けれども黒くないものがある。それは書籍。
桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書物でもけっして机の上や、座敷の真中に放擲するようなことなどはしない。こういうと桂は書籍ばかりを大切にするようなれどかならずしもそうでない。彼は身の周囲のものすべてを大事にする。
見ると机もかなりりっぱ。書籍箱もさまで黒くない。彼はその必要品を粗略にするほど、東洋豪傑風の美点も悪癖も受けていない。今の流行語でいうと、彼は西国立志編の感化を受けただけにすこぶるハイカラ的である。今にして思う、僕はハイカラの精神の我が桂正作を支配したことを皇天に感謝する。
机の上を見ると、教科書用の書籍そのほかが、例のごとく整然として重ねてある。その他周囲の物すべてが皆なその処を得て、キチンとしている。
室の下等にして黒く暗憺なるを憂うるなかれ、桂正作はその主義と、その性情によって、すべてこれらの黒くして暗憺たるものをば化して純潔にして高貴、感嘆すべく畏敬すべきものとなしているのである。
彼は例のごとくいとも快活に胸臆を開いて語った。僕の問うがまにまに上京後の彼の生活をば、恥もせず、誇りもせず、平易に、率直に、詳しく話して聞かした。
彼ほど虚栄心のすくない男は珍らしい。その境遇に処し、その信ずるところを行なうて、それで満足し安心し、そして勉励している。彼はけっして自分と他人とを比較しない。自分は自分だけのことをなして、運命に安んじて、そして運命を開拓しつつ進んでゆく。
一別以来、正作のなしたことを聞くとじつにこのとおりである。僕は聞いているうちにもますます彼を尊敬する念を禁じえなかった。
彼は計画どおり三カ月の糧を蓄えて上京したけれども、坐してこれを食らう男ではなかった。
何がなおもしろい職を得たいものと、まず東京じゅうを足に任かして遍巡り歩いた。そして思いついたのは新聞売りと砂書き。九段の公園で砂書きの翁を見て、彼はただちにこれともの語り、事情を明して弟子入りを頼み、それより二三日の間稽古をして、間もなく大道のかたわらに坐り、一銭、五厘、時には二銭を投げてもらってでたらめを書き、いくらかずつの収入を得た。
ある日、彼は客のなきままに、自分で勝手なことを書いては消し、ワット、ステブンソン、などいう名を書いていると、八歳ばかりの男児を連れた衣装のよい婦人が前に立った。「ワット」と児供が読んで、「母上、ワットとは何のこと?」と聞いた。桂は顔を挙げて小供に解りやすいようにこの大発明家のことを話して聞かし、「坊様も大きくなったらこんな豪い人におなりなさいよ」といった。そうすると婦人が「失礼ですけれど」といいつつ二十銭銀貨を手渡して立ち去った。
「僕はその銀貨を費わないでまだ持っている」と正作はいって罪のない微笑をもらした。
彼はかく労働している間、その宿所は木賃宿、夜は神田の夜学校に行って、もっぱら数学を学んでいたのである。
日清の間が切迫してくるや、彼はすぐと新聞売りになり、号外で意外の金を儲けた。
かくてその歳も暮れ、二十八年の春になって、彼は首尾よく工手学校の夜学部に入学しえたのである。
かつ問いかつ聞いているうちに夕暮近くなった。
「飯を食いに行こう!」と桂は突然いって、机の抽斗から手早く蟇口を取りだして懐へ入れた。
「どこへ?」と僕は驚いて訊ねた。
「飯屋へサ」といって正作は立ちかけたので
「イヤ飯なら僕は宿屋へ帰って食うから心配しないほうがいいよ」
「まアそんなことをいわないでいっしょに食いたまえな。そして今夜はここへ泊りたまえ。まだ話がたくさん残っておる」
僕もその意に従がい、二人して車屋を出た。路の二三丁も歩いたが、桂はその間も愉快に話しながら、国元のことなど聞き、今年のうちに一度故郷に帰りたいなどいっていた。けれども僕は桂の生活の模様から察して、三百里外の故郷へ往復することのとうてい、いうべくして行なうべからざるを思い、べつに気にも留めず、帰れたら一度帰って父母を見舞いたまえくらいの軽い挨拶をしておいた。
「ここだ!」といって桂は先に立って、縄暖簾を潜った。僕はびっくりして、しばしためらっていると中から「オイ君!」と呼んだ。しかたがないから入ると、桂はほどよき場処に陣取って笑味を含んでこっちを見ている。見廻わすと、桂のほかに四五名の労働者らしい男がいて、長い食卓に着いて、飯を食う者、酒を呑むもの、ことのほか静粛である。二人差向いで卓に倚るや
「僕は三度三度ここで飯を食うのだ」と桂は平気でいって「君は何を食うか。何でもできるよ」
「何でもいい、僕は」
「そうか、それでは」と桂は女中に向かって二三品命じたが、その名は符牒のようで僕には解らなかった。しばらくすると、刺身、煮肴、煮〆、汁などが出て飯を盛った茶碗に香物。
桂はうまそうに食い初めたが、僕は何となく汚らしい気がして食う気にならなかったのをむりに食い初めていると、思わず涙が逆上げてきた。桂正作は武士の子、今や彼が一家は非運の底にあれど、ようするに彼は紳士の子、それが下等社会といっしょに一膳めしに舌打ち鳴らすか、と思って涙ぐんだのではない。けっしてそうではない。いやいやながら箸を取って二口三口食うや、卒然、僕は思った、ああこの飯はこの有為なる、勤勉なる、独立自活してみずから教育しつつある少年が、労働して儲けえた金で、心ばかりの馳走をしてくれる好意だ、それを何ぞやまずそうに食らうとは! 桂はここで三度の食事をするではないか、これをいやいやながら食う自分は彼の竹馬の友といわりょうかと、そう思うと僕は思わず涙を呑んだのである。そして僕はきゅうに胸がすがすがして、桂とともにうまく食事をして、縄暖簾を出た。
その夜二人で薄い布団にいっしょに寝て、夜の更けるのも知らず、小さな豆ランプのおぼつかない光の下で、故郷のことやほかの友の上のことや、将来の望みを語りあったことは僕今でも思い起こすと、楽しい懐しいその夜の様が眼の先に浮かんでくる。
その後、僕と桂は互いに往来していたが早くもその年の夏期休課が来た。すると一日、桂が僕の下宿屋へ来て、
「僕は故郷に帰ってこうかと思う。じつはもうきめているのだ」という意外な言葉。
「それはいいけれども君……」と僕はすぐ旅費等のことを心配して口を開くと
「じつは金もできているのだ。三十円ばかり貯蓄しているから、往復の旅費と土産物とで二十円あったらよかろうと思う。三十円みんな費ってしまうと後で困るからね」というのを聞いて僕は今さらながら彼の用意のほどに感じ入った。彼の話によると二年前からすでに帰省の計画を立ててそのつもりで貯金したとのこと。
どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。
そこで僕もおおいに歓んで彼の帰国を送った。彼は二年間の貯蓄の三分の二を平気で擲って、錦絵を買い、反物を買い、母や弟や、親戚の女子供を喜ばすべく、欣々然として新橋を立出った。
翌年、三十一年にめでたく学校を卒業し、電気部の技手として横浜の会社に給料十二円で雇われた。
その後今日まで五年になる。その間彼は何をしたか。ただその職分を忠実に勤めただけか。そうでない!
彼はおおいなることをしている。彼の弟が二人あって、二人とも彼の兄、逃亡した兄に似て手に合わない突飛物、一人を五郎といい、一人を荒雄という、五郎は正作が横浜の会社に出たと聞くや、国元を飛びだして、東京に来た。正作は五郎のために、所々奔走してあるいは商店に入れ、あるいは学僕としたけれど、五郎はいたるところで失敗し、いたるところを逃げだしてしまう。
けれども正作は根気よく世話をしていたが、ついに五郎を自分のそばに置き、種々に訓戒を加え、西国立志編を繰返して読まし、そして工手学校に入れてしまった。わずかの給料でみずから食らい、弟を養い、三年の間、辛苦に辛苦を重ねた結果は三十四年に至って現われ、五郎は技手となって今は東京芝区の某会社に雇われ、まじめに勤労しているのである。
荒雄もまた国を飛びだした。今は正作と五郎と二人でこの弟の処置に苦心している。
今年の春であった。夕暮に僕は横浜野毛町に桂を訪ねると、宿の者が「桂さんはまだ会社です」というから、会社の様子も見たく、その足で会社を訪うた。
桂の仕事をしている場処に行ってみると、僕は電気の事を詳しく知らないから十分の説明はできないが、一本の太い鉄柱を擁して数人の人が立っていて、正作は一人その鉄柱の周囲を幾度となく廻って熱心に何事かしている。もはや電燈が点いて白昼のごとくこの一群の人を照らしている。人々は黙して正作のするところを見ている。器械に狂いの生じたのを正作が見分し、修繕しているのらしい。
桂の顔、様子! 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂も、今そのなしつつある仕事に打ちこんでいる。僕は桂の容貌、かくまでにまじめなるを見たことがない。見ているうちに、僕は一種の壮厳に打たれた。
諸君! どうか僕の友のために、杯をあげてくれたまえ、彼の将来を祝福して!
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