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西方の人(さいほうのひと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 8:52:39 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     16[#「16」は縦中横] 奇蹟

 クリストは時々奇蹟を行つた。が、それは彼自身には一つの比喩を作るよりも容易だつた。彼はその為にも奇蹟に対する嫌悪の情を抱いてゐた。その為にも――キリストの使命を感じてゐたのは彼の道を教へることだつた。彼の奇蹟を行ふことは後代にルツソオのたけり立つた通り、彼の道を教へるのには不便を与へるのに違ひなかつた。しかし彼の「小羊たち」はいつも奇蹟を望んでゐた。クリストも亦三度に一度はこの願に従はずにはゐられなかつた。彼の人間的な、余りに人間的な性格はかう云ふ一面にもあらはれてゐる。が、クリストは奇蹟を行ふ度に必ず責任を回避してゐた。
「お前の信仰はお前をいやした。」
 しかしそれは同時に又科学的真理にも違ひなかつた。クリストは又或時はやむを得ず奇蹟を行つた為に、――或長病ながわづらひに苦しんだ女の彼のころもにさはつた為に彼の力の脱けるのを感じた。彼の奇蹟を行ふことにいつも多少ためらつたのはかう云ふ実感にも明らかである。クリストは、後代のクリスト教徒は勿論、彼の十二人の弟子たちよりもはるかに鋭い理智主義者だつた。

     17[#「17」は縦中横] 背徳者

 クリストの母、美しいマリアはクリストには必しも母ではなかつた。彼の最も愛したものは彼の道に従ふものだつた。クリストは又情熱に燃え立つたまま、大勢の人々の集つた前に大胆だいたんにもかう云ふ彼の気もちを言ひ放すことさへはばからなかつた。マリアは定めし戸の外に彼の言葉を聞きながら、悄然と立つてゐたことであらう。我々は我々自身の中にマリアの苦しみを感じてゐる。たとひ我々自身の中にクリストの情熱を感じてゐるとしても、――しかしクリスト自身も亦時々はマリアを憐んだであらう。かがやかしい天国の門を見ずにありのままのイエルサレムを眺めた時には。……

     18[#「18」は縦中横] クリスト教

 クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才の為に人生さへ笑つて投げ棄ててしまつた。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を発見したのは当り前である。彼の教へた所によれば、「ソロモンの栄華の極みの時にだにその装ひ」は風に吹かれる一本の百合の花にかなかつた。彼の道はただ詩的に、――あすの日を思ひわづらはずに生活しろと云ふことに存してゐる。何の為に?――それは勿論ユダヤ人たちの天国へはひる為に違ひなかつた。しかしあらゆる天国も流転るてんせずにはゐることは出来ない。石鹸の匂のする薔薇の花に満ちたクリスト教の天国はいつか空中に消えてしまつた。が、我々はその代りに幾つかの天国を造り出してゐる。クリストは我々に天国に対する※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)しやうけいを呼び起した第一人だつた。更に又彼の逆説は後代に無数の神学者や神秘主義者を生じてゐる。彼等の議論はクリストを茫然とさせずにはかなかつたであらう。しかし彼等の或者はクリストよりも更にクリスト教的である。クリストは兎に角我々に現世の向うにあるものを指し示した。我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭らつぱの声を感じるであらう。同時に又いつもクリストの中に我々をさいなんでやまないものを、――近代のやつと表規した世界苦を感じずにはゐられないであらう。

     19[#「19」は縦中横] ジヤアナリスト

 我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出来ない。少くとも我々に迫つて来るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事実を直覚してゐた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人――彼の教へは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。「善いサマリア人」や「放蕩ほうたう息子の帰宅」はかう云ふ彼の詩の傑作である。抽象的な言葉ばかり使つてゐる後代のクリスト教的ジヤアナリスト――牧師たちは一度もこのクリストのジヤアナリズムの効果を考へなかつたのであらう。彼は彼等に比べれば勿論、後代のクリストたちに比べても、決して遜色のあるジヤアナリストではない。彼のジヤアナリズムはその為に西方さいほうの古典と肩を並べてゐる。彼は実に古い炎に新しいまきを加へるジヤアナリストだつた。

     20[#「20」は縦中横] エホバ

 クリストの度たび説いたのは勿論天上の神である。「我々を造つたものは神ではない、神こそ我々の造つたものである。」――かう云ふ唯物主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであらう。それは我々の腰に垂れた鎖をりはなす言葉である。が、同時に又我々の腰に新らしい鎖を加へる言葉である。のみならずこの新らしい鎖も古い鎖よりも強いかも知れない。神は大きい雲の中から細かい神経系統の中に下り出した。しかもあらゆる名のもとにやはりそこに位してゐる。クリストは勿論目のあたりに度たびこの神を見たであらう。(神に会はなかつたクリストの悪魔に会つたことは考へられない。)彼の神も亦あらゆる神のやうに社会的色彩の強いものである。しかしかく我我と共に生まれた「主なる神」だつたのに違ひない。クリストはこの神の為に――詩的正義の為に戦ひつづけた。あらゆる彼の逆説はそこにみなもとを発してゐる。後代の神学はそれ等の逆説を最も詩の外に解釈しようとした。それから、――誰も読んだことのない、退屈な無数の本を残した。ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神学」の神を殺す為に彼の剣をふるつてゐる。しかし「主なる神」は死ななかつた。同時に又クリストも死ななかつた。神はコンクリイトの壁に苔の生える限り、いつも我々の上に臨んでゐるであらう。ダンテはフランチエスカを地獄におとした。が、いつかこの女人を炎の中から救つてゐた。一度でも悔い改めたものは――美しい一瞬間を持つたものはいつも「限りなき命」に入つてゐる。感傷主義の神と呼ばれ易いのも恐らくはかう云ふ事実の為であらう。

     21[#「21」は縦中横] 故郷

「予言者は故郷に入れられず。」――それは或はクリストには第一の十字架だつたかも知れない。彼はつひには全ユダヤを故郷としなければならなかつた。汽車や自動車や汽船や飛行機は今日ではあらゆるクリストに世界中を故郷にしてゐる。勿論又あらゆるクリストは故郷に入れられなかつたのに違ひない。現にポオを入れたものはアメリカではないフランスだつた。

     22[#「22」は縦中横] 詩人

 クリストは一本の百合の花を「ソロモンの栄華の極みの時」よりも更に美しいと感じてゐる。(尤も彼の弟子たちの中にも彼ほど百合の花の美しさに恍惚としたものはなかつたであらう。)しかし弟子たちと話し合ふ時には会話上の礼節を破つても、野蛮なことを言ふのをはばからなかつた。――「およそ外より人に入るものの人を汚し能はざる事を知らざる。そは心に入らず、腹に入りてかはやおとす。すなはちくらふ所のものきよまれり。」…

     23[#「23」は縦中横] ラザロ

 クリストはラザロの死を聞いた時、今までにない涙を流した。今までにない――或は今まで見せずにゐた涙を。ラザロの死から生き返つたのはかう云ふ彼の感傷主義の為である。母のマリアを顧なかつた彼はなぜラザロの姉妹たち、――マルタやマリアの前に涙を流したのであらう? この矛盾を理解するものはクリストの、――或はあらゆるクリストの天才的利已主義を理解するものである。

     24[#「24」は縦中横] カナの饗宴

 クリストは女人を愛したものの、女人と交はることを顧みなかつた。それはモハメツトの四人の女人たちと交ることを許したのと同じことである。彼等はいづれも一時代を、――或は社会を越えられなかつた。しかしそこには何ものよりも自由を愛する彼の心も動いてゐたことは確かである。後代の超人は犬たちの中に仮面をかぶることを必要とした。しかしクリストは仮面をかぶることも不自由のうちに数へてゐた。所謂いはゆる炉辺ろへんの幸福」の※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそは勿論彼には明らかだつたであらう。アメリカのクリスト、――ホヰツトマンはやはりこの自由を選んだ一人である。我々は彼の詩の中に度たびクリストを感ずるであらう。クリストは未だに大笑ひをしたまま、踊り子や花束や楽器に満ちたカナの饗宴きやうえんを見おろしてゐる。しかし勿論その代りにそこには彼のあがなはなければならぬ多少の寂しさはあつたことであらう。

     25[#「25」は縦中横] 天に近い山の上の問答

 クリストは高い山の上に彼の前に生まれたクリストたち――モオゼやエリヤと話をした。それは悪魔と戦つたのよりも更に意味の深い出来事であらう。彼はその何日か前に彼の弟子たちにイエルサレムへ行き、十字架にかかることを予言してゐた。彼のモオゼやエリヤと会つたのは彼の或精神的危機にたたずんでゐた証拠である。彼の顔は「日の如く輝きそのころもは白く光」つたのも必しも二人のクリストたちの彼の前に下つた為ばかりではない。彼は彼の一生の中でも最もこの時は厳粛だつた。彼の伝記作者は彼等の間の問答を記録に残してゐない。しかし彼の投げつけた問は「我等は如何に生くべき」である。クリストの一生は短かつたであらう。が、彼はこの時に、――やつと三十歳に及んだ時に彼の一生の総決算をしなければならない苦しみをめてゐた。モオゼはナポレオンも言つたやうに戦略に長じた将軍である。エリヤも亦クリストよりも政治的天才に富んでゐたであらう。のみならず今日は昨日ではない。今日ではもう紅海の波も壁のやうに立たなければ、炎の車も天上から来ないのである。クリストは彼等と問答しながら、いよいよ彼の見苦しい死の近づいたのを感じずにはゐられなかつた。天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらのそびえてゐるだけである。しかし深い谷の底には柘榴ざくろ無花果いちじゆくも匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐しさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気ひとけのない天に向つてゐる。彼の誕生を告げた星は――或は彼を生んだ聖霊は彼に平和を与へようとしない。「山を下る時イエス彼等(ペテロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ)に命じて人の子の死よりよみがへるまでは汝等の見し事を人に告ぐべからずと言へり。」――天に近い山の上にクリストの彼に先立つた「大いなる死者たち」と話をしたのは実に彼の日記にだけそつと残したいと思ふことだつた。

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