芥川龍之介全集2 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1986(昭和61)年10月28日 |
1996年(平成8)7月15日第11刷 |
1996年(平成8)7月15日第11刷 |
筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
筑摩書房 |
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
上
何小二は軍刀を抛り出すと、夢中で馬の頸にしがみついた。確かに頸を斬られたと思う――いや、これはしがみついた後で、そう思ったのかも知れない。ただ、何か頸へずんと音を立てて、はいったと思う――それと同時に、しがみついたのである。すると馬も創を受けたのであろう。何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く嘶いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の高粱畑をまっしぐらに走り出した。二三発、銃声が後から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えない。 人の身の丈よりも高い高粱は、無二無三に駈けてゆく馬に踏みしだかれて、波のように起伏する。それが右からも左からも、あるいは彼の辮髪を掃ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほどはっきり、脳味噌に焦げついている。斬られた。斬られた。――こう心の中に繰返しながら、彼は全く機械的に、汗みずくになった馬の腹を何度も靴の踵で蹴った。
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十分ほど前、何小二は仲間の騎兵と一しょに、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ偵察に行く途中、黄いろくなりかけた高粱の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇した。それが余り突然すぎたので、敵も味方も小銃を発射する暇がない。少くとも味方は、赤い筋のはいった軍帽と、やはり赤い肋骨のある軍服とが見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき抜いて、咄嗟に馬の頭をその方へ立て直した。勿論その時は、万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。そこにあるのは、ただ敵である。あるいは敵を殺す事である。だから彼等は馬の頭を立て直すと、いずれも犬のように歯をむき出しながら、猛然として日本騎兵のいる方へ殺到した。すると敵も彼等と同じ衝動に支配されていたのであろう。一瞬の後には、やはり歯をむき出した、彼等の顔を鏡に映したような顔が、幾つも彼等の左右に出没し始めた。そうしてその顔と共に、何本かの軍刀が、忙しく彼等の周囲に、風を切る音を起し始めた。 それから後の事は、どうも時間の観念が明瞭でない。丈の高い高粱が、まるで暴風雨にでも遇ったようにゆすぶれたり、そのゆすぶれている穂の先に、銅のような太陽が懸っていたりした事は、不思議なくらいはっきり覚えている。が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。その中に、ふりまわしている軍刀のが、だんだん脂汗でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開きながら、突然彼の馬の前に跳り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から刎ね上げた、向うの軍刀の鋼である。その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しくかんと冴え渡って、磨いた鉄の冷かな臭を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。そうしてそれと共に、眩く日を反射した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。
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馬は、創の痛みで唸っている何小二を乗せたまま、高粱畑の中を無二無三に駈けて行った。どこまで駈けても、高粱は尽きる容子もなく茂っている。人馬の声や軍刀の斬り合う音は、もういつの間にか消えてしまった。日の光も秋は、遼東と日本と変りがない。 繰返して云うが、何小二は馬の背に揺られながら、創の痛みで唸っていた。が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚いていたのである。 彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから彼をこの世界と別れさせるようにした、あらゆる人間や事件が恨めしかった。それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかった。それから――こんな種々雑多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を虐みに来る。だから彼はこれらの感情が往来するのに従って、「死ぬ。死ぬ。」と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、あるいはまた日本騎兵の悪口を云って見たりした。が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、嗄れた唸り声に変ってしまう。それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。 「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。それには第一に、私を斬った日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。最後にこんな戦争を始めた、日本国と清国とが憎い。いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、皆私には敵と変りがない。私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山あるこの世の中と、今の今別れてしまう。ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う莫迦だろう。」 何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の平首にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。その勢に驚いて、時々鶉の群が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には頓着しない。背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。 だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方に明く開けた時、運命は二三本の川楊の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢に集めながら、厳しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛り出した。 その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の廚房で、大きな竈の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。「ああ火が燃えている」と思う――その次の瞬間には彼はもういつか正気を失っていた。………
中
馬の上から転げ落ちた何小二は、全然正気を失ったのであろうか。成程創の疼みは、いつかほとんど、しなくなった。が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横わりながら、川楊の葉が撫でている、高い蒼空を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな藍の瓶をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ然と消えてしまう。これが丁度絶えず動いている川楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。 では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗のように薄くなって、その向うにある雲の塊を、雲母のように透かせている。 その後からは、彼の生まれた家の後にある、だだっ広い胡麻畑が、辷るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの影は一つもない。ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。これは空間を斜に横ぎって、吊り上げられたようにすっと消えた。 するとその次には妙なものが空をのたくって来た。よく見ると、燈夜に街をかついで歩く、あの大きな竜燈である。長さはおよそ四五間もあろうか。竹で造った骨組みの上へ紙を張って、それに青と赤との画の具で、華やかな彩色が施してある。形は画で見る竜と、少しも変りがない。それが昼間だのに、中へ蝋燭らしい火をともして、彷彿と蒼空へ現れた。その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い鬚などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこから急に消えてしまった。 それが見えなくなると、今度は華奢な女の足が突然空へ現れた。纏足をした足だから、細さは漸く三寸あまりしかない。しなやかにまがった指の先には、うす白い爪が柔らかく肉の色を隔てている。小二の心にはその足を見た時の記憶が夢の中で食われた蚤のように、ぼんやり遠い悲しさを運んで来た。もう一度あの足にさわる事が出来たなら、――しかしそれは勿論もう出来ないのに相違ない。こことあの足を見た所との間は、何百里と云う道程がある。そう思っている中に、足は見る見る透明になって、自然と雲の影に吸われてしまった。 その足が消えた時である。何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲われた。彼の頭の上には、大きな蒼空が音もなく蔽いかかっている。人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。これは何と云う寂しさであろう。そうしてその寂しさを今まで自分が知らなかったと云う事は、何と云うまた不思議な事であろう。何小二は思わず長いため息をついた。 この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶった日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで来た。そうしてまた同じような速力で、慌しくどこかへ消えてしまった。ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と変らないのであろう。もし彼等が幻でなかったなら、自分は彼等と互に慰め合って、せめて一時でもこの寂しさを忘れたい。しかしそれはもう、今になっては遅かった。 何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝りたかった。そうしてまた、誰をでも赦したかった。 「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償うのだが。」 彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。その蒼い気の中に、点々としてかすかにきらめくものは、大方昼見える星であろう。もう今はあの影のようなものも、二度と眸底は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。
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