『お絹さんは最早居ませんよ、』と言ひ捨てゝばた/\と逃げて去つた。哀れなる哉、これが僕の失戀の弔詞である! 失戀?、失戀が聞いてあきれる。僕は戀して居たのだらうけれども、夢に、實に夢にもお絹をどうしやうといふ事はなかつた、お絹も亦た、僕を憎くからず思つて居たらう、決して其以上のことは思はなかつたに違ひない。
處が其夜、女中[#「女中」は底本では「女中」]どもが僕の部屋に集つて、宿の娘も來た。お絹の話が出て、お絹は愈々小田原に嫁にゆくことに定まつた一條を聞かされた時の僕の心持、僕の運命が定つたやうで、今更何とも言へぬ不快でならなかつた。しからば矢張失戀であらう! 僕はお絹を自分の物、自分のみを愛すべき人と、何時の間にか思込んで居たのであらう。
土産物は女中や娘に分配してしまつた。彼等は確かによろこんだ、然し僕は嬉しくも何ともない。
翌日は雨、朝からしよぼ/\と降つて陰鬱極まる天氣。溪流の水増してザア/\と騷々しいこと非常。晝飯に宿の娘が給仕に來て、僕の顏を見て笑ふから、僕も笑はざるを得ない。
『貴所はお絹に逢ひたくつて?』
『可笑しい事を言ひますね、昨年あんなに世話になつた人に會ひたいのは當然だらうと思ふ。』
『逢はして上げましようか?』
『難有いね、何分宜しく。』
『明日きつとお絹さん宅へ來ますよ。』
『來たら宜しく被仰て下さい、』と僕が眞實にしないので娘は默つて唯だ笑つて居た。お絹は此娘と從姉妹なのである。
午後は降り止んだが晴れさうにもせず雲は地を這ふようにして飛ぶ、狹い溪は益々狹くなつて、僕は牢獄にでも坐つて居る氣。坐敷に坐つたまゝ爲る事もなく茫然と外を眺めて居たが、ちらと僕の眼を遮つて直ぐ又隣家の軒先で隱れてしまつた者がある。それがお絹らしい。僕は直ぐ外に出た。
石ばかりごろ/\した往來の淋しさ。僅に十軒ばかりの温泉宿。其外の百姓家とても數える計り、物を商ふ家も準じて幾軒もない寂寞たる溪間! この溪間が雨雲に閉されて見る物悉く光を失ふた時の光景を想像し給へ。僕は溪流に沿ふて此淋しい往來を當もなく歩るいた。流を下つて行くも二三丁、上れば一丁、其中にペンキで塗つた橋がある、其間を、如何な心地で僕はぶらついたらう。温泉宿の欄干に倚つて外を眺めて居る人は皆な泣き出しさうな顏付をして居る、軒先で小供を負て居る娘は病人のやうで背の小供はめそ/\と泣いて居る。陰鬱! 屈托! 寂寥! そして僕の眼には何處かに悲慘の影さへも見えるのである。
お絹には出逢はなかつた。當り前である。僕は其翌日降り出しさうな空をも恐れず十國峠へと單身宿を出た。宿の者は總がゝりで止めたが聞かない、伴を連れて行けと勸めても謝絶。山は雲の中、僕は雲に登る積りで遮二無二登つた。
僕は今日まで斯んな凄寥たる光景に出遇つたことはない。足の下から灰色の雲が忽ち現はれ、忽ち消える。草原をわたる風は物すごく鳴つて耳を掠める、雲の絶間絶間から見える者は山又山。天地間僕一人、鳥も鳴かず。僕は暫らく絶頂の石に倚つて居た。この時、戀もなければ失戀もない、たゞ悽愴の感に堪えず、我生の孤獨を泣かざるを得なかつた。
歸路に眞闇に繁つた森の中を通る時、僕は斯んな事を思ひながら歩るいた、若し僕が足を蹈み滑べらして此溪に落ちる、死んでしまう、中西屋では僕が歸らぬので大騷ぎを初める、樵夫を
ふて僕を索す、此暗い溪底に僕の死體が横つて居る、東京へ電報を打つ、君か淡路君か飛んで來る、そして僕は燒かれてしまう。天地間最早小山某といふ畫かきの書生は居なくなる! と僕は思つた時、思はず足を止めた。頭の上の眞黒に繁つた枝から水がぼた/\落ちる、墓穴のやうな溪底では水の激して流れる音が悽く響く。僕は身の髮のよだつを感じた。
死人のやうな顏をして僕の歸つて來たのを見て、宿の者は如何なに驚いたらう。其驚よりも僕の驚いたのは此日お絹が來たが、午後又實家へ歸つたとの事である。
其夜から僕は熱が出て今日で三日になるが未だ快然しない。山に登つて風邪を引いたのであらう。
君よ、君は今の時文評論家でないから、此三日の間、床の中に呻吟して居た時考へたことを聞いて呉れるだらう。
戀は力である、人の抵抗することの出來ない力である。此力を認識せず、又此力を壓へ得ると思ふ人は、未だ此力に觸れなかつた人である。其證據には曾て戀の爲めに苦み悶えた人も、時經つて、普通の人となる時は、何故に彼時自分が戀の爲めに斯くまで苦悶したかを、自分で疑がう者である。則ち彼は戀の力に觸れて居ないからである。同じ人ですら其通り、況んや曾て戀の力に觸れたことのない人が如何して他人の戀の消息が解らう、その樂が解らう、其苦が解らう?。
戀に迷ふを笑ふ人は、怪しげな傳説、學説に迷はぬがよい。戀は人の至情である。此至情をあざける人は、百萬年も千萬年も生きるが可い、御氣の毒ながら地球の皮は忽ち諸君を吸ひ込むべく待つて居る、泡のかたまり先生諸君、僕は諸君が此不可思議なる大宇宙をも統御して居るやうな顏構をして居るのを見ると冷笑したくなる僕は諸君が今少しく眞面目に、謙遜に、嚴肅に、此人生と此天地の問題を見て貰ひたいのである。
諸君が戀を笑ふのは、畢竟、人を笑ふのである、人は諸君が思つてるよりも神祕なる動物である。若し人の心に宿る所の戀をすら笑ふべく信ずべからざる者ならば、人生遂に何の價ぞ、人の心ほど嘘僞な者は無いではないか。諸君にして若し、月夜笛を聞いて、諸君の心に少しにても『永遠』の俤が映るならば、戀を信ぜよ。若し、諸君にして中江兆民先生と同一種であつて、十八里零圍氣を振舞はして滿足して居るならば、諸君は何の權威あつて、『春短し何に不滅の命ぞと』云々と歌ふ人の自由に干渉し得るぞ。『若い時は二度はない』と稱してあらゆる肉慾を恣まゝにせんとする青年男女の自由に干渉し得るぞ。
内山君足下、先づ此位にして置かう。さて斯の如くに僕は戀其物に隨喜した。これは失戀の賜かも知れない。明後日は僕は歸京する。
小田原を通る時、僕は如何な感があるだらう。
小山生
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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