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老いたる素戔嗚尊(おいたるすさのおのみこと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-13 7:56:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       五

 翌朝素戔嗚は何時いつもの通り、岩の多い海へ泳ぎに行つた。すると其処へ葦原醜男あしはらしこをが、意外にも彼の後を追つて、勢よく宮の方から下つて来た。
 彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快さうな微笑を浮べながら、
「御早うございます。」と、会釈をした。
「どうだな、昨夕ゆうべはよく眠られたかな?」
 素戔嗚は岩角にたたずんだ儘、迂散うさんらしく相手の顔を見やつた。実際この元気の好い若者がどうして室の蜂に殺されなかつたか? それは全然彼自身の推測を超越してゐたのであつた。
「ええ、御かげでよく眠られました。」
 葦原醜男はかう答へながら、足もとに落ちてゐた岩のかけを拾つて、力一ぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を描いて、雲の赤い空へ飛んで行つた。さうして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思はれる程、遠い沖の波の中に落ちた。
 素戔嗚は唇を噛みながら、ぢつとその岩の行く方を見つめてゐた。
 二人が海から帰つて来て、朝餉あさげの膳に向つた時、素戔嗚は苦い顔をして、鹿の片腿かたももかじりながら、彼と向ひ合つた葦原醜男に、
「この宮が気に入つたら、何日でも泊つて行くが好い。」と云つた。
 傍にゐた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そつと葦原醜男の方へ、意味ありげなまたたきを送つて見せた。が、彼は丁度その時、さらの魚に箸をつけてゐたせゐか、彼女の相図には気もつかずに、
難有ありがたうございます。ではもう二三日、御厄介になりませうか。」と、嬉しさうな返事をしてしまつた。
 しかし幸ひ午後になると、素戔嗚が昼寝をしてゐる暇に、二人の恋人は宮を抜け出て独木舟まるきぶねつないである、寂しい海辺の岩の間に、慌しい幸福をぬすむ事が出来た。須世理姫は香りの好い海草の上に横はりながら、暫くは唯夢のやうに、葦原醜男の顔を仰いでゐたが、やがて彼の腕を引き離すと、
「今夜も此処に御泊りなすつては、あなたの御命が危うございます。私の事なぞは御かまひなく、一刻も早く御逃げ下さいまし。」と、心配さうに促し立てた。
 しかし葦原醜男は笑ひながら、子供のやうに首を振つて見せた。
「あなたが此処にゐる間は、殺されても此処を去らない心算つもりです。」
「それでもあなたの御体に、万一の事でもあつた日には――」
「ではすぐにも私と一しよに、この島を逃げてくれますか?」
 須世理姫はためらつた。
「さもなければ私は何時までも、此処にゐる覚悟をきめてゐます。」
 葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起して、
「御父様が呼んでゐます。」と、気づかはしさうな声を出した。さうして咄嗟とつさに岩の間を、若い鹿より身軽さうに、宮の方へ上つて行つた。
 後に残つた葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つた。と、彼女の寝てゐた所には、昨夕ゆうべ彼が貰つたやうな、領巾ひれがもう一枚落ちてゐた。

       六

 その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂のむろと向ひ合つた、もう一つの室の中に、葦原醜男を抛りこんだ。
 室の中は昨日の通り、もう暗黒くらやみが拡がつてゐた。が、唯一つ昨日と違つて、その暗黒の其処此処には、まるで地の底に埋もれた無数の宝石の光のやうに、点々ときらめく物があつた。
 葦原醜男は心の中に、この光物ひかりものの正体を怪しみながら、暫くは眼が暗黒に慣れる時の来るのを待つてゐた。すると間もなく彼の周囲が、次第にうす明くなるにつれて、その星のやうな光物が、殆ど馬さへ呑みさうな、凄じい大蛇をろちの眼に変つた。しかも大蛇は何匹となく、或ははりに巻きついたり、或はたるきを伝はつたり、或は又床にとぐろを巻いたり、室一ぱいに気味悪く、うごめき合つてゐるのであつた。
 彼は思はず腰に下げた剣のつかに手をかけた。が、たとひ剣を抜いた所が、彼が一匹斬る内には、もう一匹が造作なく彼を巻き殺すのに違ひなかつた。いや、現に一匹の大蛇が、彼の顔を下から覗きこむと、それより更に大きい一匹は、梁に尾をからんだ儘、ずるりと宙に吊り下つて、丁度彼の肩の上へ、鎌首をさしのべてゐるのであつた。
 室の扉は勿論開かなかつた。のみならずその後には、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、ぢつと扉の向うの容子に耳を傾けてゐるらしかつた。葦原醜男は懸命に剣の柄を握りながら、暫時は眼ばかり動かせてゐた。その内に彼の足もとの大蛇は、おもむろに山のやうなとぐろを解くと、一際ひときは高く鎌首を挙げて、今にも猛然と彼の喉へ噛みつきさうなけはひを示し出した。
 この時彼の心の中には、突然光がさしたやうな気がした。彼は昨夜室の蜂が、彼のまはりへ群がつて来た時、須世理姫に貰つた領巾ひれを振つて、危い命を救ふ事が出来た。してみればさつき須世理姫が、海辺の岩の上に残して行つた領巾にも、同じやうな奇特きどくがあるかも知れぬ。――さう思つた彼は咄嗟の間に、拾つて置いた領巾を取出して、三度ひらひらと振り廻して見た。……
 翌朝素戔嗚は又石の多い海のほとりで、いよいよ元気の好ささうな葦原醜男と顔を合せた。
「どうだな。昨夜ゆうべはよく眠られたかな?」
「ええ。御かげでよく眠られました。」
 素戔嗚は顔中に不快さうな色をみなぎらせて、じろりと相手を睨みつけたが、どう思つたかもう一度、何時もの冷静な調子に返つて、
「さうか。それはよかつた。ではこれからおれと一しよに、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なささうな声をかけた。
 二人はすぐに裸になつて、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にゐた時から、並ぶもののない泳ぎ手であつた。が、葦原醜男は彼にも増して、殆ど海豚いるかにも劣らない程、自由自在に泳ぐ事が出来た。だから二人のみづらの頭は、黒白二羽のかもめのやうに、岩の屏風びやうぶを立てた岸から、見る見る内に隔たつてしまつた。

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