下
お源は真蔵に見られても巧く誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から見下した時は土竈炭を袂に入れ佐倉炭を前掛に包んで左の手で圧え、更に一個取ろうとするところであったが、元来性質の良い邪推などの無い旦那だから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。
そこで磯吉が仕事から帰る前に布団を被って寝て了った。寝たって眠むられは仕ない。垢染た煎餅布団でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も凌げるが一人では板のようにしゃちっ張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる慄えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知ん位だ。
色々考えると厭悪な心地がして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。先達からちょくちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的に人目を忍んで他の物を取ったのは今度が最初であるから一念其処へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖も羞恥も籠っていた。
眼前にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然出て来る、そしてテレ隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。
「真実にどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして徐々逆上気味になって来た。「もしか知れたらどうする」。「知れるものかあの旦那は性質が良いもの」。「性質の良いは当にならない」。「性質の善良のは魯鈍だ」。と促急込んで独問答をしていたが
「魯鈍だ、魯鈍だ、大魯鈍だ」と思わず又叫んで「フン何が知れるもんか」と添足した。そして布団から首を出して見ると日が暮れて入口の障子戸に月が射している。けれども起きて洋燈を点けようとも仕ないで、直ぐ首を引込て又た丸くなって了った。そこへ磯吉が帰って来た。
頭が割れるように痛むので寝たのだと聞いて磯は別に怒りもせず驚きもせず自分で燈を点け、薬罐が微温湯だから火鉢に炭を足し、水も汲みに行った。湯の沸騰るを待つ間は煙草をパクパク吹していたが
「どう痛むんだ」
返事がないので、磯は丸く凸起った布団を少時く熟と視ていたが
「オイどう痛むんだイ」
相変らず返事がないので磯は黙って了った。その中湯が沸騰て来たから例の通り氷のように冷た飯へ白湯を注けて沢庵をバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。
布団の中でお源が啜泣する声が聞えたが磯には香物を噛む音と飯を流し込む音と、美味いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も止んだのである。
磯が火鉢の縁を忽々叩き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏って其処へ坐った。前が開て膝頭が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻りに啜泣を為ている。
「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽えた様子は少しも見えない。
「磯さん私は最早つくづく厭になった」と言い出してお源は涙声になり
「お前さんと同棲になってから三年になるが、その間真実に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様とは思わんけれど、これじゃ余りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」
磯は黙っている。
「これじゃ唯だ食って生きてるだけじゃないか。饑死する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら誰だってするよ。それじゃ余り情ないと私は思うわ」涙を袖で拭て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに唯た二人きりの生活だよ。それがどうだろう、のべつ貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで何時でもこんな物置か――」
「何を何時までべらべら喋舌てるんだい」と磯は矢張お源の方は向ないで、手荒く煙管を撃いて言った。
「お前さん怒るなら何程でもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は急促込んで言った。
「貧乏が好きな者はないよ」
「そんなら何故お前さん月の中十日は必然休むの? お前さんはお酒は呑ないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら如斯貧乏は仕ないんだよ。――」
磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。
「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように計量炭もろくに買ないような情ない……」
お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏を突掛けるや戸外へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家を訪ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛に一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと謝絶られた。
帰路に炭屋がある。この店は酒も薪も量炭も売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源も此店へ炭を買いに来るのである。新開地は店を早く終うのでこの店も最早閉っていた。磯は少時く此店の前を迂路々々していたが急に店の軒下に積である炭俵の一個をひょいと肩に乗て直ぐ横の田甫道に外て了った。
大急で帰宅って土間にどしりと俵を下した音に、泣き寝入に寝入っていたお源は眼を覚したが声を出なかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中に潜り込んだ。
翌朝になってお源は炭俵に気が着き、喫驚して
「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」
「買って来たのサ」と磯は布団を被ってるまま答えた。朝飯が出来るまでは磯は床を出ないのである。
「何店で買ったの?」
「何処だって可いじゃないか」
「聞いたって可いじゃないか」
「初公の近所の店だよ」
「まアどうしてそんな遠くで買ったの。……オヤお前さん今日お米を買うお銭を費って了やアしまいね」
磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッて八か間しく言うから昨夜金公の家へ往って借りようとして無ってやがる。それから直ぐ初公の家へ往ったのだ。炭を買うから少ばかり貸せといったら一俵位なら俺家の酒屋で取って往けと大なこと言うから直ぐ其家で初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日は保るだろう」
「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、先ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか自宅なら十日もあるよ」
昨夜磯吉が飛出した後でお源は色々に思い難んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと却て疑がわれるとこう考えたのである。
其処で平常の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて一通片附たところでバケツを持って木戸を開けた。
お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て
「お源さん大変顔色が悪いね、どうか仕たの」
「昨日から少し風邪を引たもんですから……」
「用心なさいよ、それは不可い」
お徳は「お早う」と口早に挨拶したきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が着き顔色を変えて眼をぎょろぎょろさしているのを見て、にやり笑った。お源は又た早くもこれを看取りお徳の顔を睨みつけた。お徳はこう睨みつけられたとなると最早喧嘩だ、何か甚い皮肉を言いたいがお清が傍に居るので辛棒していると十八九になる増屋の御用聞が木戸の方から入て来た。増屋とは昨夜磯吉が炭を盗んだ店である。
「皆様お早う御座います」と挨拶するや、昨日まで戸外に並べてあった炭俵が一個見えないので「オヤ炭は何処へ片附けたのですか」
お徳は待ってたという調子で
「あア悉皆内へ入ちゃったよ。外へ置くとどうも物騒だからね。今の高価い炭を一片だって盗られちゃ馬鹿々々しいやね」とお源を見る、お清はお徳を睨む、お源は水を汲んで二歩三歩歩るき出したところであった。
「全く物騒ですよ、私の店では昨夜当到一俵盗すまれました」
「どうして」とお清が問うた。
「戸外に積んだまま、平時放下って置くからです」
「何炭を盗られたの」とお徳は執着くお源を見ながら聞いた。
「上等の佐倉炭です」
お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、踉蹌いて木戸の外に出た。
土間に入るやバケツを投るように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。
「まア佐倉炭だよ!」と思わず叫んだ。
お徳は老母からも細君からも、みっしり叱られた。お清は日の暮になってもお源の姿が見えないので心配して御気慊取りと風邪見舞とを兼ねてお源を訪ねた。内が余り寂然しておるので「お源さん、お源さん」と呼んでみた。返事がないので可恐々々ながら障子戸を開けるとお源は炭俵を脚継にしたらしく土間の真中の梁へ細帯をかけて死でいた。
二日経って竹の木戸が破壊された。そして生垣が以前の様に復帰った。
それから二月経過と磯吉はお源と同年輩の女を女房に持って、渋谷村に住んでいたが、矢張豚小屋同然の住宅であった。
●表記について
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