍の閃き、それから毒竜の炎の中に、々と靡いた兜の乱れ毛、…… トムは遠い崖の下に、勇ましい聖ヂヨオヂの姿を見ると、苦々しさうに舌打ちをした。 「畜生。あいつは遊んでゐやがる。」
Don Juan aux enfers
ドン・ジユアンは舟の中に、薄暗い河を眺めてゐる。時々古い舟べりを打つては、蒼白い火花を迸らせる、泊夫藍色の浪の高さ。その舟の艫には厳のやうに、黙々と今日も櫂を取つた、おお、お前! 寂しいシヤアロン! 或霊は遠い浪の間に、高々と両手をさし上げながら、舟中の客を呪つてゐる。又或霊は口惜しさうに、舟べりを煙らせた水沫の中から、ぢつと彼の顔を見上げてゐる。見よ! あちらの舳に縋つた、或霊の腕の逞ましさを! と思ふとこちらの艫にも、シヤアロンの櫂に払はれたのか、真逆様に沈みかかつた、或霊の二つの足のうら!
妻を盗まれた夫の霊、娘を掠められた父親の霊、恋人を奪はれた若者の霊。――この河に浮き沈む無数の霊は、一人も残らず男だつた。おお、わが詩人ボオドレエル! 君はこの地獄の河に、どの位夥しい男の霊が、泣き叫んでゐたかを知らなかつた!
しかしドン・ジユアンは冷然と、舟中に剣をついた儘、の好い葉巻へ火をつけた。さうして眉一つ動かさずに、大勢の霊を眺めやつた。何故彼はこの時でも、流俗のやうに恐れなかつたか? それは一人も霊の中に彼程の美男がゐなかつたからである!
幽霊
或古本屋の店頭。夜。古本屋の主人は居睡りをしてゐる。かすかにピアノの音がするのは、近所にカフエエのある証拠らしい。 第一の幽霊 (さもがつかりしたやうに、朦朧と店さきへ姿を現す。)此処にも古本屋が一軒ある。存外かう云ふ所には、品物が揃つてゐるかも知れない。(熱心に棚の書物を検べる。)近松全集、万葉集略解、たけくらべ、アンナ・カレニナ、芭蕉句集、――ない。ない。やつぱりない。ないと云ふ筈はないのだが…… 第二の幽霊 (これもやはり大儀さうに、ふはりと店へはひつて来る。)おや、今晩は。 第一の幽霊 今晩は。どうだね、その後君の戯曲は? 第二の幽霊 駄目、駄目。何処の芝居でも御倉にしてゐる。やつてゐるのは不相変、黴の生えた旧劇ばかりさ。君の小説はどうなつたい? 第一の幽霊 これも御同様絶版と来てゐる。もう僕の小説なぞは、誰も読むものがなくなつたのだね。 第二の幽霊 (冷笑するやうに。)君の時代も過ぎ去つたかね。 第一の幽霊 (感傷的に。)我々の時代が過ぎ去つたのだよ。尤も僕等が往生したのは、もう五十年も前だからなあ。 第三の幽霊 (これは燐火を飛ばせながら、愉快さうに漂つて来る。)今晩は。何だかいやにふさいでゐるぢやないか? 幽霊が悄然としてゐるなんぞは、当節がらあんまりはやらないぜ。僕は批評家たる職分上、諸君の悪趣味に反対だね。 第一の幽霊 僕等がふさいでゐるのぢやない。君が幽霊にしては陽気過ぎるのだよ。 第三の幽霊 そりや大きにさうかも知れない。しかし僕は今夜という今夜、始めて死に甲斐を感じたね。 第二の幽霊 (冷笑すやうに。)君の全集でも出来るのかい? 第三の幽霊 いや、全集は出来ないがね。兎に角後代に僕の名前が、伝はる事だけは確になつたよ。 第二の幽霊 (疑はしさうに。)へええ。 第一の幽霊 (喜しさうに。)本当かい? 第三の幽霊 本当とも。まあ、これを見てくれ給へ。(書物を一冊出して見せる。)これは今日出来た本だがね。この本の中に僕の事が、ちやんと五六行書いてあるのだ。どうだい? これぢやいくら幽霊でも、はしやぎまはらずにはゐられないぢやないか? 第二の幽霊 ちよいと借してくれ給へ。(一生懸命に頁をはぐる。)僕の名前は出てゐないかしら? 第一の幽霊 名前位は出てゐるだらう。僕のも次手に見てくれ給へ。 第三の幽霊 (得意さうに独り言を云ふ。)おれもとうとう不朽になつたのだ。サント・ブウヴやテエヌのやうに。――不朽と云ふ事も悪いものぢやないな。 第二の幽霊 (第一の幽霊に。)[#底本ではここに句点]どうも君の名は見えないやうだよ。 第一の幽霊 君の名も見えないやうだね。 第二の幽霊 (第三の幽霊に。)君の事は何処に書いてあるのだ? 第三の幽霊 索引を見給へ。索引を。××××と云ふ所を引けば好いのだ。 第二の幽霊 成程、此処に書いてある。「当時数の多かつた批評家中、永久に記憶さるべきものは、××××と云ふ論客である。……」 第三の幽霊 まあ、ざつとそんな調子さ。其処まで読めば沢山だよ。 第二の幽霊 次手にもう少し読ませ給へ。「勿論彼は如何なる点でも、毛頭才能ある批評家ではない。……」 第一の幽霊 (満足さうに。)それから? 第二の幽霊 (読み続ける。)「しかし彼は不朽になるべき、十分な理由を持つてゐる。……」 第三の幽霊 もうそれだけにして置き給へ。僕はちよいと行く所があるから。 第二の幽霊 まあ、しまひまで読ませ給へ。(愈大声に。)「何となれば彼は――」 第三の幽霊 ぢや僕は失敬する。 第一の幽霊 そんなに急がなくつても好いぢやないか? 第二の幽霊 もうたつた一行だよ。「何となれば彼は終始一貫――」 第三の幽霊 (やけ気味に。)ぢや勝手に読み給へ。左様なら。(燐火と共に消える。) 第一の幽霊 何だつてあんなに慌てたのだらう? 第二の幽霊 慌てる筈さ。まあ、これを聞[#「聞」は底本では「闇」]き給へ。[#底本ではここで改行、次行の始めかぎ括弧は天ツキ]「何となれば彼は終始一貫、芥川竜之介の小説が出ると、勇ましい悪口を云ひ続けた。……」 第一の幽霊 (笑ふ。)そんな事だらうと思つたよ。 第二の幽霊 不朽もかうなつちや禍だね。(書物を抛り出す。) その音に主人が眼をさます。 主人 おや、棚の本が落ちたかしら。こりやまだ新しい本だが。 第二の幽霊 (わざと物凄い声をする。)それもぢきに古くなるぞ。 主人 (驚いたやうに。)誰だい、お前さんは? 第一の幽霊 (第二の幽霊に。)罪な事をするものぢやない。さあ、一しよに Hades へ帰らう。(消える。) 第二の幽霊 ちつとは僕の本も店へ置けよ。(消える。) 主人は呆気にとられてゐる。
(大正十年十一月)
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