芥川龍之介作品集 第四巻 |
昭和出版社 |
1965(昭和40)年12月20日 |
誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル
僕は屈辱を受けた時、なぜか急には不快にはならぬ。が、彼是一時間ほどすると、だんだん不快になるのを常としてゐる。 × 僕はロダンのウゴリノ伯を見た時、――或はウゴリノ伯の写真を見た時、忽ち男色を思ひ出した。 × 僕は樹木を眺める時、何か我々人間のやうに前後ろのあるやうに思はれてならぬ。 × 僕は時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。 × 僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。 × 僕はどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。 × 僕は滅多に憎んだことはない。その代りには時々軽蔑してゐる。 × 僕自身の経験によれば、最も甚しい自己嫌悪の特色はあらゆるものにを見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。 × 僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつと羅馬字に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。 × 僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。 × 僕は未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。 × あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。僕は彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの点では僕と大差のある訣ではない。が、僕自身に従へば、僕は唯「自尊心の強い」だけである。 × 僕は医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。従つてをついたやうな気ばかりしてゐる。 × 僕は僕の住居を離れるのに従ひ、何か僕の人格も曖昧になるのを感じてゐる。この現象が現れるのは僕の住居を離れること、三十哩前後に始まるらしい。 × 僕の精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。 × 僕は見知越しの人に会ふと、必ずこちらからお時宜をしてしまふ。従つて向うの気づかずにゐる時には「損をした」と思ふこともないではない。
(大正一五・一二・四)
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