現代日本文学大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
一
元治元年十一月二十六日、京都守護の任に当つてゐた、加州家の同勢は、折からの長州征伐に加はる為、国家老の長大隅守を大将にして、大阪の安治川口から、船を出した。 小頭は、佃久太夫、山岸三十郎の二人で、佃組の船には白幟、山岸組の船には赤幟が立つてゐる。五百石積の金毘羅船が、皆それぞれ、紅白の幟を風にひるがへして、川口を海へのり出した時の景色は、如何にも勇ましいものだつたさうである。 しかし、その船へ乗組んでゐる連中は、中々勇ましがつてゐる所の騒ぎではない。第一どの船にも、一艘に、主従三十四人、船頭四人、併せて三十八人づつ乗組んでゐる。だから、船の中は、皆、身動きも碌に出来ない程狭い。それから又、胴の間には、沢庵漬を鰌桶へつめたのが、足のふみ所もない位、ならべてある。慣れない内は、その臭気を嗅ぐと、誰でもすぐに、吐き気を催した。最後に旧暦の十一月下旬だから、海上を吹いて来る風が、まるで身を切るやうに冷い。殊に日が暮れてからは、摩耶颪なり水の上なり、流石に北国生れの若侍も、多くは歯の根が合はないと云ふ始末であつた。 その上、船の中には、虱が沢山ゐた。それも、着物の縫目にかくれてゐるなどと云ふ、生やさしい虱ではない。帆にもたかつてゐる。幟にもたかつてゐる。檣にもたかつてゐる。錨にもたかつてゐる。少し誇張して云へば、人間を乗せる為の船だか、虱を乗せる為の船だか、判然しない位である。勿論その位だから、着物には、何十匹となくたかつてゐる。さうして、それが人肌にさへさはれば、すぐに、いい気になつて、ちくちくやる。それも、五匹や十匹なら、どうにでも、せいとうのしやうがあるが、前にも云つた通り、白胡麻をふり撒いたやうに、沢山ゐるのだから、とても、とりつくすなどと云ふ事が出来る筈のものではない。だから、佃組と山岸組とを問はず、船中にゐる侍と云ふ侍の体は、悉く虱に食はれた痕で、まるで麻疹[#「麻疹」は底本では「痳疹」]にでも罹つたやうに、胸と云はず腹と云はず、一面に赤く腫れ上がつてゐた。 しかし、いくら手のつけやうがないと云つても、そのまま打遣つて置くわけには、猶行かない。そこで、船中の連中は、暇さへあれば、虱狩をやつた。上は家老から下は草履取まで、悉く裸になつて、随所にゐる虱をてんでに茶呑茶碗の中へ、取つては入れ、取つては入れするのである。大きな帆に内海の冬の日をうけた金毘羅船の中で、三十何人かの侍が、湯もじ一つに茶呑茶碗を持つて、帆綱の下、錨の陰と、一生懸命に虱ばかり、さがして歩いた時の事を想像すると、今日では誰しも滑稽だと云ふ感じが先に立つが、「必要」の前に、一切の事が真面目になるのは、維新以前と雖も、今と別に変りはない。――そこで、一船の裸侍は、それ自身が大きな虱のやうに、寒いのを我慢して、毎日根気よく、そこここと歩きながら、丹念に板の間の虱ばかりつぶしてゐた。
二
所が佃組の船に、妙な男が一人ゐた。これは森権之進と云ふ中老のつむじ曲りで、身分は七十俵五人扶持の御徒士である。この男だけは不思議に、虱をとらない。とらないから、勿論、何処と云はず、たかつてゐる。髷ぶしへのぼつてゐる奴があるかと思ふと、袴腰のふちを渡つてゐる奴がある。それでも別段、気にかける容子がない。 ではこの男だけ、虱に食はれないのかと云ふと、又さうでもない。やはり外の連中のやうに、体中金銭斑々とでも形容したらよからうと思ふ程、所まだらに赤くなつてゐる。その上、当人がそれを掻いてゐる所を見ると、痒くない訳でもないらしい。が、痒くつても何でも、一向平気で、すましてゐる。 すましてゐるだけなら、まだいいが、外の連中が、せつせと虱狩をしてゐるのを見ると、必わきからこんな事を云ふ。―― 「とるなら、殺し召さるな。殺さずに茶碗へ入れて置けば、わしが貰うて進ぜよう。」 「貰うて、どうさつしやる?」同役の一人が、呆れた顔をして、かう尋ねた。 「貰うてか。貰へばわしが飼うておくまでぢや。」 森は、恬然として答へるのである。 「では殺さずにとつて進ぜよう。」 同役は、冗談だと思つたから、二三人の仲間と一しよに半日がかりで、虱を生きたまま、茶呑茶碗へ二三杯とりためた。この男の腹では、かうして置いて「さあ飼へ」と云つたら、いくら依怙地な森でも、閉口するだらうと思つたからである。 すると、こつちからはまだ何とも云はない内に、森が自分の方から声をかけた。 「とれたかな。とれたらわしが貰うて進ぜよう。」 同役の連中は、皆、驚いた。 「ではここへ入れてくれさつしやい。」 森は平然として、着物の襟をくつろげた。 「痩我慢をして、あとでお困りなさるな。」 同役がかう云つたが、当人は耳にもかけない。そこで一人づつ、持つてゐる茶碗を倒にして、米屋が一合枡で米をはかるやうに、ぞろぞろ虱をその襟元へあけてやると、森は、大事さうに外へこぼれた奴を拾ひながら、 「有難い。これで今夜から暖に眠られるて。」といふ独語を云ひながら、にやにや笑つてゐる。 「虱がゐると、暖うこざるかな。」 呆気にとられてゐた同役は、皆互に顔を見合せながら、誰に尋ねるともなく、かう云つた。すると、森は、虱を入れた後の襟を、丁寧に直しながら、一応、皆の顔を莫迦にしたやうに見まはして、それからこんな事を云ひ出した。 「各々は皆、この頃の寒さで、風をひかれるがな、この権之進はどうぢや。嚔もせぬ。洟もたらさぬ。まして、熱が出たの、手足が冷えるのと云うた覚は、嘗てあるまい。各々はこれを、誰のおかげぢやと思はつしやる。――みんな、この虱のおかげぢや。」 何でも森の説によれば、体に虱がゐると、必ちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。…… 「成程、そんなものでこざるかな。」同役の二三人は、森の虱論を聞いて、感心したやうに、かう云つた。
三
それから、その船の中では、森の真似をして、虱を飼ふ連中が出来て来た。この連中も、暇さへあれば、茶呑茶碗を持つて虱を追ひかけてゐる事は、外の仲間と別に変りがない。唯、ちがふのは、その取つた虱を、一々刻銘に懐に入れて、大事に飼つて置く事だけである。 しかし、何処の国、何時の世でも、Prcurseur の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にの説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論に反対する、Pharisien が大勢ゐた。 中でも筆頭第一の Pharisien は井上典蔵と云ふ御徒士である。これも亦妙な男で、虱をとると必ず皆食つてしまふ。夕がた飯をすませると、茶呑茶碗を前に置いて、うまさうに何かぷつりぷつり噛んでんでゐるから、側へよつて茶碗の中を覗いて見ると、それが皆、とりためた虱である。「どんな味でござる?」と訊くと、「左様さ。油臭い、焼米のやうな味でござらう」と云ふ。虱を口でつぶす者は、何処にでもゐるが、この男はさうではない。全く点心を食ふ気で、毎日虱を食つてゐる。――これが先、第一に森に反対した。 井上のやうに、虱を食ふ人間は、外に一人もゐないが、井上の反対説に加担をする者は可成ゐる。この連中の云ひ分によると、虱がゐたからと云つて、人間の体は決して温まるものではない。それのみならず、孝経にも、身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なりとある。自、好んでその身体を、虱如きに食はせるのは、不孝も亦甚しい。だから、どうしても虱狩るべし。飼ふべからずと云ふのである。…… かう云ふ行きがかりで、森の仲間と井上の仲間との間には、時折口論が持上がる。それも、唯、口論位ですんでゐた内は、差支へない。が、とうとう、しまひには、それが素で、思ひもよらない刃傷沙汰さへ、始まるやうな事になつた。 それと云ふのは、或日、森が、又大事に飼はうと思つて、人から貰つた虱を茶碗へ入れてとつて置くと、油断を見すまして井上が、何時の間にかそれを食つてしまつた。森が来て見ると、もう一匹もない。そこで、この Prcurseur の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にが腹を立てた。 「何故、人の虱を食はしつた。」 張肘をしながら、眼の色を変へて、かうつめよると、井上は、 「自体、虱を飼ふと云ふのが、たはけぢやての。」と、空嘯いて、まるで取合ふけしきがない。 「食ふ方がたはけぢや。」 森は、躍起となつて、板の間をたたきながら、 「これ、この船中に、一人として虱の恩を蒙らぬ者がござるか。その虱を取つて食ふなどとは、恩を仇でかへすのも同前ぢや。」 「身共は、虱の恩を着た覚えなどは、毛頭ござらぬ。」 「いや、たとひ恩を着ぬにもせよ、妄に生類の命を断つなどとは、言語道断でござらう。」 二言三言云ひつのつたと思ふと、森がいきなり眼の色を変へて、蝦鞘巻の柄に手をかけた。勿論、井上も負けてはゐない。すぐに、朱鞘の長物をひきよせて、立上る。――裸で虱をとつてゐた連中が、慌てて両人を取押へなかつたなら、或はどちらか一方の命にも関る所であつた。 この騒ぎを実見した人の話によると、二人は、一同に抱きすくめられながら、それでもまだ口角に泡を飛ばせて、「虱。虱。」と叫んでゐたさうである。
四
かう云ふ具合に、船中の侍たちが、虱の為に刃傷沙汰を引起してゐる間でも、五百石積の金毘羅船だけは、まるでそんな事には頓着しないやうに、紅白の幟を寒風にひるがへしながら、遙々として長州征伐の途に上るべく、雪もよひの空の下を、西へ西へと走つて行つた。
(大正五年三月)
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