芥川龍之介全集1 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1986(昭和61)年9月24日 |
1995(平成7)年10月5日第13刷 |
筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
筑摩書房 |
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
僕は、船のサルーンのまん中に、テーブルをへだてて、妙な男と向いあっている。―― 待ってくれ給え。その船のサルーンと云うのも、実はあまり確かでない。部屋の具合とか窓の外の海とか云うもので、やっとそう云う推定を下しては見たものの、事によると、もっと平凡な場所かも知れないと云う懸念がある。いや、やっぱり船のサルーンかな。それでなくては、こう揺れる筈がない。僕は木下杢太郎君ではないから、何サンチメートルくらいな割合で、揺れるのかわからないが、揺れる事は、確かに揺れる。嘘だと思ったら、窓の外の水平線が、上ったり下ったりするのを、見るがいい。空が曇っているから、海は煮切らない緑青色を、どこまでも拡げているが、それと灰色の雲との一つになる所が、窓枠の円形を、さっきから色々な弦に、切って見せている。その中に、空と同じ色をしたものが、ふわふわ飛んでいるのは、大方鴎か何かであろう。 さて、僕の向いあっている妙な男だが、こいつは、鼻の先へ度の強そうな近眼鏡をかけて、退屈らしく新聞を読んでいる。口髭の濃い、顋の四角な、どこかで見た事のあるような男だが、どうしても思い出せない。頭の毛を、長くもじゃもじゃ生やしている所では、どうも作家とか画家とか云う階級の一人ではないかと思われる。が、それにしては着ている茶の背広が、何となく釣合わない。 僕は、暫く、この男の方をぬすみ見ながら、小さな杯へついだ、甘い西洋酒を、少しずつなめていた。これは、こっちも退屈している際だから、話しかけたいのは山々だが、相手の男の人相が、甚だ、無愛想に見えたので、暫く躊躇していたのである。 すると、角顋の先生は、足をうんと踏みのばしながら、生あくびを噛みつぶすような声で、「ああ、退屈だ。」と云った。それから、近眼鏡の下から、僕の顔をちょいと見て、また、新聞を読み出した。僕はその時、いよいよ、こいつにはどこかで、会った事があるのにちがいないと思った。 サルーンには、二人のほかに誰もいない。 暫くして、この妙な男は、また、「ああ、退屈だ。」と云った。そうして、今度は、新聞をテーブルの上へ抛り出して、ぼんやり僕の酒を飲むのを眺めている。そこで僕は云った。 「どうです。一杯おつきあいになりませんか。」 「いや、難有う。」彼は、飲むとも飲まないとも云わずに、ちょいと頭をさげて、「どうも、実際退屈しますな。これじゃ向うへ着くまでに、退屈死に死んじまうかも知れません。」 僕は同意した。 「まだ、ZOILIA の土を踏むには、一週間以上かかりましょう。私は、もう、船が飽き飽きしました。」 「ゾイリア――ですか。」 「さよう、ゾイリア共和国です。」 「ゾイリアと云う国がありますか。」 「これは、驚いた。ゾイリアを御存知ないとは、意外ですな。一体どこへお出でになる御心算か知りませんが、この船がゾイリアの港へ寄港するのは、余程前からの慣例ですぜ。」 僕は当惑した。考えて見ると、何のためにこの船に乗っているのか、それさえもわからない。まして、ゾイリアなどと云う名前は、未嘗、一度も聞いた事のない名前である。 「そうですか。」 「そうですとも。ゾイリアと云えば、昔から、有名な国です。御承知でしょうが、ホメロスに猛烈な悪口をあびせかけたのも、やっぱりこの国の学者です。今でも確かゾイリアの首府には、この人の立派な頌徳表が立っている筈ですよ。」 僕は、角顋の見かけによらない博学に、驚いた。 「すると、余程古い国と見えますな。」 「ええ、古いです。何でも神話によると、始は蛙ばかり住んでいた国だそうですが、パラス・アテネがそれを皆、人間にしてやったのだそうです。だから、ゾイリア人の声は、蛙に似ていると云う人もいますが、これはあまり当になりません。記録に現れたのでは、ホメロスを退治した豪傑が、一番早いようです。」 「では今でも相当な文明国ですか。」 「勿論です。殊に首府にあるゾイリア大学は、一国の学者の粋を抜いている点で、世界のどの大学にも負けないでしょう。現に、最近、教授連が考案した、価値測定器の如きは、近代の驚異だと云う評判です。もっとも、これは、ゾイリアで出るゾイリア日報のうけ売りですが。」 「価値測定器と云うのは何です。」 「文字通り、価値を測定する器械です。もっとも主として、小説とか絵とかの価値を、測定するのに、使用されるようですが。」 「どんな価値を。」 「主として、芸術的な価値をです。無論まだその他の価値も、測定出来ますがね。ゾイリアでは、それを祖先の名誉のために MENSURA ZOILI と名をつけたそうです。」 「あなたは、そいつをご覧になった事があるのですか。」 「いいえ。ゾイリア日報の挿絵で、見ただけです。なに、見た所は、普通の計量器と、ちっとも変りはしません。あの人が上る所に、本なりカンヴァスなりを、のせればよいのです。額縁や製本も、少しは測定上邪魔になるそうですが、そう云う誤差は後で訂正するから、大丈夫です。」 「それはとにかく、便利なものですね。」 「非常に便利です。所謂文明の利器ですな。」角顋は、ポケットから朝日を一本出して、口へくわえながら、「こう云うものが出来ると、羊頭を掲げて狗肉を売るような作家や画家は、屏息せざるを得なくなります。何しろ、価値の大小が、明白に数字で現れるのですからな。殊にゾイリア国民が、早速これを税関に据えつけたと云う事は、最も賢明な処置だと思いますよ。」 「それは、また何故でしょう。」 「外国から輸入される書物や絵を、一々これにかけて見て、無価値な物は、絶対に輸入を禁止するためです。この頃では、日本、英吉利、独逸、墺太利、仏蘭西、露西亜、伊太利、西班牙、亜米利加、瑞典、諾威などから来る作品が、皆、一度はかけられるそうですが、どうも日本の物は、あまり成績がよくないようですよ。我々のひいき眼では、日本には相当な作家や画家がいそうに見えますがな。」 こんな事を話している中に、サルーンの扉があいて、黒坊のボイがはいって来た。藍色の夏服を着た、敏捷そうな奴である、ボイは、黙って、脇にかかえていた新聞の一束を、テーブルの上へのせる。そうして、直また、扉の向うへ消えてしまう。 その後で角顋は、朝日の灰を落しながら、新聞の一枚をとりあげた。楔形文字のような、妙な字が行列した、所謂ゾイリア日報なるものである。僕は、この不思議な文字を読み得る点で、再びこの男の博学なのに驚いた。 「不相変、メンスラ・ゾイリの事ばかり出ていますよ。」彼は、新聞を読み読み、こんな事を云った。「ここに、先月日本で発表された小説の価値が、表になって出ていますぜ。測定技師の記要まで、附いて。」 「久米と云う男のは、あるでしょうか。」 僕は、友だちの事が気になるから、訊いて見た。 「久米ですか。『銀貨』と云う小説でしょう。ありますよ。」 「どうです。価値は。」 「駄目ですな。何しろこの創作の動機が、人生のくだらぬ発見だそうですからな。そしておまけに、早く大人がって通がりそうなトーンが、作全体を低級な卑しいものにしていると書いてあります。」 僕は、不快になった。 「お気の毒ですな。」角顋は冷笑した。「あなたの『煙管』もありますぜ。」 「何と書いてあります。」 「やっぱり似たようなものですな。常識以外に何もないそうですよ。」 「へええ。」 「またこうも書いてあります。――この作者早くも濫作をなすか。……」 「おやおや。」 僕は、不快なのを通り越して、少し莫迦莫迦しくなった。 「いや、あなた方ばかりでなく、どの作家や画家でも、測定器にかかっちゃ、往生です。とてもまやかしは利きませんからな。いくら自分で、自分の作品を賞め上げたって、現に価値が測定器に現われるのだから、駄目です。無論、仲間同志のほめ合にしても、やっぱり評価表の事実を、変える訳には行きません。まあ精々、骨を折って、実際価値があるようなものを書くのですな。」 「しかし、その測定器の評価が、確かだと云う事は、どうしてきめるのです。」 「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパッサンの『女の一生』でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。」 「それだけですか。」 「それだけです。」 僕は黙ってしまった。少々、角顋の頭が、没論理に出来上っているような気がしたからである。が、また、別な疑問が起って来た。 「じゃ、ゾイリアの芸術家の作った物も、やはり測定器にかけられるのでしょうか。」 「それは、ゾイリアの法律が禁じています。」 「何故でしょう。」 「何故と云って、ゾイリア国民が承知しないのだから、仕方がありません。ゾイリアは昔から共和国ですからな。Vox populi, vox Dei を文字通りに遵奉する国ですからな。」 角顋は、こう云って、妙に微笑した。「もっとも、彼等の作物を測定器へのせたら、針が最低価値を指したと云う風説もありますがな。もしそうだとすれば、彼等はディレムマにかかっている訳です。測定器の正確を否定するか、彼等の作物の価値を否定するか、どっちにしても、難有い話じゃありません。――が、これは風説ですよ。」 こう云う拍子に、船が大きく揺れたので、角顋はあっと云う間に椅子から、ころがり落ちた。するとその上へテーブルが倒れる。酒の罎と杯とがひっくりかえる。新聞が落ちる。窓の外の水平線が、どこかへ見えなくなる。皿の破れる音、椅子の倒れる音、それから、波の船腹へぶつかる音――、衝突だ。衝突だ。それとも海底噴火山の爆発かな。 気がついて見ると、僕は、書斎のロッキング・チェアに腰をかけて St. John Ervine の The Critics と云う脚本を読みながら、昼寝をしていたのである。船だと思ったのは、大方椅子の揺れるせいであろう。 角顋は、久米のような気もするし、久米でないような気もする。これは、未だにわからない。
(大正五年十一月二十三日)
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