上
秋は小春のころ、石井という老人が
日はやや西に傾いて赤とんぼの羽がきらきらと光り、風なきに風あるがごとくふわふわと飛んでいる、老人は目をしばたたいてそれをながめている、見るともなしに見ている。
老人の前を幾組かの人が通った。老えるも若きも、病めるも健やかなるも。されどたれあってこの老人を気に留める者もなく、老人もまた人が通ろうと犬が過ぎ行こうと
右の手を左の
スパリスパリといかにもうまそうである。青い煙、白い煙、目の先に透明に光って、
「オヤ、あれは
と石井翁は消えゆく煙の末に浮かび出た洋服姿の年若い紳士を見て思った。
この姿のおかげで老人は空々寂々の
徳の姿を見ると
徳の説く所もまんざら無理ではない。道理はあるが、あの徳の言い草が本気でない。真実
石井翁は一年前に、ある官職をやめて恩給三百円をもらう身分になった。月に割って二十五円、一家は妻に
例を車夫や職工にとって、食って行けないはずはないと主張するのである。むろん食うに食われない理屈はない、家賃、米代以下お新の学校費まで計算して、なるほど二十五円で間に合わそうと思えば間に合うのである。
それで石井翁の主張は、間に合いさえすれば、それでやってゆく。いまさらわしが隠居仕事で
というのである。だから役をひいた時、知人やら親族の者が、隠居仕事を勧め、中には先方にほぼ
ところが武の母は石井翁の細君の妹だけに、この無為主義をあやぶみ、姉は盲従してこそおれ、女はやっぱり女、石井さんの隠居仕事で二十五円の上に十円ふえるならどのくらい楽と思うか知れないと、武をして石井翁を説き落とさすつもりでいるのである。
彼は変物だと最初世話をしかけた者が手をひいた時分。ある日曜日の午後二時ごろ、武は様子を見るべく
「御免なさい。」と武は上がり口の障子をあけたが、茶の間にだれもいない。
「武です。」とつけ加えた。すると座敷で、
「徳さんかえ、サアお上がり。」と言ったのが
武は上がってふすまをあけると、座敷のまん中で
「徳さん少し待っておくれ。じき勝負がつくから」と一心不乱の
「どうかごゆっくり。」と徳さんの武もこのほかに挨拶のしようがない。ただあきれ返って、しょうことなしに盤面を見ていた。
「徳さんは碁が打てたかね。」と叔父は打ちながら問うた。
「まるでだめです。」
「でも四つ目殺しぐらいはできるだろう。」
「五目並べならできます。」
「ハハヽヽヽヽ五目並べじゃしかたがない。」
「叔母さんが碁をお打ちになることは、僕ちっとも知りませんでした。」
「わたしですか、わたしはこれでずいぶん古いのですよ。」と叔母は言ったが振り向きもしない。
「しょっちゅう打っていらっしゃったのですか。」
「いいえ、やたらに打ちだしたのは
「なりません。」と石井翁、一ぷくつけてスパリスパリと
「だってこの
「だからさっきから、わしは「待ちませんよ、」「待ちませんよ」と二三度も警告を発しておいたじゃないか。」
「待ちませんはあなたの口癖ですよ。」
「だれがそんな癖をつけました、わたしに。」
武は思わずクスリと笑った。
「それじゃどうあっても待ってくださらんの。」
「マア待ちますまい、癖になるから。」
と言われて、叔母は盤面を見渡してしばらく考えていたが、
「それじゃ投げましょう。そこが切れては碁にはなりませんもの。」
「まずそう言ったような形だね。」
そこで叔母は投げ出した。これから改まって
右の次第で徳さんの武もついに手をひいて半年余りもたつと、母はやっぱり気になると見えて、どうにかして石井さんを説き落としてくれろと頼む。そこで武も隠居仕事の五円十円説では到底夫婦さし向かいの碁打ちを説き落とすことはできないと考え、今度は遊食罪悪説を持ち出して
石井翁はさんざん徳さんの武に言わしておいたあげく、
「それじゃ、山に隠れて木の実を食い露を飲んでおる人はどうする。」
「あれは
「仙人だって人だ。」
「それじゃ
「市に隠れた仙人のつもりでおるのだ。」
これで武はまたも撃退されてしまったのである。
二老人(にろうじん)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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