下
さて石井翁は
「オヤ
先方は全く石井翁に気がつかなかったものと見えて、翁に声をかけらるるといきなり飛びたって帽をとり、
「コレはコレは石井さんですか、あなたとはまるきり気がつかんで失礼しました。」とぺこぺこお辞儀をする。そして顔を少しあからめた様子はよほど
「まアお掛けなさい。そしてその後はどうしました。」
「イヤもうお話にも何にもなりません。」と、腰をおろしながら、
「相変わらずで面目次第もないわけです。」とごま白の
石井翁は綿服ながら小ザッパリした
「でも何かしておられるだろう。」と石井翁はじろじろ河田翁の様子を見ながら聞いた。そして腹の中で、「なるほど相変わらずだな」と思った。
「イヤとてもお話にもなんにも……」とやっぱり頭をかいていたがポケットから
「サアおすいなさい。」
「イヤこれはどうも」と河田翁は遠慮なく一本ぬき取って、石井翁から火を借りた。
この二老人は三十歳前後のころ、ある役所で一年余り同僚であったばかりでなく、石井の親類が河田の親類の親類とかで、石井一
「しかし遊んでもいなさらんだろうが。」と石井翁はどこまでも心配そうに聞く。
「イヤとてもお話にもなんにも……」
これが河田翁持ち前の一つで、人に対すると言いたいことも言えなくなり、つまらんところに自分を卑下してしまうのである。
「あなたがわたしの
「そうなりますかね、早いものだ……。」
「あの時、あなたが、一杯きげんで『雨の
「ハヽヽ」といっしょに笑ったぎり、河田翁は何も言わない。そしてなんとなくそわそわしている。
三十の年に恩人の無理じいに屈して、養子に行き、養子先の娘の半気違いに辛抱しきれず、ついに敬太郎という男の子を連れて飛びだしてしまい、その子は姉に預けて育ててもらう、それ以後は決して妻帯せず、純然たるひとり者で、とうとう六十余歳まで通して来たのが河田翁の一生である。
このひとり者が翁の不遇の原因をなしたのか、不遇がひとり者の原因であったのか、これをわかつことはできない。
善人で、酒もしいては飲まず、これという道楽もなく、出入交際の人々には義理を堅くしていて、そしてついに不遇で、いつもまごまごして安定の所を得ず
そこで石井の人々初め翁を知っている者はみな『気の毒な人だ』と言い、また不思議なことだと評している。しかし皆々言い合わしたように一致している『理由』がないのでもない。第一、河田さんはいくじがない。その証拠には、養子に行く前に深く言いかわした女があった、いよいよ養子に行くときまるや五円で帯の片側を買って、それを手切れ同様に泣く泣く別れた。第二に、案外片意地で高慢なところがあって、
なるほどそう聞かされると翁の知人どものいわゆる『理由』は多少の『理由』を成している。
けれど大なる理由がまだなければならぬ。人がもし壮年の時から老人の時まで、純然たる独身生活すなわち親子兄弟の関係からも離れてただ一人、今の社会に住むなら並み大抵の人は河田翁と同様の運命に陥りはせまいか、老いてますます富みかつ栄えるものだろうか。
翁の子敬太郎は翁とまるきり無関係で育ちかつ世に立った。そして二十五六のころ、
石井翁はむろんこういうことを考えて研究もせず、ただ気の毒がる仲間の一人ゆえ、どうにかして今の境遇も聞いてみたいと思い、古い事まで話題にしてみたが、河田翁は少しも引き立たない。ただそわそわしている。
「何時でしょうか」と河田翁は卒然聞いた。石井翁は帯の間から銀時計の大きいのを出して見て、
「三時半です」
「イヤそれじゃもう行かなきゃならん。」と河田翁は口早に言って、急に声を潜め、あたりをきょろきょろ見回しながら、
「実はわたし、このごろある婦人会の集金係をしているのですから、毎日毎日東京じゅうをへめぐらされるので、この年ではとてもやり切れなくなりました、そこでも少し楽な仕事をと頼んで歩きましたら、やっとうまい口が
石井翁は取り残されて
河田翁が延び上がって遠くまで見回したのは巡査がこわかったのだ。そこで翁と巡査とすれ違った時に、河田翁は急に帽子に手をかけて礼をした。石井翁は見ていてその意味がわからなかった。
底本:「号外・少年の悲哀 他六篇」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年4月17日 第1刷発行
1960(昭和35)年1月25日 第14刷改版発行
1981(昭和56)年4月10日 第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:鈴木厚司
2000年7月12日公開
2004年6月24日修正
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