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西郷隆盛(さいごうたかもり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 8:51:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


こまかい事実の相違を挙げていては、際限がない。だから一番大きな誤伝を話しましょう。それは西郷隆盛が、城山しろやまたたかいでは死ななかったと云う事です。」
 これを聞くと本間さんは、急に笑いがこみ上げて来た。そこでその笑をまぎらせるために新しいM・C・Cへ火をつけながら、いて真面目まじめな声を出して、「そうですか」と調子を合せた。もうその先をきただすまでもない。あらゆる正確な史料が認めている西郷隆盛の城山戦死を、無造作に誤伝の中へ数えようとする――それだけで、この老人の所謂いわゆる事実も、ほぼ正体が分っている。成程これは気違いでも何でもない。ただ、義経よしつね鉄木真てむじんとを同一人にしたり、秀吉を御落胤ごらくいんにしたりする、無邪気な田舎翁でんしゃおうの一人だったのである。こう思った本間さんは、可笑おかしさと腹立たしさと、それから一種の失望とを同時に心の中で感じながら、この上は出来るだけ早く、老人との問答を切り上げようと決心した。
「しかもあの時、城山で死ななかったばかりではない。西郷隆盛は今日こんにちまでも生きています。」
 老紳士はこう云って、むしろ昂然と本間さんを一瞥いちべつした。本間さんがこれにも、「ははあ」と云う気のない返事で応じた事は、勿論である。すると相手は、嘲るような微笑をちらりと唇頭しんとうに浮べながら、今度は静な口ぶりで、わざとらしく問いかけた。
「君は僕の云う事を信ぜられない。いや弁解しなくっても、信ぜられないと云う事はわかっている。しかし――しかしですね。何故君は西郷隆盛が、今日こんにちまで生きていると云う事を疑われるのですか。」
「あなたは御自分でも西南戦争に興味を御持ちになって、事実の穿鑿せんさくをなすったそうですが、それならこんな事は、恐らく私から申上げるまでもないでしょう。が、そう御尋ねになる以上は、私も知っているだけの事は、申上げたいと思います。」
 本間さんは先方の悪く落着いた態度が忌々いまいましくなったのと、それから一刀両断に早くこの喜劇の結末をつけたいのとで、大人気おとなげないと思いながら、こう云う前置きをして置いて、口早やに城山戦死説を弁じ出した。僕はそれを今、詳しくここへ書く必要はない。ただ、本間さんの議論が、いつもの通り引証の正確な、いかにも諭理の徹底している、決定的なものだったと云う事を書きさえすれば、それでもう十分である。が、瀬戸物のパイプをくわえたまま、煙を吹き吹き、その議論に耳を傾けていた老紳士は、一向いっこう辟易へきえきしたらしい景色けしきを現さない。鉄縁の鼻眼鏡のうしろには、不相変あいかわらず小さな眼が、柔らかな光をたたえながら、アイロニカルな微笑を浮べている。その眼がまた、妙に本間さんの論鋒ろんぽうを鈍らせた。
成程なるほど、ある仮定の上に立って云えば、君の説は正しいでしょう。」
 本間さんの議論が一段落を告げると、老人は悠然とこう云った。
「そうしてその仮定と云うのは、今君が挙げた加治木常樹かちきつねき城山籠城調査筆記とか、市来四郎いちきしろう日記とか云うものの記事を、間違のない事実だとする事です。だからそう云う史料は始めから否定している僕にとっては、折角せっかくの君の名論も、徹頭徹尾ノンセンスと云うよりほかはない。まあ待ち給え。それは君はそう云う史料の正確な事を、いろいろの方面から弁護する事が出来るでしょう。しかし僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか。」
 本間さんは、いささか煙に捲かれて、ちょいと返事に躊躇した。
「それは西郷隆盛が僕と一しょに、今この汽車に乗っていると云う事です。」
 老紳士はほとんど厳粛に近い調子で、のしかかるように云い切った。日頃から物に騒がない本間さんが、流石さすがに愕然としたのはこの時である。が、理性は一度おびやかされても、このくらいな事でその権威を失墜しはしない。思わず、M・C・Cの手を口からはなした本間さんは、またその煙をゆっくり吸いかえしながら、怪しいと云う眼つきをして、無言のまま、相手のつんと高い鼻のあたりを眺めた。
「こう云う事実に比べたら、君の史料の如きは何ですか。すべてが一片の故紙こしに過ぎなくなってしまうでしょう。西郷隆盛は城山で死ななかった。その証拠には、今この上り急行列車の一等室に乗り合せている。このくらい確かな事実はありますまい。それとも、やはり君は生きている人間より、紙に書いた文字の方を信頼しますか。」
「さあ――生きていると云っても、私が見たのでなければ、信じられません。」
「見たのでなければ?」
 老紳士は傲然ごうぜんとした調子で、本間さんのことばを繰返した。そうしておもむろにパイプの灰をはたき出した。
「そうです。見たのでなければ。」
 本間さんはまた勢いを盛返して、わざと冷かに前の疑問をつきつけた。が、老人にとっては、この疑問も、格別、重大な効果を与えなかったらしい。彼はそれを聞くと依然として傲慢な態度を持しながら、ことさらに肩をそびやかせて見せた。
「同じ汽車に乗っているのだから、君さえ見ようと云えば、今でも見られます。もっとも南洲なんしゅう先生はもうねむってしまったかも知れないが、なにこの一つ前の一等室だから、無駄足をしても大した損ではない。」
 老紳士はこう云うと、瀬戸物のパイプをポケットへしまいながら、眼で本間さんに「来給え」と云う合図あいずをして、大儀そうに立ち上った。こうなっては、本間さんもとにかく一しょに、立たざるを得ない。そこでM・C・Cをくわえたまま、両手をズボンのポケットに入れて、不承不承ふしょうぶしょうに席を離れた。そうして蹌踉そうろうたる老紳士のうしろから、二列に並んでいるテエブルの間を、大股に戸口の方へ歩いて行った。あとにはただ、白葡萄酒のコップとウイスキイのコップとが、白いテエブル・クロオスの上へ、うすい半透明な影を落して、列車を襲いかかる雨の音の中に、寂しくその影をふるわせている。

       ―――――――――――――――――――――――――

 それから十分ばかりたったあとの事である。白葡萄酒のコップとウイスキイのコップとは、再び無愛想なウェエタアの手で、琥珀色こはくいろの液体がその中にみたされた。いや、そればかりではない。二つのコップを囲んでは、鼻眼鏡をかけた老紳士と、大学の制服を着た本間ほんまさんとが、また前のように腰を下している。その一つ向うのテエブルには、さっき二人と入れちがいにはいって来た、着流しの肥った男と、芸者らしい女とが、これは海老えびのフライか何かをつっついてでもいるらしい。なめらかな上方弁かみがたべんの会話が、纏綿てんめんとして進行する間に、かちゃかちゃ云うフォオクの音が、しきりなく耳にはいって来た。
 が、幸い本間さんには、少しもそれが気にならない。何故かと云うと、本間さんの頭には、今見て来た驚くべき光景が、一ぱいになって拡がっている。一等室の鶯茶うぐいすちゃがかった腰掛と、同じ色の窓帷カアテンと、そうしてその間に居睡いねむりをしている、山のような白頭の肥大漢と、――ああその堂々たる相貌に、南洲先生の風骨を認めたのは果して自分の見ちがいであったろうか。あすこの電燈は、気のせいか、ここよりも明くない。が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。そうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れている西郷隆盛の顔であった。……
「どうですね。これでもまだ、君は城山戦死説を主張しますか。」
 老紳士は赤くなった顔に、晴々はればれとした微笑を浮べて、本間さんの答を促した。
「…………」
 本間さんは当惑した。自分はどちらを信ずればよいのであろう。万人に正確だと認められている無数の史料か、あるいは今見て来た魁偉かいいな老紳士か。前者を疑うのが自分の頭を疑うのなら、後者を疑うのは自分の眼を疑うのである。本間さんが当惑したのは、少しも偶然ではない。
「君は今現に、南洲先生をのあたりに見ながら、しかもなお史料を信じたがっている。」
 老紳士はウイスキイの杯を取り上げながら、講義でもするような調子でことばを次いだ。
「しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見あてになりそうで、実ははなはだ当にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこのかんの消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。実際我々には目前の事さえわからない。」
 本間さんは実を云うと、そんな事は少しも知らなかった。が、黙っているうちに、老紳士の方で知っているものときめてしまったらしい。
「そこで城山戦死説だが、あの記録にしても、疑いをはさむ余地は沢山ある。成程西郷隆盛が明治十年九月二十四日に、城山の戦で、死んだと云う事だけはどの史料も一致していましょう。しかしそれはただ、西郷隆盛と信ぜられる人間が、死んだと云うのにすぎないのです。その人間が実際西郷隆盛かどうかは、おのずからまた問題が違って来る。ましてその首や首のない屍体したいを発見した事実になると、さっき君が云った通り、異説も決して少くない。そこも疑えば、疑える筈です。一方そう云う疑いがある所へ、君は今この汽車の中で西郷隆盛――と云いたくなければ、少くとも西郷隆盛に酷似こくじしている人間にった。それでも君には史料なるものの方が信ぜられますか。」
「しかしですね。西郷隆盛の屍体したいは確かにあったのでしょう。そうすると――」
「似ている人間は、天下にいくらもいます。右腕みぎうでに古い刀創かたなきずがあるとか何とか云うのも一人に限った事ではない。君は狄青てきせい濃智高のんちこうしかばねを検した話を知っていますか。」
 本間さんは今度は正直に知らないと白状した。実はさっきから、相手の妙な論理と、いろいろな事をよく知っているのとに、悩まされて、追々この鼻眼鏡の前に一種の敬意に似たものを感じかかっていたのである。老紳士はこの間にポケットから、また例の瀬戸物のパイプを出して、ゆっくり埃及エジプトの煙をくゆらせながら、
「狄青が五十里を追うて、大理だいりった時、敵の屍体を見ると、中に金竜きんりゅうを着ているものがある。衆は皆これを智高だと云ったが、狄青は独り聞かなかった。『いずくんぞそのいつわりにあらざるを知らんや。むしろ智高を失うとも、敢て朝廷をいて功をむさぼらじ』これは道徳的に立派なばかりではない。真理に対する態度としても、望ましいことばでしょう。ところが遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これほど周密しゅうみつな思慮を欠いていた。そこで歴史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換えてしまったのです。」
 いよいよどうにも口が出せなくなった本間さんは、そこで苦しまぎれに、子供らしい最後の反駁はんばくを試みた。
「しかし、そんなによく似ている人間がいるでしょうか。」
 すると老紳士は、どう云う訳か、急に瀬戸物のパイプを口から離して、煙草の煙にむせながら、大きな声で笑い出した。その声があまり大きかったせいか、向うのテエブルにいた芸者がわざわざふり返って、怪訝けげんな顔をしながら、こっちを見た。が、老紳士は容易に、笑いやまない。片手に鼻眼鏡が落ちそうになるのをおさえながら、片手に火のついたパイプを持って、のどを鳴らし鳴らし、笑っている。本間さんは何だか訳がわからないので、白葡萄酒の杯を前に置いたまま、茫然とただ、相手の顔を眺めていた。
「それはいます。」老人はしばらくしてから、やっと息をつきながら、こう云った。
「今君が向うで居眠りをしているのを見たでしょう。あの男なぞは、あんなによく西郷隆盛に似ているではないですか。」
「ではあれは――あの人はなんなのです。」
「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、かたわら南画をく男ですが。」
「西郷隆盛ではないのですね。」
 本間さんは真面目な声でこう云って、それから急に顔を赤らめた。今まで自分のつとめていた滑稽な役まわりが、この時忽然こつぜんとして新しい光に、照される事になったからである。
「もし気にさわったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯いたずらをする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない。――僕はこう云う人間です。」
 老紳士はポケットをさぐって、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷ってはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顔をどこで見たか、やっと思い出す事が出来たのである。――老紳士は本間さんの顔を眺めながら、満足そうに微笑した。
「先生とは実際夢にも思いませんでした。私こそいろいろ失礼な事を申し上げて、恐縮です。」
「いやさっきの城山戦死説なぞは、なかなか傑作だった。君の卒業論文もああ云う調子なら面白いものが出来るでしょう。僕の方の大学にも、今年は一人維新史を専攻した学生がいる。――まあそんな事より、おおいに一つ飲み給え。」
 みぞれまじりの雨も、小止こやみになったと見えて、もう窓に音がしなくなった。女連れの客が立った後には、硝子の花瓶にさしたの花ばかりが、冴え返る食堂車の中にかすかな匂を漂わせている。本間さんは白葡萄酒の杯を勢いよく飲み干すと、色の出た頬をおさえながら、突然、
「先生はスケプティックですね。」と云った。
 老紳士は鼻眼鏡のうしろから、眼でちょいと頷いた。あの始終何かに微笑を送っているような朗然とした眼で頷いたのである。
「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない、いやそう云う我々自身の事さえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。僕は若い時に、小説家になろうと思った事があった。なったらやっぱり、そう云う小説を書いていたでしょう。あるいはその方が今よりよかったかも知れない。とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか。」

(大正六年十二月十五日)




 



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月9日修正
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