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尾形了斎覚え書(おがたりょうさいおぼえがき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-13 7:58:53 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1968(昭和43)年8月25日
入力に使用: 1968(昭和43)年8月25日初版第1刷

 

 今般、当村内にて、切支丹きりしたん宗門の宗徒共、邪法を行ひ、人目じんもくまどはし候儀に付き、私見聞致し候次第を、逐一ちくいち公儀へ申上ぐ可きむね、御沙汰相成り候段屹度きつと承知つかまつり候。
 陳者のぶれば、今年三月七日、当村百姓与作後家しのと申す者、私宅わたくしたくへ参り、同人娘さと(当年九歳)大病に付き、検脈致し呉れ候様、懇々頼入り候。
 右篠と申候は、百姓惣兵衛の三女に有之これあり、十年以前与作方へ縁付き、里をまうけ候も、程なく夫に先立たれ、爾後再縁も仕らず、機織はたお乃至ないし賃仕事など致し候うて、その日を糊口ここうし居る者に御座候。なれども、如何なる心得違ひにてか、与作病死のみぎりより、もつぱら切支丹宗門に帰依きえ致し、隣村の伴天連ばてれんろどりげと申す者方へ、繁々出入でいり致し候間、当村内にても、右伴天連のてかけと相成候由、取沙汰致す者なども有之、兎角の批評絶え申さず、依つて、父惣兵衛始め姉弟共一同、種々意見仕り候へども、泥烏須如来でうすによらいより難有ありがたきもの無しなど申し候うて、一向に合点仕らず、朝夕、唯、娘里と共にくるすとなへ候小き磔柱形はりきがたの守り本尊を礼拝らいはい致し、夫与作の墓参さへ怠り居る始末に付き、唯今にては、親類縁者とも義絶致し居り、追つては、村方にても、村払ひに行ふ可き旨、寄り寄り評議致し居る由に御座候。
 右様の者に候へば、重々頼み入り候へども、私検脈の儀は、かなふまじき由申し聞け候所、一度ひとたびは泣く泣く帰宅致し候へども、翌八日、ふたたび私宅へ参り、「一生の恩に着申す可く候へば、何卒なにとぞ御検脈下されたし」など申し候うて、如何様断り候も、聞き入れ申さず、はては、私宅玄関に泣き伏し、「御医者様の御勤は、人の病をいやす事と存じ候。然るに、私娘大病の儀、御聞き棄てに遊ばさるる条、何とも心得難く候。」など、怨じ候へば、私申し候は、「貴殿の申し条、万々ばんばん道理には候へども、私検脈致さざる儀も、全くその理無しとは申し難く候。何故と申し候はば、貴殿平生の行状誠に面白からず、別して、私始め村方の者の神仏を拝み候を、悪魔外道げだうかれたる所行なりなど、しばしば誹謗ひぼう致され候由、しかと承り居り候。然るに、その正道しやうだう潔白なる貴殿が、私共天魔に魅入られ候者に、唯今、娘御むすめごの大病を癒し呉れよと申され候は、何故に御座候や。右様の儀は、日頃御信仰の泥烏須如来でうすによらいに御頼みあつて然る可く、もし、たつて私、検脈を所望致され候上は、切支丹宗門御帰依の儀、以後堅く御無用たる可く候。此段御承引ごしよういん無之これなきに於ては、仮令たとひ、医は仁術なりと申し候へども、神仏の冥罰みやうばつも恐しく候へば、検脈の儀ひらに御断り申候。」斯様かやう、説得致し候へば、篠も流石さすがに、推してとも申し難く、其儘凄々すごすご帰宅致し候。
 翌九日は、ひき明け方より大雨にて、村内一時は人通も絶え候所、卯時うのときばかりに、篠、傘をも差さず、濡鼠ぬれねずみの如くなりて、私宅へ参り、又々検脈致し呉れ候様、頼み入り候間、私申し候は、「長袖ながら、二言にごんは御座無く候。然れば、娘御の命か、泥烏須如来か、何れか一つ御棄てなさるる分別肝要と存じ候。」斯様かやう申し聞け候へば、篠、此度は狂気の如く相成り、私前に再三ぬかづき又は手を合せて拝みなど致し候うて、「仰せ千万せんばん御尤ごもつともに候。なれども、切支丹宗門の教にて、一度ころび候上は、私たましひむくろとも、生々世々しやうじやうせせ亡び申す可く候。何卒なにとぞ、私心根を不憫ふびん思召おぼしめされ、此儀のみは、御容赦下され度候。」など掻き口説くどむせび入り候。邪宗門の宗徒とは申しながら、親心に無きてい相見え、多少とも哀れには存じ候へども、私情を以て、公道を廃すべからざるの道理に候へば、如何様いかやう申し候うても、ころび候上ならでは、検脈かなひ難き旨、申し張り候所、篠、何とも申し様無き顔を致し、少時しばらく私顔を見つめ居り候が、突然涙をはらはらと落し、私足下あしもとに手をつき候うて、何やら蚊の様なる声にて申し候へども、折からの大雨の音にて、しかと聞き取れ申さず、再三聞き直し候上、やうやく、然らば詮無く候へば、ころび候可きおもむき、判然致し候。なれどもころび候実証無之これなく候へば、右証明あかしを立つ可き旨、申し聞け候所、篠、無言の儘、懐中より、かのくるすを取り出し、玄関式台上へ差し置き候うて、静に三度まで踏み候。其節は格別取乱したる気色けしきも無之、涙も既に乾きし如く思はれ候へども、足下のくるすを眺め候眼の中、何となく熱病人の様にて、私方下男など、皆々気味悪しく思ひし由に御座候。
 さて、私申し条も相立ち候へば、即刻下男に薬籠やくろうを担はせ、大雨の中を、しの同道にて、同人宅へ参り候所、至極手狭なる部屋に、さと独り、南を枕にして打臥し居り候。尤も身熱しんねつ烈しく候へば、ほとんど正気無之これなていに相見え、いたいけなる手にて繰返し、繰返し、くうに十字を描き候うては、しきりはるれやと申す語を、うつつの如く口走り、其都度つど嬉しげに、微笑ほほゑみ居り候。右、はるれやと申し候は、切支丹宗門の念仏にて、宗門仏に讃頌さんしようを捧ぐる儀に御座候由、篠、其節枕辺まくらべにて、泣く泣く申し聞かし候。依つて、早速検脈致し候へば、傷寒しやうかんの病に紛れ無く、且は手遅れの儀も有之、今日中にも、存命覚束なかる可きやに見立て候間、詮方せんかた無く其旨、篠へ申し聞け候所、同人又々狂気の如く相成り、「私ころび候仔細は、娘の命助け度き一念よりに御座候。然るを落命致させては、其甲斐、万が一にも無之これなかる可く候。何卒泥烏須如来に背き奉り候私心苦しさを御汲み分け下され、娘一命、如何にもして、御取り留め下され度候。」と申し、私のみならず、私下男足下にも、手をつき候うて、しきりに頼み入り候へども、人力にては如何とも致し難き儀に候へば、心得違ひ致さざる様、呉れ呉れも、申しさとし、煎薬三貼さんでふ差し置き候上、折からの雨止みをさいはひ、立ち帰らんと致し候所、篠、私たもとにすがりつき候うて離れ申さず、何やら申さんとする気色けしきにて、くちびるを動かし候へども、一言も申し果てざる中に、見る見る面色変り、たちまち、其場に悶絶致し候。然れば、私おほいに仰天致し、早速下男共々、介抱仕り候所、やうやく、正気づき候へども、最早立上り候気力も無之、「所詮は、私心浅く候儘、娘一命、泥烏須如来、二つながら失ひしに極まり候。」とて、さめざめと泣き沈み、種々申し慰め候へども、一向耳に掛くる体も御座無く、且は娘容態も詮無く相見え候間、止むを得ずふたたび下男召しれ、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう帰宅仕り候。
 然るに、其日未時ひつじどき下り、名主塚越弥左衛門殿母儀検脈に参り候所、篠娘死去致し候由、並に篠、悲嘆のあまり、遂に発狂致し候由、弥左衛門殿より承り候。右に依れば、さと落命致し候は、私検脈後一時ひとときの間と相見え、の上刻には、篠既に乱心の体にて、娘死骸を掻き抱き、声高こわだかに何やら、蛮音ばんいんの経文読誦どくじゆ致し居りし由に御座候。なほ、此儀は、弥左衛門殿ぢきに見受けられ候趣にて、村方嘉右衛門殿、藤吾殿、治兵衛殿等も、其場に居合されし由に候へば、千万せんばん実事じつじたるに紛れ無かる可く候。
 追つて、翌十日は、朝来小雨有之候へどもたつの下刻より春雷を催し、やや、晴れ間相きざし候折から――村郷士梁瀬やなせ金十郎殿より、迎への馬差し遣はされ、検脈致し呉れ候様、申し越され候間、早速馬上にて、私宅を立ち出で候所、篠宅の前へ来かかり候へば、村方の人々大勢たたずみ居り、伴天連ばてれんよ、切支丹きりしたんよなど、罵り交し候うて、馬を進め候事さへ叶ひ申さず、依つて、私馬上より、家内の容子差し覗き候所、篠宅の戸を開け放ち候中に、紅毛人こうまうじん一名、日本人三名、各々法衣ころもめきし黒衣を着し候者共、手に手にかのくるす、乃至は香炉様の物を差しかざし候うて、同音に、はるれやはるれやと唱へ居り候。加之しかのみならず、右紅毛人の足下あしもとには、篠、髪を乱し候儘、娘さとを掻き抱き候うて、失神致し候如く、うづくまり居り候。別して、私眼を驚かし候は、里、両手にてひしと、篠うなじを抱き居り、母の名とはるれやと、代る代る、あどけ無き声にて、唱へ居りし事に御座候。尤も、遠眼の事とて、しかとはわきまへ難く候へども、里血色至極うるはしき様に相見え、折々母の頸より手を離し候うて、香炉様の物より立ち昇り候煙を捉へんとする真似など致し居り候。然れば、私馬より下り、里蘇生致し候次第に付き、村方の人々に委細相尋ね候へば、右紅毛の伴天連ばてれんろどりげ儀、今朝こんてう伊留満いるまん共相従へ、隣村より篠宅へ参り、同人懺悔こひさん聞き届け候上、一同宗門仏に加持致し、或は異香をくゆらし、或は神水を振りそそぎなど致し候所、篠の乱心はおのづから静まり、里も程無く蘇生致し候由、皆々恐しげに申し聞かせ候。古来一旦落命致し候上、蘇生仕り候たぐひ、元より少からずとは申し候へども、多くは、酒毒にあたり、乃至は瘴気しやうきに触れ候者のみに有之これあり、里の如く、傷寒の病にて死去致し候者の、還魂くわんこん仕り候ためしは、未嘗いまだかつて承り及ばざる所に御座候へば、切支丹宗門の邪法たる儀此一事にても分明ぶんみやう致す可く、別して伴天連当村へ参り候節、春雷頻に震ひ候も、天の彼を憎ませ給ふ所かと推察仕り候。
 なほしの及娘さと当日伴天連ばてれんろどりげ同道にて、隣村へ引移り候次第、並に慈元寺じげんじ住職日寛殿計らひにて同人宅焼き棄て候次第は、既に名主塚越弥左衛門殿より、言上ごんじやう仕り候へば、私見聞致し候仔細は、荒々あらあら右にて相尽き申す可く候。ただし、万一しるし洩れも有之候節は、後日再応さいおう書面を以て言上仕る可く、まづは私覚え書斯くの如くに御座候。以上
  さる年三月二十六日
      伊予国宇和ごほり――村

医師 尾形了斎
(大正五年十二月)




 



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年10月5日公開
2004年2月19日修正
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