二
数時間の後、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな蟋蟀の声が、寝台を洩れる二人の寝息に、寂しい秋意を加へてゐた。しかしその間に金花の夢は、埃じみた寝台の帷から、屋根の上にある星月夜へ、煙のやうに高々と昇つて行つた。 * * * ――金花は紫檀の椅子に坐つて、卓の上に並んでゐる、さまざまな料理に箸をつけてゐた。燕の巣、鮫の鰭、蒸した卵、燻した鯉、豚の丸煮、海参の羹、――料理はいくら数へても、到底数へ尽されなかつた。しかもその食器が悉、べた一面に青い蓮華や金の鳳凰を描き立てた、立派な皿小鉢ばかりであつた。 彼女の椅子の後には、絳紗の帷を垂れた窓があつて、その又窓の外には川があるのか、静な水の音や櫂の音が、絶えず此処まで聞えて来た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れてゐる、秦淮らしい心もちがした。しかし彼女が今ゐる所は、確に天国の町にある、基督の家に違ひなかつた。 金花は時々箸を止めて、卓の周囲を眺めまはした。が、広い部屋の中には、竜の彫刻のある柱だの、大輪の菊の鉢植ゑだのが、料理の湯気に仄めいてゐる外は、一人も人影は見えなかつた。 それにも関らず卓の上には、食器が一つからになると、忽ち何処からか新しい料理が、暖な香気を漲らせて、彼女の眼の前へ運ばれて来た。と思ふと又箸をつけない内に、丸焼きの雉なぞが羽搏きをして紹興酒の瓶を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。 その内に金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子の後へ、歩み寄つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後を振り返つて見た。すると其処にはどう云ふ訳か、あると思つた窓がなくて、緞子の蒲団を敷いた紫檀の椅子に、見慣れない一人の外国人が、真鍮の水煙管を啣へながら、悠々と腰を下してゐた。 金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに来た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月のやうな光の環が、この外国人の頭の上、一尺ばかりの空に懸つてゐた。その時又金花の眼の前には、何だか湯気の立つ大皿が一つ、まるで卓から湧いたやうに、突然旨さうな料理を運んで来た。彼女はすぐに箸を挙げて、皿の中の珍味を挾まうとしたが、ふと彼女の後にゐる外国人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、 「あなたも此処へいらつしやいませんか。」と、遠慮がましい声をかけた。 「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜の内によくなるから。」 円光を頂いた外国人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。 「ではあなたは召上らないのでございますか。」 「私かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。耶蘇基督はまだ一度も、支那料理を食べた事はないのだよ。」 南京の基督はかう云つたと思ふと、徐に紫檀の椅子を離れて、呆気にとられた金花の頬へ、後から優しい接吻を与へた。 * * * 天国の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狭い部屋中にうすら寒く拡がり出した頃であつた。が、埃臭い帷を垂れた、小舸のやうな寝台の中には、さすがにまだ生暖い仄かな闇が残つてゐた。そのうす暗がりに浮んでゐる、半ば仰向いた金花の顔は、色もわからない古毛布に、円い括り顋を隠した儘、未に眠い眼を開かなかつた。しかし血色の悪い頬には、昨夜の汗にくつついたのか、べつたり油じみた髪が乱れて、心もち明いた唇の隙にも、糯米のやうに細い歯が、かすかに白々と覗いてゐた。 金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉の丸焼きや、耶蘇基督や、その外いろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよはせてゐた。が、その内に寝台の中が、だんだん明くなつて来ると、彼女の快い夢見心にも、傍若無人な現実が、昨夜不思議な外国人と一しよに、この籐の寝台へ上つた事が、はつきりと意識に踏みこんで来た。 「もしあの人に病気でも移したら、――」 金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝は再彼の顔を見るに堪へないやうな心もちがした。が、一度眼がさめた以上、なつかしい彼の日に焼けた顔を何時までも見ずにゐる事は、猶更彼女には堪へられなかつた。そこで暫くためらつた後、彼女は怯づ怯づ眼を開いて、今はもう明くなつた寝台の中を見まはした。しかし其処には思ひもよらず、毛布に蔽はれた彼女の外は、十字架の耶蘇に似た彼は勿論、人の影さへも見えなかつた。 「ではあれも夢だつたかしら。」 垢じみた毛布を刎ねのけるが早いか、金花は寝台の上に起き直つた。さうして両手に眼を擦つてから、重さうに下つた帷を掲げて、まだ渋い視線を部屋の中へ投げた。 部屋は冷かな朝の空気に、残酷な位歴々と、あらゆる物の輪廓を描いてゐた。古びた卓、火の消えたランプ、それから一脚は床に倒れ、一脚は壁に向つてゐる椅子、――すべてが昨夜の儘であつた。そればかりか現に卓の上には、西瓜の種が散らばつた中に、小さな真鍮の十字架さへ、鈍い光を放つてゐた。金花は眩い眼をしばたたいて、茫然とあたりを見まはしながら、暫くは取り乱した寝台の上に、寒さうな横坐りを改めなかつた。 「やつぱり夢ではなかつたのだ。」 金花はかう呟きながら、さまざまにあの外国人の不可解な行く方を思ひやつた。勿論考へるまでもなく、彼は彼女が眠つてゐる暇に、そつと部屋を抜け出して、帰つたかも知れないと云ふ気はあつた。しかしあれ程彼女を愛撫した彼が、一言も別れを惜まずに、行つてしまつたと云ふ事は、信じられないと云ふよりも、寧ろ信じるに忍びなかつた。その上彼女はあの怪しい外国人から、まだ約束の十弗の金さへ、貰ふ事を忘れてゐたのであつた。 「それとも本当に帰つたのかしら。」 彼女は重い胸を抱きながら、毛布の上に脱ぎ捨てた、黒繻子の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顔には見る見る内に、生き生きした血の色が拡がり始めた。それはペンキ塗りの戸の向うに、あの怪しい外国人の足音でも聞えた為であらうか。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移り香が、偶然恥しい昨夜の記憶を喚びさました為であらうか。いや、金花はこの瞬間、彼女の体に起つた奇蹟が、一夜の中に跡方もなく、悪性を極めた楊梅瘡を癒した事に気づいたのであつた。 「ではあの人が基督様だつたのだ。」 彼女は思はず襯衣の儘、転ぶやうに寝台を這ひ下りると、冷たい敷き石の上に跪いて、再生の主と言葉を交した、美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈祷を捧げ出した。……
三
翌年の春の或夜、宋金花を訪れた、若い日本の旅行家は再うす暗いランプの下に、彼女と卓を挾んでゐた。 「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」 その夜彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に真面目になつて、一夜南京に降つた基督が、彼女の病を癒したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。 その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。―― 「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と亜米利加人との混血児だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京の私窩子を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼な混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体この女の為に、蒙を啓いてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」 金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに燐寸を擦つて、匂の高い葉巻をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こんな窮した質問をした。 「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度も煩はないかい。」 「ええ、一度も。」 金花は西瓜の種を噛りながら、暗れ晴れと顔を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。
本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「秦淮の一夜」に負ふ所尠からず。附記して感謝の意を表す。
(大正九年六月)
●表記について
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