紅毛は、畑の柵によりかかりながら、頭をふつた。さうして、なれない日本語で云つた。 ――この名だけは、御気の毒ですが、人には教へられません。 ――はてな、すると、フランシス様が、云つてはならないとでも、仰有つたのでございますか。 ――いいえ、さうではありません。 ――では、一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依して居りますのですから。 牛商人は、得意さうに自分の胸を指さした。見ると、成る程、小さな真鍮の十字架が、日に輝きながら、頸にかかつてゐる。すると、それが眩しかつたのか、伊留満はちよいと顔をしかめて、下を見たが、すぐに又、前よりも、人なつこい調子で、冗談ともほんとうともつかずに、こんな事を云つた。 ――それでも、いけませんよ。これは、私の国の掟で、人に話してはならない事になつてゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きつとあたります。あたつたら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。 牛商人は、伊留満が、自分をからかつてゐるとでも思つたのであらう。彼は、日にやけた顔に、微笑を浮べながら、わざと大仰に、小首を傾けた。 ――何でございますかな。どうも、殺急には、わかり兼ねますが。 ――なに今日でなくつても、いいのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて来ても、かまひません。あたつたら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀の酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利の絵をあげますか。 牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。 ――では、あたらなかつたら、どう致しませう。 伊留満は帽子をあみだに、かぶり直しながら、手を振つて、笑つた。牛商人が、聊、意外に思つた位、鋭い、鴉のやうな声で、笑つたのである。 ――あたらなかつたら、私があなたに、何かもらひませう。賭です。あたるか、あたらないかの賭です。あたつたら、これをみんな、あなたにあげますから。 かう云ふ中に紅毛は、何時か又、人なつこい声に、帰つてゐた。 ――よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有るものを、差上げませう。 ――何でもくれますか、その牛でも。 ――これでよろしければ、今でも差上げます。 牛商人は、笑ひながら、黄牛の額を、撫でた。彼はどこまでも、これを、人の好い伊留満の、冗談だと思つてゐるらしい。 ――その代り、私が勝つたら、その花のさく草を頂きますよ。 ――よろしい。よろしい。では、確に約束しましたね。 ――確に、御約定致しました。御主エス・クリストの御名にお誓ひ申しまして。 伊留満は、これを聞くと、小さな眼を輝かせて、二三度、満足さうに、鼻を鳴らした。それから、左手を腰にあてて、少し反り身になりながら、右手で紫の花にさはつて見て、 ――では、あたらなかつたら――あなたの体と魂とを、貰ひますよ。 かう云つて、紅毛は、大きく右の手をまはしながら、帽子をぬいだ。もぢやもぢやした髪の毛の中には、山羊のやうな角が二本、はえてゐる。牛商人は、思はず顔の色を変へて、持つてゐた笠を、地に落した。日のかげつたせゐであらう、畑の花や葉が、一時に、あざやかな光を失つた。牛さへ、何におびえたのか、角を低くしながら、地鳴りのやうな声で、唸つてゐる。…… ――私にした約束でも、約束は、約束ですよ。私が名を云へないものを指して、あなたは、誓つたでせう。忘れてはいけません。期限は、三日ですから。では、さやうなら。 人を莫迦にしたやうな、慇懃な調子で、かう云ひながら、悪魔は、わざと、牛商人に丁寧なおじぎをした。
* * *
牛商人は、うつかり、悪魔の手にのつたのを、後悔した。このままで行けば、結局、あの「ぢやぼ」につかまつて、体も魂も、「亡ぶることなき猛火」に、焼かれなければ、ならない。それでは、今までの宗旨をすてて、波宇寸低茂をうけた甲斐が、なくなつてしまふ。 が、御主耶蘇基督の名で、誓つた以上、一度した約束は、破る事が出来ない。勿論、フランシス上人でも、ゐたのなら、またどうにかなる所だが、生憎、それも今は留守である。そこで、彼は、三日の間、夜の眼もねずに、悪魔の巧みの裏をかく手だてを考へた。それには、どうしても、あの植物の名を、知るより外に、仕方がない。しかし、フランシス上人でさへ、知らない名を、どこに知つてゐるものが、ゐるであらう。…… 牛商人は、とうとう、約束の期限の切れる晩に、又あの黄牛をひつぱつて、そつと、伊留満の住んでゐる家の側へ、忍んで行つた。家は畑とならんで、往来に向つてゐる。行つて見ると、もう伊留満も寝しづまつたと見えて、窓からもる灯さへない。丁度、月はあるが、ぼんやりと曇つた夜で、ひつそりした畑のそこここには、あの紫の花が、心ぼそくうす暗い中に、ほのめいてゐる。元来、牛商人は、覚束ないながら、一策を思ひついて、やつとここまで、忍んで来たのであるが、このしんとした景色を見ると、何となく恐しくなつて、いつそ、このまま帰つてしまはうかと云ふ気にもなつた。殊に、あの戸の後では、山羊のやうな角のある先生が、因辺留濃の夢でも見てゐるのだと思ふと、折角、はりつめた勇気も、意気地なく、くじけてしまふ。が、体と魂とを、「ぢやぼ」の手に、渡す事を思へば、勿論、弱い音なぞを吐いてゐるべき場合ではない。 そこで、牛商人は、毘留善麻利耶の加護を願ひながら、思ひ切つて、予、もくろんで置いた計画を、実行した。計画と云ふのは、別でもない。――ひいて来た黄牛の綱を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追ひこんでやつたのである。 牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上りながら、柵を破つて、畑をふみ荒らした。角を家の板目につきかけた事も、一度や二度ではない。その上、蹄の音と、鳴く声とは、うすい夜の霧をうごかして、ものものしく、四方に響き渡つた。すると、窓の戸をあけて、顔を出したものがある。暗いので、顔はわからないが、伊留満に化けた悪魔には、相違ない。気のせゐか、頭の角は、夜目ながら、はつきり見えた。 ――この畜生、何だつて、己の煙草畑を荒らすのだ。 悪魔は、手をふりながら、睡むさうな声で、かう怒鳴つた。寝入りばなの邪魔をされたのが、よくよく癪にさはつたらしい。 が、畑の後へかくれて、容子を窺つてゐた牛商人の耳へは、悪魔のこの語が、泥烏須の声のやうに、響いた。…… ――この畜生、何だつて、己の煙草畑を荒らすのだ。
* * *
それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、円満に完つてゐる。即、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてて、悪魔に鼻をあかさせた。さうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。 が、自分は、昔からこの伝説に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかつたが、その代に、煙草は、洽く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜が、一面堕落を伴つてゐるやうに、悪魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。 それから序に、悪魔のなり行きを、簡単に、書いて置かう。彼は、フランシス上人が、帰つて来ると共に、神聖なペンタグラマの威力によつて、とうとう、その土地から、逐払はれた。が、その後も、やはり伊留満のなりをして、方々をさまよつて、歩いたものらしい。或記録によると、彼は、南蛮寺の建立前後、京都にも、屡々出没したさうである。松永弾正を飜弄した例の果心居士と云ふ男は、この悪魔だと云ふ説もあるが、これはラフカデイオ・ヘルン先生が書いてゐるから、ここには、御免を蒙る事にしよう。それから、豊臣徳川両氏の外教禁遏に会つて、始の中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまひには、完く日本にゐなくなつた。――記録は、大体ここまでしか、悪魔の消息を語つてゐない。唯、明治以後、再、渡来した彼の動静を知る事が出来ないのは、返へす返へすも、遺憾である。……
(大正五年十月)
●表記について
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