一
定めし今時分は閑散だらうと、其閑散を狙つて來て見ると案外さうでもなかつた。殊に自分の投宿した中西屋といふは部室數も三十近くあつて湯ヶ原温泉では第一といはれて居ながら而も空室はイクラもない程の繁盛であつた。少し當は違つたが先づ/\繁盛に越した事なしと斷念めて自分は豫想外の室に入つた。
元來自分は大の無性者にて思ひ立た旅行もなか/\實行しないのが今度といふ今度は友人や家族の切なる勸告でヤツと出掛けることになつたのである。『其處に骨の人行く』といふ文句それ自身がふら/\と新宿の停車場に着いたのは六月二十日の午前何時であつたか忘れた。兔も角、一汽車乘り遲れたのである。
同伴者は親類の義母であつた。此人は途中萬事自分の世話を燒いて、病人なる自分を湯ヶ原まで送り屆ける役を持て居たのである。
『どうせ待つなら品川で待ちましようか、同じことでも前程へ行つて居る方が氣持が可いから』
と自分がいふと
『ハア、如何でも。』
其處で國府津までの切符を買ひ、品川まで行き、其プラツトホームで一時間以上も待つことゝなつた。十一時頃から熱が出て來たので自分はプラツトホームの眞中に設けある四方硝子張の待合室に入つて小さくなつて居ると呑氣なる義母はそんな事とは少しも御存知なく待合室を出て見たり入つて見たり、煙草を喫て見たり、自分が折り折り話しかけても只だ『ハア』『そう』と答へらるゝだけで、沈々默々、空々漠々、三日でも斯うして待ちますよといはぬ計り、悠然、泰然、茫然、呆然たるものであつた。其中漸く神戸行が新橋から來た。特に國府津止の箱が三四輛連結してあるので紅帽の注意を幸にそれに乘り込むと果して同乘者は老人夫婦きりで頗る空て居た、待ち疲れたのと、熱の出たのとで少なからず弱て居る身體をドツかと投げ下すと眼がグラついて思はずのめりさうにした。
前夜の雨が晴て空は薄雲の隙間から日影が洩ては居るものゝ梅雨季は爭はれず、天際は重い雨雲が被り重なつて居た。汽車は御丁寧に各驛を拾つてゆく。
『義母此處は梅で名高ひ蒲田ですね。』
『そう?』
『義母田植が盛んですね。』
『そうね。』
『御覽なさい、眞紅な帶を結めて居る娘も居ますよ。』
『そうね。』
『義母川崎へ着きました。』
『そうね。』
『義母お大師樣へ何度お參りになりました。』
『何度ですか。』
これでは何方が病人か分なくなつた。自分も斷念めて眼をふさいだ。
二
トロリとした間に鶴見も神奈川も過ぎて平沼で眼が覺めた。僅かの假寢ではあるが、それでも氣分がサツパリして多少か元氣が附いたので懲ずまに義母に
『横濱に寄らないだけ未だ可う御座いますね。』
『ハア。』
是非もないことゝ自分も斷念めて咽喉疾には大敵と知りながら煙草を喫い初めた。老人夫婦は頻りと話して居る。而もこれは婦の方から種々の問題を持出して居るやうだそして多少か煩いといふ氣味で男はそれに説明を與へて居たが隨分丁寧な者で決して『ハア』『そう』の比ではない。
若し或人が義母の脊後から其脊中をトンと叩いて『義母!』と叫んだら『オヽ』と驚いて四邊をきよろ/\見廻して初めて自分が汽車の中に在ること、旅行しつゝあることに氣が附くだらう。全體旅をしながら何物をも見ず、見ても何等の感興も起さず、起しても其を折角の同伴者と語り合て更に興を増すこともしないなら、初めから其人は旅の面白みを知らないのだ、など自分は獨り腹の中で愚痴つて居ると
『あれは何でしよう、そら彼の山の頂邊の三角の家のやうなもの。』
『どれだ。』
『そら彼の山の頂邊の、そら……。』
『どの山だ』
『そら彼の山ですよ。』
『どれだよ。』
『まア貴下あれが見えないの。アゝ最早見えなくなつた。』と老婦人は殘念さうに舌打をした。義母は一寸と其方を見たばかり此時自分は思つた義母よりか老婦人の方が幸福だと。
そこで自分は『對話』といふことに就て考へ初めた、大袈裟に言へば『對話哲學』又たの名を『お喋舌哲學』に就て。
自分は先づ劈頭第一に『喋舌る事の出來ない者は大馬鹿である』
三
『喋舌ることの出來ないのを稱して大馬鹿だといふは餘り殘酷いかも知れないが、少くとも喋舌らないことを以て甚く自分で豪らがる者は馬鹿者の骨頂と言つて可ろしい而して此種の馬鹿者を今の世にチヨイ/\見受けるには情ない次第である。』
『旅は道連、世は情といふが、世は情であらうと無からうと別問題として旅の道連は難有たい、マサカ獨りでは喋舌れないが二人なら對手が泥棒であつても喋舌りながら歩くことが出來る。』など、それからそれと考へて居るうち又眠くなつて來た。
睡眠は安息だ。自分は眠ることが何より好きである。けれど爲うことなしに眠るのはあたら一生涯の一部分をたゞで失くすやうな氣がして頗る不愉快に感ずる、處が今の場合、如何とも爲がたい、眼の閉るに任かして置いた。
[#改行天付きはママ]幾分位眠つたか知らぬが夢現の中に次のやうな談話が途斷れ/\に耳に入る。
『貴方お腹が空きましたか。』
『……甚く空いた。』
『私も大變空きました。大船でお辨を買ひましよう。』
成程こんな談を聞いて見ると腹が空いたやうでもある。まして沈默家の特長として義母も必定さうだらうと、
『義母お腹が空きましたらう。』
『イヽエ、そうでも有りませんよ。』
『大船へ着いたら何か食べましよう。』
『今度が大船ですか。』
『私は眠て居たから能く分りませんが、』と言ひながら外景を見ると丘山樹林の容樣が正にそれなので
『エヽ、最早直ぐ大船です。』
『大變早いこと!』
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