現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
一
明治元年五月十四日の午過ぎだつた。「官軍は明日夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野界隈の町家のものは々何処へでも立ち退いてしまへ。」――さう云ふ達しのあつた午過ぎだつた。下谷町二丁目の小間物店、古河屋政兵衛の立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱をつくつてゐた。 戸をしめ切つた家の中は勿論午過ぎでもまつ暗だつた。人音も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時か又中空へ遠のいて行つた。猫はその音の高まる度に、琥珀色の眼をまん円にした。竈さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。 そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は不相変急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。 すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。往来を馳せ過ぎる駕籠舁きの声、――その外には何も聞えなかつた。しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。狭い板の間を塞いだ竈、蓋のない水瓶の水光り、荒神の松、引き窓の綱、――そんな物も順々に見えるやうになつた。猫は愈不安さうに、戸の明いた水口を睨みながら、のそりと大きい体を起した。 この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、少時は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい酒筵に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。猫は耳を平めながら、二足三足跡ずさりをした。しかし乞食は驚きもせず後手に障子をしめてから、徐ろに顔の手拭をとつた。顔は髭に埋まつた上、膏薬も二三個所貼つてあつた。しかし垢にはまみれてゐても、眼鼻立ちは寧ろ尋常だつた。 「三毛。三毛。」 乞食は髪の水を切つたり、顔の滴を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。が、まだ其処に佇んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。その間に酒筵を脱いだ乞食は脛の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。 「三毛公。どうした?――誰もゐない所を見ると、貴様だけ置き去りを食はされたな。」 乞食は独り笑ひながら、大きい手に猫の頭を撫でた。猫はちよいと逃げ腰になつた。が、それぎり飛び退きもせず、反つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。乞食は猫を撫でやめると、今度は古湯帷子の懐から、油光りのする短銃を出した。さうして覚束ない薄明りの中に、引き金の具合を検べ出した。「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――それは確に小説じみた、物珍らしい光景に違ひなかつた。しかし薄眼になつた猫はやはり背中を円くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。 「明日になるとな、三毛公、この界隈へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。そいつに中ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」 乞食は短銃を検べながら、時々猫に話しかけた。 「お前とも永い御馴染だな。が、今日が御別れだぞ。明日はお前にも大厄日だ。おれも明日は死ぬかも知れない。よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜めあさりはしないつもりだ。さうすればお前は大喜びだらう。」 その内に雨は又一しきり、騒がしい音を立て始めた。雲も棟瓦を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填してゐた。 「それとも名残りだけは惜しんでくれるか? いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――が、まあ、そんな事はどうでも好いや。唯おれもゐないとすると、――」 乞食は急に口を噤んだ。途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は咄嗟に身構へながら、まともに闖入者と眼を合せた。 すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。それは素裸足に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透かしながら、ぢつと乞食の顔を覗きこんだ。 乞食は呆気にとられたのか、古湯帷子の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色は見えなかつた。二人は黙然と少時の間、互に眼と眼を見合せてゐた。 「何だい、お前は新公ぢやないか?」 彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。 「どうも相済みません。あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた訣でもないんです。」 「驚かせるよ、ほんたうに――いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」 彼女は傘の滴を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。 「さあ、こつちへ出ておくれよ。わたしは家へはひるんだから。」 「へえ、出ます。出ろと仰有らないでも出ますがね。姐さんはまだ立ち退かなかつたんですかい?」 「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか?」 「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」 彼女はまだ業腹さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は髭だらけの顋をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉の帯しかしてゐなかつた。が、活き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。 「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は? え、姐さん。――お富さん。」 新公は又尋ね続けた。 「何だつて好いぢやないか? それよりさつさと出て行つておくれよ。」 お富の返事は突慳貪だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。 「新公、お前、家の三毛を知らないかい?」 「三毛? 三毛は今此処に、――おや、何処へ行きやがつたらう?」 乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は柄杓を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。 新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。 「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは?」 「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」 新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。 「何が可笑しんだい? 家のお上さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか? 三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか? わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」 「ようござんすよ。もう笑ひはしませんよ。」 新公はそれでも笑ひ笑ひ、お富の言葉を遮つた。 「もう笑ひはしませんがね。まあ、考へて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」 「お黙りよ! お上さんの讒訴なぞは聞きたくないよ!」 お富は殆どぢだんだを踏んだ。が、乞食は思ひの外彼女の権幕には驚かなかつた。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは何処を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露はに肉体を語つてゐた。しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。 「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。ねえ、さうぢやありませんか? 今ぢやもう上野界隈、立ち退かない家はありませんや。して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――と、まづ云つたものぢやありませんか?」 「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」 「冗談云つちやいけません。若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。万一わたしが妙な気でも出したら、姐さん、お前さんはどうしなさるね?」 新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。しかし澄んだお富の目には、恐怖らしい影さへ見えなかつた。 唯その頬には、さつきよりも、一層血の色がさしたらしかつた。 「何だい、新公、――お前はわたしを嚇かさうつて云ふのかい?」 お富は彼女自身嚇かすやうに、一足新公の側へ寄つた。
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