八
景色は大いが變化に乏しいから初めての人なら兔も角、自分は既に幾度か此海と此棧道に慣れて居るから強て眺めたくもない。義母が定めし珍しがるだらうと思つて居たのが、例の如く簡單な御挨拶だけだから張合が拔けて了つた。新聞は今朝出る前に讀み盡して了つたし、本を讀む元氣もなし、眠くもなし、喋舌る對手もなし、あくびも出ないし、さて斯うなると空々然、漠々然何時か義母の氣が自分に乘り移つて血の流動が次第々々にのろくなつて行くやうな氣がした。
江の浦へ一時半の間は上であるが多少の高低はある。下りもある。喇叭も吹く、斯くて棧道にかゝつてから第一の停留所に着いた所の名は忘れたが此處で熱海から來る人車と入りちがへるのである。
巡査は此處で初て新聞を手離した。自分はホツと呼吸をして我に返つた。義母はウンともスンとも言はれない。別に我に返る必要もなく又た返るべき我も持て居られない
『此處で又暫時く待たされるのか。』
と眞鶴の巡査、則ち張飛巡査が言つたので
『いつも此處で待たされるのですか。』
と自分は思はず問ふた。
『さうとも限りませんが熱海が遲くなると五分や十分此處で待たされるのです。』
壯丁は車を離れて水を呑むもあり、皆掛茶屋の縁に集つて休んで居た。此處は谷間に據る一小村で急斜面は茅屋が段を作つて叢つて居るらしい、車を出て見ないから能くは解らないが漁村の小なる者、蜜柑が山の産物らしい。人車の軌道は村の上端を横つて居る。
雨がポツ/\降つて居る。自分は山の手の方をのみ見て居た。初めは何心なく見るともなしに見て居る内に、次第に今見て居る前面の光景は一幅の俳畫となつて現はれて來た。
九
軌道と直角に細長い茅葺の農家が一軒ある其の裏は直ぐ山の畑に續いて居るらしい。家の前は廣庭で麥などを乾す所だらう、廣庭の突きあたりに物置らしい屋根の低い茅屋がある。母屋の入口はレールに近い方にあつて人車から見ると土間が半分ほどはすかひに見える。
入口の外の軒下に橢圓形の据風呂があつて十二三の少年が入て居るのが最初自分の注意を惹いた。此少年は其の日に燒けた脊中ばかり此方に向けて居て決して人車の方を見ない。立つたり、しやがんだりして居るばかりで、手拭も持て居ないらし[#「い脱カ」の注記]、又た何時出る風も見えず、三時間でも五時間でも一日でも、あアやつて居るのだらうと自分には思はれた。廣庭に向た釜の口から青い煙が細々と立騰つて軒先を掠め、ボツ/\雨が其中を透して落ちて居る。半分見える土間では二十四五の女が手拭を姉樣かぶりにして上りがまちに大盥程の桶を控へ何物かを篩にかけて專念一意の體、其桶を前に七ツ八ツの小女が坐りこんで見物して居るが、これは人形のやうに動かない、風呂の中の少年も同じくこれを見物して居るのだといふことが自分にやつと解つた。
入口の彼方は長い縁側で三人も小女が坐つて居て其一人は此方を向き今しも十七八の姉樣に髮を結つて貰ふ最中。前髮を切り下て可愛く之も人形のやうに順しくして居る廣庭では六十以上の而も何れも達者らしい婆さんが三人立て居て其一人の赤兒を脊負て腰を曲げ居るのが何事か婆さん聲を張上げて喋白つて居ると、他の二人の婆樣は合槌を打つて居る。けれども三人とも手も足も動かさない。そして五六人の同じ年頃の小供がやはり身動きもしないで婆さん達の周圍を取り卷いて居るのである。
眞黒な艷の佳い洋犬が一匹、腮を地に着けて臥べつて、耳を埀れたまゝ是れ亦尾をすら動かさず、廣庭の仲間に加はつて居た。そして母屋の入口の軒陰から燕が出たり入つたりして居る。
初めは俳畫のやうだと思つて見て居たが、これ實に畫でも何でもない。細雨に暮れなんとする山間村落の生活の最も靜かなる部分である。谷の奧には墓場もあるだらう、人生悠久の流が此處でも泡立ぬまでの渦を卷ゐて居るのである。
十
隨分長く待たされたと思つたが實際は十分ぐらゐで熱海からの人車が威勢能く喇叭を吹きたてゝ下つて來たので直ぐ入れちがつて我々は出立した。
雨が次第に強くなつたので外面の模樣は陰鬱になるばかり、車内は退屈を増すばかり眞鶴の巡査がとう/\
『何方へ行しやいます。』と口を切た。
『湯ヶ原へ行ふと思つて居ます。』と自分がこれに應じた。思つて居るどころか、今現に行きつゝあるのだ。けれど斯ふ言ふのが温泉場へ行く人、海水浴場へ行く人乃至名所見物にでも出掛る人の洒落た口調であるキザな言葉たるを失はない。
『湯ヶ原は可い所です、初めてゞすか。』
『一二度行つた事があります。』
『宿は何方です。』
『中西屋です。』
『中西屋は結構です、近來益可いやうです。さうだね君。』と兔角言葉の少ない鈴木巡査に贊成を求めた。
『さうです。實際彼の家が今一番繁盛するでしよう。』と關羽の鈴木巡査が答へた。
先づこんな有りふれた問答から、だん/\談話に花がさいて東京博覽會の噂、眞鶴近海の魚漁談等で退屈を免れ、やつと江の浦に達した。
『サアこれから下りだ。』と齋藤巡査が威勢をつけた。
『義母これから下りですよ。』
『さう。』
『隨分亂暴だから用心せんと頭を打觸ますよ。』
『さうですか。』
齋藤巡査が眞鶴で下車したので自分は談敵を失つたけれど、湯ヶ原の入口なる門川までは、退屈する程の隔離でもないので困らなかつた。
日は暮れかゝつて雨は益強くなつた。山々は悉く雲に埋れて僅かに其麓を現すばかり。我々が門川で下りて、更に人力車に乘りかへ、湯ヶ原の溪谷に向つた時は、さながら雲深く分け入る思があつた。
●表記について
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