十一
「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」 崋山は、鬚の痕の青い顋を撫でながら、満足そうにこう言った。 「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」 「それはありがたい。いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」 馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。 「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描けるだろうと思いますな。木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりになり切って、しかもその中に描いた古人の心もちが、悠々として生きている。あれだけは実に大したものです。まだ私などは、そこへ行くと、子供ほどにも出来ていません。」 「古人は後生恐るべしと言いましたがな。」 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔を弄した。 「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」 「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、肝腎らしいようですな。」 「さよう、それが何よりも肝腎です。」 主人と客とは、彼ら自身の語に動かされて、しばらくの間口をとざした。そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。 「八犬伝は相変らず、捗がお行きですか。」 やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。 「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」 「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」 「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死の覚悟をしました。」 こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。 「たかが戯作だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」 「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」 「お互いに討死ですかな。」 二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。 「しかし絵の方は羨ましいようですな。公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」 今度は馬琴が、話頭を一転した。
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