文芸的な、余りに文芸的な(ぶんげいてきな、あまりにぶんげいてきな)
二十八 国木田独歩 国木田独歩は才人だつた。彼の上に与へられる「無器用」と云ふ言葉は当つてゐない。独歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出来上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出来上つてゐる。若(も)し彼を無器用と云ふならば、フイリツプも亦無器用であらう。 しかし独歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戯曲的に発展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出来なかつたのである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は実にそこに存してゐた。 独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷(ふたばていしめい)や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臓を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞(たくま)しい実行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその為に彼等よりもはるかに静かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。…… しかし更に独歩を見れば、彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臓の為に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「画の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も独歩を愛したのは偶然ではない。 柔い心臓を持つてゐた独歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎藤村(とうそん)氏や田山花袋(くわたい)氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。独歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の独歩の愛読書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史観も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に触れたことである。 けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭脳の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武蔵野」の小品に変らざるを得ない。「武蔵野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雑木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。徳富蘆花(ろくわ)氏の「自然と人生」は「武蔵野」と好対照を示すものであらう。自然を写生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帯びてゐる。のみならず広いロシアを含んだ東洋的伝統の古色を帯びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある為に「武蔵野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは独歩の拓(ひら)いた「武蔵野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覚えてゐるのは吉江孤雁(こがん)氏一人だけである。当時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。) 独歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蛮な人生と向ひ合つた。しかし彼の中の詩人はいつまでたつても詩人だつた。鋭い頭脳は死に瀕(ひん)した彼に「病牀録(びやうしやうろく)」を作らせてゐる。が、かう云ふ彼は一面には「沙漠の雨」(?)と云ふ散文詩を作つてゐた。 若し独歩の作品中、最も完成したものを挙げるとすれば、「正直者」や「竹の木戸」にとどまるであらう。が、それ等の作品は必しも詩人兼小説家だつた独歩の全部を示してゐない。僕は最も調和のとれた独歩を――或は最も幸福だつた独歩を「鹿狩り」等の小品に見出してゐる。(中村星湖氏の初期の作品はかう云ふ独歩の作品に近いものだつた。) 自然主義の作家たちは皆精進して歩いて行つた。が、唯一人独歩だけは時々空中へ舞ひ上つてゐる。…… 二十九 再び谷崎潤一郎氏に答ふ 僕は谷崎潤一郎氏の「饒舌録(ぜうぜつろく)」を読み、もう一度この文章を作る気になつた。勿論僕の志も谷崎君にばかり答へるつもりではない。しかし私心を挾(さしはさ)まずに議論を闘はすことの出来る相手は滅多に世間にゐないものである。僕はその随一人を谷崎潤一郎氏に発見した。これは或は谷崎氏は難有(ありがた)迷惑であると云ふかも知れない。けれども若し点心(てんしん)並みに僕の議論を聞いて貰へれば、それだけでも僕は満足するのである。 不滅なるものは芸術ばかりではない。僕等の芸術論も亦不滅である。僕等はいつまでも芸術とは? 云々のことを論じてゐるであらう。かう云ふ考へは僕のペンを鈍(にぶ)らせることは確かである。けれども僕の立ち場を明らかにする為に暫く想念(イデエ)のピンポンを弄(もてあそ)ぶとすれば、―― (1)[#「(1)」は縦中横] 僕は或は谷崎氏の言ふやうに左顧右眄(さこうべん)してゐるかも知れない。いや、恐らくはしてゐるであらう。僕は如何なる悪縁か、驀地(まつしぐら)に突進する勇気を欠いてゐる。しかも稀にこの勇気を得れば、大抵何ごとにも失敗してゐる。「話」らしい話のない小説などと言ひ出したのも或はこの一例かも知れない。しかし僕は谷崎氏も引用したやうに「純粋であるか否かの一点に依つて芸術家の価値は極(き)まる」と言つたのである。これは勿論「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない云々の言葉とは矛盾しない。僕は小説や戯曲の中にどの位純粋な芸術家の面目のあるかを見ようとするのである。(「話」らしい話を持つてゐない小説――たとへば日本の写生文脈の小説はいづれも純粋な芸術家の面目を示してゐるとは限つてゐない。)「詩的精神云々の意味がよく分らない」と言つた谷崎氏に対する答はこの数行に足りてゐる筈である。 (2)[#「(2)」は縦中横] 谷崎氏の所謂(いはゆる)「構成する力」は僕にも理解出来たやうに感じてゐる。僕も亦日本の文芸に――殊に現世の文芸にかう云ふ力の欠けてゐることを必しも否(いな)むものではない。しかし若し谷崎君の言ふやうにかう云ふ力の現れるのは必しも長篇に限らないとすれば、前に僕の挙げた諸作家もやはりかう云ふ力を持ち合せてゐる。尤もこれは比較的な問題であるから、或標準の上に立つて有無(うむ)を論じても仕かたはないであらう。なほ又僕の志賀直哉氏に及ばないのを「肉体的力量の感じの有無にある」と云ふのは全然僕には賛成出来ない。谷崎氏は僕自身よりも更に僕を買ひ冠(かぶ)つてゐる。「僕等は僕等自身の短所を語るものではない。僕等自身語らずとも他人は必ず語つてくれるものである。」――メリメエは彼の書簡集の中にかう云ふ老外交家の言葉を引用した。僕も亦この言葉を少くとも部分的に守るつもりである。 (3)[#「(3)」は縦中横] 「ゲエテの偉いのはスケールが大きくて猶且(なほかつ)純粋性を失はないところにある」と言ふ谷崎氏の言葉は中(あた)つてゐる。これは僕にも異存はない。しかし雑駁(ざつぱく)である大詩人はあつても、純粋でない大詩人はない。従つて大詩人を大詩人たらしめるものは、――少くとも後代に大詩人の名を与へしめるものは雑駁であることに帰着してゐる。谷崎氏は「雑駁な」と云ふ言葉を下品に感じてゐるのであらう。それは僕等の趣味の相違である。僕はゲエテに「雑駁な」と云ふ言葉を与へた。しかしそこには必しも「騒々しい感じ」を含んでゐない。若し谷崎氏の語彙(ごゐ)に従ふとすれば、「包容力の大きい」と云ふ言葉と同意味にしても善いのである。唯この「包容力の大きい」と云ふことは古来の詩人を評価する上に余り重大視されてゐはしないであらうか? ボオドレエルやラムボオを大詩人とする一群はユウゴオの上に円光をかけない。僕は彼等の心もちに少からず同情してゐる。(元来ゲエテは僕等の嫉妬を煽動する力を具へてゐる。同時代の天才に嫉妬を示さない詩人たちさへゲエテに欝憤(うつぷん)を洩らしてゐるのは少くない。しかし僕は不幸にも嫉妬を示す勇気もないものである。ゲエテは伝記の教へる所によれば、原稿料や印税の外にも年金や仕送りを貰つてゐた。彼の天才は暫く問はず、その又天才を助長した境遇や教育も暫く問はず、最後に彼のエネルギイを生んだ肉体的健康も暫く問はず、これだけでも羨しいと思ふものは恐らくは僕一人に限らないであらう。) (4)[#「(4)」は縦中横] これは谷崎氏に答へるのではない。僕等二人の議論の相違は「おのおの体質の相違になりはしないか」と云ふ谷崎氏の言葉に対し、ちよつと感慨を洩らしたいのである。谷崎氏の愛する紫式部は彼女の日記の一節に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかり賢(さか)しだち、まなかきちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人にことならんと思ひ好める人は、かならず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、……もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじく、あだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん」と云ふ言葉を残した。僕は男根隆々たる清家(せいけ)の少女を以て任ずるものではない。けれどもこの文章を読み、(紫式部の科学的教養は体質の相違に言及するほど進歩してゐなかつたにしろ)はるかに僕を戒(いまし)めてゐる谷崎氏を感じずにはゐられなかつた。今再び谷崎氏に答へるのに当り、かう云ふ感慨を洩らすのは議論の是非を暫く問はず、「饒舌録」の文章のリズムの堂々としてゐる為ばかりではない。往年深夜の自動車の中に僕の為に芸術を説いた谷崎潤一郎氏を思ひ出したからである。 三十 「野性の呼び声」 僕は前に光風会に出たゴオガンの「タイチの女」(?)を見た時、何か僕を反撥するものを感じた。装飾的な背景の前にどつしりと立つてゐる橙(だいだい)色の女は視覚的に野蛮人の皮膚の匂を放つてゐた。それだけでも多少辟易(へきえき)した上、装飾的な背景と調和しないことにも不快を感じずにはゐられなかつた。美術院の展覧会に出た二枚のルノアルはいづれもこのゴオガンに勝(まさ)つてゐる。殊(こと)に小さい裸女の画などはどの位シヤルマンに出来上つてゐたであらう。――僕はその時はかう思つてゐた。が、年月の流れるのにつれ、あのゴオガンの橙色の女はだんだん僕を威圧し出した。それは実際タイチの女に見こまれたのに近い威力である。しかもやはりフランスの女も僕には魅力を失つたのではない。若し画面の美しさを云々(うんぬん)するとすれば、僕は未(いまだ)にタイチの女よりもフランスの女を採りたいと思つてゐる。…… 僕はかう云ふ矛盾に似たものを文芸の中にも感じてゐる。更に又諸家の文芸評論の中にもタイチ派とフランス派とのあるのを感じてゐる。ゴオガンは、――少くとも僕の見たゴオガンは橙色の女の中に人間獣の一匹を表現してゐた。しかも写実派の画家たちよりも更に痛切に表現してゐた。或文芸批評家は――たとへば正宗白鳥氏は大抵この人間獣の一匹を表現したかどうかを尺度にしてゐる。が、或文芸批評家は、――たとへば谷崎潤一郎氏は大抵人間獣の一匹よりも人間獣の一匹を含んだ画面の美しさを尺度にしてゐる。(尤も諸家の文芸評論の尺度は必しもこの二者に限つてゐない。実践道徳的尺度もあれば、社会道徳的尺度もあることは確かである。しかし僕はそれ等の尺度に余り興味を持つてゐない。のみならず持つてゐないことも不思議ではないと信じてゐる。)勿論タイチ派は必しもフランス派と両立しないものではない。両者の差別はこの地上に生じた、あらゆる差別のやうに朦朧(もうろう)としてゐる。が、暫く両端を挙げれば、両者の差別のあることだけは兎に角一応は認めなければならぬ。 所謂ゲエテ・クロオチエ・スピンガアン商会の美学によれば、この差別も「表現」の一語に霧のやうに消えてしまふであらう。しかし或作品を仕上げる上には度(たび)たび僕等を、――或は僕を岐路に立たせることは事実である。古典的作家は巧妙にもこの岐路を一度に歩いて行つた。彼等に僕等群小の徒の及ぶことの出来ないのは恐らくはそこにあるのであらう。ルノアルは、――少くとも僕の見たルノアルはかう云ふ点ではゴオガンよりも古典的作家に近いのかも知れない。けれども橙色の人間獣の牝(めす)は何か僕を引き寄せようとしてゐる。かう云ふ「野性の呼び声」を僕等の中に感ずるものは僕一人に限つてゐるのであらうか? 僕は僕と同時代に生まれた、あらゆる造形美術の愛好者のやうにまづあの沈痛な力に満ちたゴオグに傾倒した一人だつた。が、いつか優美を極めたルノアルに興味を感じ出した。それは或は僕の中にある都会人の仕業だつたかも知れない。同時に又ルノアルを軽蔑する当時の愛好者の傾向につむじを曲げたこともない訣(わけ)ではなかつた。けれども十年あまりたつて見ると、――立派に完成したルノアルは未だに僕を打たない訣ではない。しかしゴオグの糸杉や太陽はもう一度僕を誘惑するのである。それは橙色の女の誘惑とは或は異つてゐるかも知れない。が、何か切迫したものに言はば芸術的食慾を刺戟されるのは同じことである。何か僕等の魂の底から必死に表現を求めてゐるものに。―― しかも僕はルノアルに恋々(れんれん)の情を持つてゐるやうに文芸上の作品にも優美なものを愛してゐる。「エピキユウルの園」を歩いたものは容易にその魅力を忘れることは出来ない。殊に僕等都会人はその点では誰よりも弱いのである。プロレタリア文芸の呼び声も勿論僕を動かさないのではない。が、それよりもこの問題は根本的に僕を動かすのである。純一無雑になることは誰にも恐らくは困難であらう。しかし兎に角外見上でも僕の知つてゐる作家たちの中にはこの境涯にゐる人もない訣ではない。僕はいつもかう云ふ人々に多少の羨望(せんばう)を感じてゐる。…… 僕は誰かの貼(は)つた貼り札によれば、所謂「芸術派」の一人になつてゐる。(かう云ふ名称の存在するのは、同時に又かう云ふ名称を生んだ或雰囲気(ふんゐき)の存在するのは世界中に日本だけであらう。)僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。況(いはん)や現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中(うち)の詩人を完成する為に作つてゐるのである。或は詩人兼ジヤアナリストを完成する為に作つてゐるのである。従つて「野性の呼び声」も僕には等閑に附することは出来ない。 或友人は森先生の詩歌に不満を洩らした僕の文章を読み、僕は感情的に森先生に刻薄(こくはく)であると云ふ非難を下した。僕は少くとも意識的には森先生に敵意などは持つてゐない。いや、寧(むし)ろ森先生に心服してゐる一人であらう。しかし僕の森先生にも羨望を感じてゐることは確かである。森先生は馬車馬のやうに正面だけ見てゐた作家ではない。しかも意力そのもののやうに一度も左顧右眄(さこうべん)したことはなかつた。「タイイス」の中のパフヌシユは神に祈らずに人の子だつたナザレの基督(キリスト)に祈つてゐる。僕のいつも森先生に近づき難い心もちを持つてゐるのは或はかう云ふパフヌシユに近い歎息を感じてゐる為であらう。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] 下一页 尾页