現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
丈艸、去来を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟に書かせたり、おのおの咏じたまへ 旅に病むで夢は枯野をかけめぐる
――花屋日記――
元禄七年十月十二日の午後である。一しきり赤々と朝焼けた空は、又昨日のやうに時雨れるかと、大阪商人の寝起の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つたが、幸葉をふるつた柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの静な冬の昼になつた。立ちならんだ町家の間を、流れるともなく流れる川の水さへ、今日はぼんやりと光沢を消して、その水に浮く葱の屑も、気のせゐか青い色が冷たくない。まして岸を行く往来の人々は、丸頭巾をかぶつたのも、革足袋をはいたのも、皆凩の吹く世の中を忘れたやうに、うつそりとして歩いて行く。暖簾の色、車の行きかひ、人形芝居の遠い三味線の音――すべてがうす明い、もの静な冬の昼を、橋の擬宝珠に置く町の埃も、動かさない位、ひつそりと守つてゐる…… この時、御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門の裏座敷では、当時俳諧の大宗匠と仰がれた芭蕉庵松尾桃青が、四方から集つて来た門下の人人に介抱されながら、五十一歳を一期として、「埋火のあたたまりの冷むるが如く、」静に息を引きとらうとしてゐた。時刻は凡そ、申の中刻にも近からうか。――隔ての襖をとり払つた、だだつ広い座敷の中には、枕頭に きさした香の煙が、一すぢ昇つて、天下の冬を庭さきに堰いた、新しい障子の色も、ここばかりは暗くかげりながら、身にしみるやうに冷々する。その障子の方を枕にして、寂然と横はつた芭蕉のまはりには、先、医者の木節が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら、浮かない眉をひそめてゐた。その後に居すくまつて、さつきから小声の称名を絶たないのは、今度伊賀から伴に立つて来た、老僕の治郎兵衛に違ひない。と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥満の晋子其角が、紬の角通しの懐を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々しい去来と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる。それから其角の後には、法師じみた丈艸が、手くびに菩提樹の珠数をかけて、端然と控へてゐたが、隣に座を占めた乙州の、絶えず鼻を啜つてゐるのは、もうこみ上げて来る悲しさに、堪へられなくなつたからであらう。その容子をぢろぢろ眺めながら、古法衣の袖をかきつくろつて、無愛想な頤をそらせてゐる、背の低い僧形は惟然坊で、これは色の浅黒い、剛愎さうな支考と肩をならべて、木節の向うに坐つてゐた。あとは唯、何人かの弟子たちが皆息もしないやうに静まり返つて、或は右、或は左と、師匠の床を囲みながら、限りない死別の名ごりを惜しんでゐる。が、その中でもたつた一人、座敷の隅に蹲つて、ぴつたり畳にひれ伏した儘、慟哭の声を洩してゐたのは、正秀ではないかと思はれる。しかしこれさへ、座敷の中のうすら寒い沈黙に抑へられて、枕頭の香のかすかな匂を、擾す程の声も立てない。 芭蕉はさつき、痰喘にかすれた声で、覚束ない遺言をした後は、半ば眼を見開いた儘、昏睡の状態にはいつたらしい。うす痘痕のある顔は、顴骨ばかり露に痩せ細つて、皺に囲まれた唇にも、とうに血の気はなくなつてしまつた。殊に傷しいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮べながら、まるで屋根の向うにある、際限ない寒空でも望むやうに、徒に遠い所を見やつてゐる。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」――事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。 「水を。」 木節はやがてかう云つて、静に後にゐる治郎兵衛を顧みた。一椀の水と一本の羽根楊子とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。彼は二品をおづおづ主人の枕元へ押し並べると、思ひ出したやうに又、口を早めて、専念に称名を唱へ始めた。治郎兵衛の素朴な、山家育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にせよ、ひとしく彼岸に往生するのなら、ひとしく又、弥陀の慈悲にすがるべき筈だと云ふ、堅い信念が根を張つてゐたからであらう。 一方又木節は、「水を」と云つた刹那の間、果して自分は医師として、万方を尽したらうかと云ふ、何時もの疑惑に遭遇したが、すぐに又自ら励ますやうな心もちになつて、隣にゐた其角の方をふりむきながら、無言の儘、ちよいと相図をした。芭蕉の床を囲んでゐた一同の心に、愈と云ふ緊張した感じが咄嗟に閃いたのはこの時である。が、その緊張した感じと前後して、一種の弛緩した感じが――云はば、来る可きものが遂に来たと云ふ、安心に似た心もちが、通りすぎた事も亦争はれない。唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかつた程、微妙な性質のものであつたからか、現にここにゐる一同の中では、最も現実的な其角でさへ、折から顔を見合せた木節と、際どく相手の眼の中に、同じ心もちを読み合つた時は、流石にぎよつとせずにはゐられなかつたのであらう。彼は慌しく視線を側へ外らせると、さり気なく羽根楊子をとりあげて、 「では、御先へ」と、隣の去来に挨拶した。さうしてその羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そつと今はの師匠の顔をのぞきこんだ。実を云ふと彼は、かうなるまでに、師匠と今生の別をつげると云ふ事は、さぞ悲しいものであらう位な、予測めいた考もなかつた訳ではない。が、かうして愈末期の水をとつて見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切つて、如何にも冷淡に澄みわたつてゐる。のみならず、更に其角が意外だつた事には、文字通り骨と皮ばかりに痩せ衰へた、致死期の師匠の不気味な姿は、殆面を背けずにはゐられなかつた程、烈しい嫌悪の情を彼に起させた。いや、単に烈しいと云つたのでは、まだ十分な表現ではない。それは恰も目に見えない毒物のやうに、生理的な作用さへも及ぼして来る、最も堪へ難い種類の嫌悪であつた。彼はこの時、偶然な契機によつて、醜き一切に対する反感を師匠の病躯の上に洩らしたのであらうか。或は又「生」の享楽家たる彼にとつて、そこに象徴された「死」の事実が、この上もなく呪ふ可き自然の威嚇だつたのであらうか。――兎に角、垂死の芭蕉の顔に、云ひやうのない不快を感じた其角は、殆何の悲しみもなく、その紫がかつたうすい唇に、一刷毛の水を塗るや否や、顔をしかめて引き下つた。尤もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じてゐた嫌悪の情は、さう云ふ道徳感に顧慮すべく、余り強烈だつたものらしい。 其角に次いで羽根楊子をとり上げたのは、さつき木節が相図をした時から、既に心の落着きを失つてゐたらしい去来である。日頃から恭謙の名を得てゐた彼は、一同に軽く会釈をして、芭蕉の枕もとへすりよつたが、そこに横はつてゐた老俳諧師の病みほうけた顔を眺めると、或満足と悔恨との不思議に錯雑した心もちを、嫌でも味はなければならなかつた。しかもその満足と悔恨とは、まるで陰と日向のやうに、離れられない因縁を背負つて、実はこの四五日以前から、絶えず小心な彼の気分を掻乱してゐたのである。と云ふのは、師匠の重病だと云ふ知らせを聞くや否や、すぐに伏見から船に乗つて、深夜にもかまはず、この花屋の門を叩いて以来、彼は師匠の看病を一日も怠つたと云ふ事はない。その上之道に頼みこんで手伝ひの周旋を引き受けさせるやら、住吉大明神へ人を立てて病気本復を祈らせるやら、或は又花屋仁左衛門に相談して調度類の買入れをして貰ふやら、殆彼一人が車輪になつて、万事万端の世話を焼いた。それは勿論去来自身進んで事に当つたので、誰に恩を着せようと云ふ気も、皆無だつた事は事実であるが、一身を挙げて師匠の介抱に没頭したと云ふ自覚は、勢、彼の心の底に大きな満足の種を蒔いた。それが唯、意識せられざる満足として、彼の活動の背景に暖い心もちをひろげてゐた中は、元より彼も行住坐臥に、何等のこだはりを感じなかつたらしい。さもなければ夜伽の行燈の光の下で、支考と浮世話に耽つてゐる際にも、故に孝道の義を釈いて、自分が師匠に仕へるのは親に仕へる心算だなどと、長々しい述懐はしなかつたであらう。しかしその時、得意な彼は、人の悪い支考の顔に、ちらりと閃いた苦笑を見ると、急に今までの心の調和に狂ひの出来た事を意識した。さうしてその狂ひの原因は、始めて気のついた自分の満足と、その満足に対する自己批評とに存してゐる事を発見した。明日にもわからない大病の師匠を看護しながら、その容態をでも心配する事か、徒に自分の骨折ぶりを満足の眼で眺めてゐる。――これは確に、彼の如き正直者の身にとつて、自ら疚しい心もちだつたのに違ひない。それ以来去来は何をするのにも、この満足と悔恨との扞挌から、自然と或程度の掣肘を感じ出した。将に支考の眼の中に、偶然でも微笑の顔が見える時は、反つてその満足の自覚なるものが、一層明白に意識されて、その結果愈自分の卑しさを情なく思つた事も度々ある。それが何日か続いた今日、かうして師匠の枕もとで、末期の水を供する段になると、道徳的に潔癖な、しかも存外神経の繊弱な彼が、かう云ふ内心の矛盾の前に、全然落着きを失つたのは、気の毒ではあるが無理もない。だから去来は羽根楊子をとり上げると、妙に体中が固くなつて、その水を含んだ白い先も、芭蕉の唇を撫でながら、頻にふるへてゐた位、異常な興奮に襲はれた。が、幸、それと共に、彼の睫毛に溢れようとしてゐた、涙の珠もあつたので、彼を見てゐた門弟たちは、恐くあの辛辣な支考まで、全くこの興奮も彼の悲しみの結果だと解釈してゐた事であらう。 やがて去来が又憲法小紋の肩をそば立てて、おづおづ席に復すると、羽根楊子はその後にゐた丈艸の手へわたされた。日頃から老実な彼が、つつましく伏眼になつて、何やらかすかに口の中で誦しながら、静に師匠の唇を沾してゐる姿は、恐らく誰の見た眼にも厳だつたのに相違ない。が、この厳な瞬間に突然座敷の片すみからは、不気味な笑ひ声が聞え出した。いや、少くともその時は、聞え出したと思はれたのである。それはまるで腹の底からこみ上げて来る哄笑が、喉と唇とに堰かれながら、しかも猶可笑しさに堪へ兼ねて、ちぎれちぎれに鼻の孔から、迸つて来るやうな声であつた。が、云ふまでもなく、誰もこの場合、笑を失したものがあつた訳ではない。声は実にさつきから、涙にくれてゐた正秀の抑へに抑へてゐた慟哭が、この時胸を裂いて溢れたのである。その慟哭は勿論、悲愴を極めてゐたのに相違なかつた。或はそこにゐた門弟の中には、「塚も動けわが泣く声は秋の風」と云ふ、師匠の名句を思ひ出したものも、少くはなかつた事であらう。が、その凄絶なる可き慟哭にも、同じく涙に咽ばうとしてゐた乙州は、その中にある一種の誇張に対して、――と云ふのが穏でないならば、慟哭を抑制すべき意志力の欠乏に対して、多少不快を感じずにはゐられなかつた。唯、さう云ふ不快の性質は、どこまでも智的なものに過ぎなかつたのであらう。彼の頭が否と云つてゐるにも関らず、彼の心臓は忽ち正秀の哀慟の声に動かされて、何時か眼の中は涙で一ぱいになつた。が、彼が正秀の慟哭を不快に思ひ、延いては彼自身の涙をも潔しとしない事は、さつきと少しも変りはない。しかも涙は益眼に溢れて来る――乙州は遂に両手を膝の上についた儘、思はず嗚咽の声を発してしまつた。が、この時歔欷するらしいけはひを洩らしたのは、独り乙州ばかりではない。芭蕉の床の裾の方に控へてゐた、何人かの弟子の中からは、それと殆同時に洟をすする声が、しめやかに冴えた座敷の空気をふるはせて、断続しながら聞え始めた。
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