打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

開化の良人(かいかのおっと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-15 15:16:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「その証拠は彼が私と二人で、ある日どこかの芝居でやっている神風連しんぷうれん狂言きょうげんを見に行った時の話です。たしか大野鉄平おおのてっぺいの自害の場の幕がしまったあとだったと思いますが、彼は突然私の方をふり向くと、『君は彼等に同情が出来るか。』と、真面目まじめな顔をして問いかけました。私は元よりの洋行帰りの一人として、すべて旧弊じみたものが大嫌いだった頃ですから、『いや一向同情は出来ない。廃刀令はいとうれいが出たからと云って、一揆いっきを起すような連中は、自滅する方が当然だと思っている。』と、至極冷淡な返事をしますと、彼は不服そうに首を振って、『それは彼等の主張は間違っていたかもしれない。しかし彼等がその主張にじゅんじた態度は、同情以上に価すると思う。』と、云うのです。そこで私がもう一度、『じゃ君は彼等のように、明治の世の中を神代かみよの昔に返そうと云う子供じみた夢のために、二つとない命を捨てても惜しくないと思うのか。』と、笑いながら反問しましたが、彼はやはり真面目な調子で、『たとい子供じみた夢にしても、信ずる所に殉ずるのだから、僕はそれで本望だ。』と、思い切ったように答えました。その時はこう云う彼のことばも、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうそのことばの中にいたましい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。が、それは追々おいおい話が進むに従って、自然と御会得ごえとくが参るでしょう。
「何しろ三浦は何によらず、こう云う態度で押し通していましたから、結婚問題に関しても、『僕はアムウルのない結婚はしたくはない。』と云う調子で、どんない縁談が湧いて来ても、惜しげもなくことわってしまうのです。しかもそのまた彼のアムウルなるものが、一通りの恋愛とは事変って、随分ずいぶん彼の気に入っているような令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるようだから。』などと云って、いよいよ結婚と云う所までは中々話が運びません。それがはたで見ていても、余り歯痒はがゆい気がするので、時には私も横合いから、『それは何でも君のように、隅から隅まで自分の心もちを点検してかかると云う事になると、行住坐臥ぎょうじゅうざがさえ容易には出来はしない。だからどうせ世の中は理想通りに行かないものだとあきらめて、い加減な候補者で満足するさ。』と、世話を焼いた事があるのですが、三浦はかえってその度に、憐むような眼で私を眺めながら、『そのくらいなら何もこの年まで、僕は独身で通しはしない。』と、まるで相手にならないのです。が、友だちはそれで黙っていても、親戚の身になって見ると、元来病弱な彼ではあるし、万一血統をやしてはと云う心配もなくはないので、せめて権妻ごんさいでも置いたらどうだとすすめた向きもあったそうですが、元よりそんな忠告などに耳を借すような三浦ではありません。いや、耳を借さない所か、彼はその権妻ごんさいと云うことばが大嫌いで、日頃から私をつかまえては、『何しろいくら開化したと云った所で、まだ日本ではめかけと云うものが公然と幅をかせているのだから。』と、よくわらってはいたものなのです。ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂いわゆるアムウルのある結婚』をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。
「ところがその中に私はある官辺の用向きで、しばらく韓国かんこく京城けいじょう赴任ふにんする事になりました。すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず三浦から結婚の通知が届いたじゃありませんか。その時の私の驚きは、大抵御想像がつきましょう。が、驚いたと同時に私は、いよいよ彼にもそのアムウルの相手が出来たのだなと思うと、さすがに微笑せずにはいられませんでした。通知の文面はごく簡単なもので、ただ、藤井勝美ふじいかつみと云う御用商人の娘と縁談がととのったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島やなぎしま萩寺はぎでらへ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋こっとうやが藤井の父子おやこと一しょにまいり合せたので、つれ立って境内けいだいを歩いている中に、いつか互に見染みそめもし見染められもしたと云う次第なのです。何しろ萩寺と云えば、その頃はまだ仁王門におうもん藁葺わらぶき屋根で、『ぬれて行く人もをかしや雨のはぎ』と云う芭蕉翁ばしょうおうの名高い句碑が萩の中に残っている、いかにも風雅な所でしたから、実際才子佳人の奇遇きぐうにはあつらえ向きの舞台だったのに違いありません。しかしあの外出する時は、必ず巴里パリイ仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた三浦にしては、余り見染め方が紋切型もんきりがたなので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した私などは、いよいよくすぐられるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。こう云えば勿論縁談の橋渡しには、その骨董屋のなったと云う事も、すぐに御推察が参るでしょう。それがまたさいわいと、即座に話がまとまって、表向きの仲人なこうどこしらえるが早いか、その秋の中に婚礼もとどこおりなくすんでしまったのです。ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑おかしいと同時にねたましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の三浦が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。
「その頃の彼の手紙は、今でもわたしの手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目さいもくを根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養ばいように失敗した事、上野うえのの養育院の寄附を依頼された事、入梅にゅうばいで書物が大半びてしまった事、かかえの車夫が破傷風はしょうふうになった事、都座みやこざの西洋手品を見に行った事、蔵前くらまえに火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも一番嬉しそうだったのは、彼が五姓田芳梅ごぜたほうばい画伯に依頼して、細君の肖像画しょうぞうがいて貰ったと云う一条です。その肖像画は彼が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、私ものちに見ましたが、何でも束髪そくはつった勝美婦人かつみふじん毛金けきんぬいとりのある黒の模様で、薔薇ばらの花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔プロフィイルに描いたものでした。が、それは見る事が出来ても、当時の快活な三浦自身は、とうとう永久に見る事が出来なかったのです。……」
 本多子爵ほんだししゃくはこう云って、かすかな吐息といきを洩しながら、しばらくの間口をつぐんだ。じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国かんこく京城けいじょうから帰った時、万一三浦はもう物故ぶっこしていたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔にそそがずにはいられなかった。すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、おもむろに頭を振りながら、
「しかし何もこう云ったからと云って、彼がわたし留守中るすちゅうに故人になったと云う次第じゃありません。ただ、かれこれ一年ばかり経って、私が再び内地へ帰って見ると、三浦はやはり落ち着き払った、むしろ以前よりは幽鬱ゆううつらしい人間になっていたと云うだけです。これは私があの新橋しんばし停車場でわざわざ迎えに出た彼と久闊きゅうかつの手を握り合った時、すでに私には気がついていた事でした。いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。実際その時私は彼の顔を見るが早いか、何よりも先に『どうした。体でも悪いのじゃないか。』とたずねたほど、意外な感じに打たれました。が、彼はかえって私の怪しむのを不審がりながら、彼ばかりでなく彼の細君も至極健康だと答えるのです。そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『アムウルのある結婚』をしたからと云って、急に彼の性情が変化する筈もないと思いましたから、それぎり私も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』と、笑って済ませてしまいました。それが追々おいおい笑って済ませなくなるまでには、――この幽鬱な仮面かめんに隠れている彼の煩悶はんもんに感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。が、話の順序として、その前に一通り、彼の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。

上一页  [1] [2] [3] [4]  下一页 尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口