今から思いますと、やはりそのころ私はおさよを慕うていたに違いないのです、おさよが私を抱いて赤児扱いにするのを私は表面で嫌がりながら内々はうれしく思い、その温たかな柔らかい肌で押しつけられた時の心持は今でも忘れないのでございます。女難といえばその時もう女難に罹っていたといってもよろしゅうございましょう。
母は毎日のように、女はこわいものだという講釈をして聴かし、いろいろと昔の人のことや、城下の若い者の身の上などを例えに引いて話すのでございます。安珍清姫のことまで例えに引きました。外面如菩薩内心如夜叉などいう文句は耳にたこのできるほど聞かされまして、なんでも若い女と見たら鬼か蛇のように思うがよい、親切らしいことを女が言うのは皆な欺ますので、うかとその口に乗ろうものならすぐ大難に罹りますぞよというのが母の口癖でありましたのでございます。
私は母を信仰していましたから母の言うことは少しも疑いませんでした。それですからおさよも事によったら内心如夜叉ではないかとこわがりながらも、自分で言いわけをこしらえて、おさよさんはまだ子供だし自分もまだ子供だからそんなこわいことはない、おさよさんが自分を可愛がるのは真実に可愛がるので決して欺すのじゃあないとこういう風に考えていたのでございます。
ところがある日、日の暮に飯塚の家の前を通るとおさよが飛び出して来て、私を無理に引っ張り込みました。そしてなぜこの四五日遊びに来なかったと聞きますから、風邪を引いたといいますと、それは大変だ、もう癒ったかと、私の顔を覗きこんで、まだ顔色がよくない、大事になさいよ修さんが病気になったら私は死んでしまうと言ってじっと私の眼を見るのでございます。私は気が弱うございますからこういわれますとなんだかうれしいやら悲しいやらツイわれ知らず涙ぐみました、それを見ておさよは私を抱きかかえましたが見るとおさよも眼に一杯涙をもっているのでございます。そして今夜は泊れおっかさんの代りに私が抱いて寝てあげるからといいます。おっかさんに叱られるからいやだと申しますと、おっかさんには私が今往って謝って来るからかまわないといいます。その時私が、もし母上に言ったらなお叱られる、おさよさんのとこへ遊びに来るのも内証なんだからと小声で言いましたら、いきなり私を突き離して、なぜ内証で来るの、修さんと私と遊んじゃア悪いの、悪いのならもう来なくってもようござんすよと、こわい顔をして私を睨みつけたのでございます。私は慄るい上って縁がわから飛び下り、一目散に飯塚の家から駈け出しました。
それからというものは決して飯塚に参りません、おさよに途で逢っても逃げ出しました。おさよは私の逃げ出すのを見ていつもただ笑っていましたから、私はなおおさよが自分を欺しかけていたのだと信じたものでございます。
四
次の女難は私の十九の時でございます。この時はもう祖母も母も死んでしまい、私は叔母の家の厄介になりながら、村の小学校に出してもらって月五円の給料を受けていました。祖母の亡くなったのは十五の春、母はその秋に亡くなりましたから私は急に孤児になってしまい、ついに叔母の家に引き取られたのでございます。十八の年まで淋しい山里にいて学問という学問は何にもしないでただ城下の中学校に寄宿している従兄弟から送って寄こす少年雑誌見たようなものを読み、その他は叔母の家に昔から在った源平盛衰記、太平記、漢楚軍談、忠義水滸伝のようなものばかり読んだのでございます。それですから小学校の教師さえも全くは覚束ないのですけれど、叔母の家が村の旧家で、その威光で無理に雇ってもらったという次第でございました、母の病気の時、母はくれぐれも女に気をつけろと、死ぬる間際まで女難を戒しめ、どうか早く立身してくれ、草葉の蔭から祈っているぞと言って死にました。けれどもどうして立身するか、それはまるで母にも見当がつかなかったのでございます。母は叔母の家から私の学資を出さそうとしたらしゅうございました。これが都合よく参りませんものですから、私の立身を堅く信じながらも、ただそれは漠としたことで、実は内々ひどく心痛したものと見えます。それですから母としてはただ女難を戒しめるほかに私の立身の方法はなかったのでございます。私はまたうまれつき意気地がないのかして、自分の立身のことにはどういうものかあまり気をかけませんでした。ただ母に急に別れたので、その当坐の悲しさ、一月二月は叔母の家にいても、どうかすると人の見ぬところで、めそめそ泣いておりました。
月日の経つうちに悲しみもだんだん薄らぎ、しまいには時々思い出すぐらいのことで、叔母の親切にほだされ、いつしか叔母を母のように思うて日を送るようになったのでございます。
十八の歳から、叔母の家を五丁ばかり離れた小学校に通って、同僚の三四人とともに村の子供の世話をして、夜は尺八の稽古に浮身をやつし、この世を面白おかしく暮すようになりました。尺八の稽古といえば、そのころ村に老人がいまして、自己流の尺八を吹いていましたのを村の若い者が煽てて大先生のようにいいふらし、ついに私もその弟子分になったのでございます。けれども元大先生からして自己流ですから弟子も皆な自己流で、ただむやみと吹くばかり、そのうち手が慣れて来れば、やれ誰が巧いとか拙いとかてんでに評判をし合って皆なで天狗になったのでございます。私の性質でありましょうか、私だけは若い者の中でも別段に凝り固まり、間がな隙がな、尺八を手にして、それを吹いてさえいれば欲も得もなく、朝早く日の昇らぬうちに裏の山に上がって、岩に腰をかけて暁の霧を浴びながら吹いていますと、私の尺八の音でもって朝霧が晴れ、私の転ばす音につれて日がだんだん昇るようにまで思ったこともあったのでございます。
それですから自然と若い者の中でも私が一番巧いということになり、老先生までがほんとに稽古すれば日本一の名人になるなどとそそのかしたものです。そのうち十九になりました。ちょうど春の初めのことでございます。日の暮方で、私はいつもの通り、尺八を持って村の小川の岸に腰をかけて、独り吹き澄ましていますと、後から『修蔵様』と呼ぶものがあります。振りかえって見ると武之允といういかめしい名を寺の和尚から附けてもらった男で隣村に越す坂の上に住んでいる若い者でした。
『なんだ。武之允山城守』
『全く修蔵様は尺八が巧いよ』とにやにや笑うのです。この男は少し変りもので、横着もので、随分人をひやかすような口ぶりをする奴ですから、『殴るぞ』と尺八を構えて喝す真似をしますと、彼奴急に真面目になりまして、
『修蔵様に是非見てもらいたいものがあるんだが見てくれませんか』と妙なことを言い出したのでございます。変に思いまして、
『なんだろう、私に見てもらいたいというのは』
『なんでもいいから、ただ見てもらえばいいのだ』
『どんなものだい、品物かい』と問いますと武の奴、妙な笑いかたをして、
『あなたの大すきなものだ』
『手前はおれをなぶるなッ』
『なぶるのじゃアない、全く見てもらいたいのでござんす。私のお頼みだから是非見てやって下さい』と今度はまた大真面目に言うのでございます。
『よろしい、見てやろうから出せ』
『出せって、今ここにはありません、ちょっと私の家へ来てもらいたいのでございますが』
『お家の宝、なんとかの剣という品物かな』と私がいいますと今度また妙に笑い出しまして、
『まずそんな物でございます、何しろ宝にゃ相違ないのだから、ウンそうだ、宝でございます』と手を拍ちますので私も不思議で堪りません、私の方からも見たくなりましたから、
『それじゃこれから一緒に行こう、サア行って見てやろう』とそれから二人連れ立ちまして、武の家に参りました。
前に申しました通り武の家は小さな坂の頂にあるのでございます。叔母の家からは七八丁もありましょうか、その坂の下に例の尺八の大先生が住んでいるのでございますから私も坂の下までは始終参りますが、坂に登ったことは三四度しかありません。この坂を越しますと狭い谷間でありまして、そこに家が十軒とはないのです。だからこの坂を越すものは村の者でもたくさんはないのでござります。武の家は一軒の母屋と一軒の物置とありますが物置はいつも戸が〆切ってあってその上に崕から大きな樫の木がおっかぶさっていますから見るからして陰気なのでございます。母屋も広い割合には人気がないかと思われるばかり、シンとしているのです。家にむかいあった崕の下に四角の井戸の浅いのがありまして、いつも清水を湛えていました。総体の様子がどうも薄気味の悪いところで、私はこの坂に来て、武の家の前を通るたびにすぐ水滸伝の麻痺薬を思い出し、武松がやられました十字坡などを想い出したくらいです。
それですが、武から妙なことを言われて大いに不思議に思っている上に武の家に連れてゆかれますのですから、坂を上りながらも内々薄気味が悪くなって来たのです。途々、武に何を見せるのだと聞きましても、武はどうしても言わないばかりか、しめたという顔つきをして根性の悪い笑い方をするのでございました。
日はすっかり暮れて、十日ごろの月が鮮やかに映していましたが、坂の左右は樹が繁っていますから十分光が届かないのでございます。上りは二丁ほどしかありません、すぐ武の家の前に出ました。家の前は広くなって樹の影がないので月影はっきりと地に印していました。
障子に燈火がぼんやり映って、家の内はひっそりとしています。武は黙って内庭に入りました。私は足が進みません、外でためらっていますと、
『お入りなされ!』と暗いところで武が言いました。
その声は低いけれども底力があって、なんだか私を命令するようでした。
『ここで見てやるから持って来い』と私は外から言いました。
『お入りなされと言うに!』と今度はなお強く言いましたので私も仕方がないから、のっそり内庭に入りました。私の入ったのを見て、武は上にあがり茶の間の次ぎに入りました。しばらく出て参りません、その様子が内の誰かとこそこそ話をしているようでした。間もなく出て参りまして、今度は優しく、
『お上りなされませ、汚ないけえども』といいますから少しは安心して上りました。そして武の案内で奥の一間に入りますと、ここは案外小奇麗になっていまして、行燈の火が小さくして部屋の隅に置いてありました。しかしまず私の目につきましたのはそこに一人の娘が坐っていることでございます。私が入ると娘は急に起とうとしてまた居住いを直して顔を横に向けました。私は変ですから坐ることもできません、すると武が出し抜けに、
『見てもらいたいと言うたのはこれでございます』というや女は突っ伏してしまいました。私はなんと言ってよいか、文句が出ません、あっけに取られて武の顔を見ると、武も少し顔を赤らめて言いにくそうにしていましたが、
『まアここへ坐って下さりませ、私はちょっと出て来ますから』と言い捨てて行こうとしますから、
『なんだ、なんだ、私はいやだ、一人残るのは』と思わず言いますと、
『それでは坐って下さらんのか』と言ってこわい顔をして私を睨みました。私が帰るといえばすぐにでも蹶飛ばしそうな剣幕ですから私も仕方なしにそこに坐って黙っていますと、娘は泣いておるのです。嗚咽びかえっているのです、それを見た武の顔はほんとうに例えようがありません、額に青筋を立てて歯を喰いしばるかと思うと、泣き出しそうな顔をして眼をまじまじさせます。何か言い出しそうにしては口のあたりを手の甲で摩るのでございます。
『一体どうしたのだ』と私も事の様子があんまり妙なので問いかけました。しますると武がどもりながらこういうのでございます。妹が是非あなたに遇わしてくれと言って聞かない、いろいろ言い聞かしたがどうしても承知しない、それだからあなたを欺して連れて来たのだ、どうか不憫な女だと思って可愛がってやってくれ、私から手を突いて頼むから、とまずこういう次第なのです。馬鹿馬鹿しい話だとお笑いもございましょうが、全くそうでしたので、まず私が村の色男になったのでございます。
そのころ私は女難の戒めをまるで忘れたのではありませんが、何を申すにも山里のことですから、若い者が二三人集まればすぐ娘の評判でございます。小学校の同僚もなんぞと言えばどこの娘は別嬪だとか、あの娘にはもう色があるとか、そんな噂をするのは平気で、全くそれが一ツの楽しみなのですから、私もいつかその風に染みまして村の娘にからかって見たい気も時々起したのでございます。さすが母の戒めがありますから、うかとは手も出しませんでしたが、決して心からその実、女を恐れていたのではなく、もしよい機会があったらきっと色の一ツぐらいできるはずになっていたのでございます。
ところで武の妹はお幸と申しまして若い者のうちで大評判な可愛い娘でございまして年はそのころ十七でした。私も始終顔を見知っていましたが言葉を交わしたことはなかったのです。先方では私が叔母の家の者であり、学校の先生ということで遇うたびに礼をして行き過ぎるのでございます、田舎の娘に似わない色の白い、眼のはっきりとした女で、身体つきよくおさよに似てすらりとしていました。城下の娘にもあのくらいなのは少ないなどと村の者が自慢そうに評判していたのですが全くそうだと私も遇うたびに思っていたのでございます。でありますから、私も眼の前にお幸を突きつけられて、その兄から代って口説かれましては女難なぞを思うことができなかったのです。それに気の弱い私ですから、よしんば危いことと気がつきましたところで、とてもあの場合、武とお幸を振りきって逃げて帰るというような思いきった所作は私にはできないのでございました。
その後は私も二晩置きか三晩置きには必ずお幸のもとに通いましたが、ごく内証にしていましたから、誰も気がつきませんでした。それに兄の武之允が何かにつけてかばってくれますし、また武の女房も初めからよく事情を知っていて、やはり武と同じようにお幸と私の仲をうまくゆくようにのみ骨を折ってくれましたので私も武の家ではおおびらで遊んだものでございます。
二人の仲は武の夫婦から時々冷かされるほど好うございました。かれこれするうち二月三月も経ち、忘れもしません六月七日の晩のことです。夜の八時ごろ、私はいつものようにお幸のもとに参りますと、この晩は宵から天気模様が怪しかったのが十時ごろには降りだして参りました。大降りにならぬうち、帰ろうと言い出しますと、お幸と武の女房が止めて帰しません、武は不在でございましたが、今に帰るだろうから帰ったら橋まで送らすからと申しますのでしばらくぐずぐずしていますと、武が帰って参りました。どこで飲んだかだいぶ酔っていましたが、私が奥の部屋に臥転んでいると、そこへずかずか入って来まして、どっかり大あぐらをかきました。お幸は私の傍に坐っていたのでございます。
『そとは大変な降りでござりますぜ、今夜はお泊りなされませ』と武は妙に言いだしました、と申すのは私がこれまで泊ろうとしても武は、もし泊まって事が知れたらまずいからといつも私を宥めて帰しましたので、私も決して泊ったことはなかったのです。
『イヤやはり泊らん方がよかろう』と私の言いますのを、打ち消すようにして武は、
『実は今夜少しばかり話がありますから、それでお泊りなされというのだから、お泊りなされというたらお泊りなされ』と語気がやや暴ろうなって参りました。舌も少し廻りかねる体でございました。
『話があるッてなんだろう、今すぐ聞いてもいいじゃアないか』
『あなた気がついていますか』と出し抜けに聞かれました。
『何をサ?』私は判じかねたのでございます。
『だからあなたはいけません、お幸はこれになりましたぜ』と腹に手を当てて見せましたので私はびっくりしてしまったのでございます。お幸は起って茶の間に逃げました。
『ほんとかえ、それは』と思わず声を小さくしました。
『ほんとかって、あなたがそれを知らんということはない、だけれども知らなかったらそれまでの話です、もうあなたも知ってみればこの後の方法をつけんじゃア』
『どうすればええだろう?』と私は気が顛倒していますから言うことがおずおずしています、そうしますと武はこわい眼をして、
『今になってそれを聞く法がありますか、初めからわかりきっているじゃありませんか、あなたの方でもこうなればこうと覚悟があるはずじゃ』
言われて見ればもっともな次第ですが、全く私にはなんの覚悟もなかったので、ただ夢中になってお幸のもとに通ったばかりですから、かように武から言われると文句が出ないのです。
私の黙っているのを見て、武はいまいましそうに舌打ちしましたが、
『すぐ公然の女房になされ』
『女房に?』
『いやでござりますか?』
『いやじゃないが、今すぐと言うたところで叔母が承知するかせんかわからんじゃないか』
『叔母さんがなんといおうとあなたがその気ならなんでもない、あなたさえウンと言えば私が明日にでも表向きの夫婦にして見せます。なにもここばかりが世界じゃないから、叔母さんや村の者がぐずぐず言やア二人でどこへでも出てゆけばいい、人間一匹何をしても飯は喰えますぞ!』とまで云われて私も急に力が着きましたから、
『よろしい、それではともかくも一応叔母と相談して、叔母が承知すればよし、故障を言えばお前のいう通り、お幸と二人で大阪へでも東京へでも飛び出すばかりだが、お幸はこれを承知だろうか』
『ヘン! そんなことを私に聞くがものはありませんじゃないか、あなたの行くところならたとい火の中、水の底と来まサア!』と指の尖で私の頬を突いて先の剣幕にも似ず上気嫌なんです。
その晩はそれで帰りましたが、サアこの話がどうしても叔母に言い出されないのでございます。それと申すのは叔母も私の母より女難の一件を聞いていますし、母の死ぬる前にも叔母に女難のことは繰り返して頼んでおいたのですから、私の口からお幸のことでも言い出そうものならどんなに驚きもし、心配もするかわからないのでございます、次の朝から三日の間、私は今言おうか、もう切り出そうかと叔母の部屋を出たり入ったりしましたが、とうとう言うことができなかったのでございます。
叔母に言うことができないとすれば、お幸と二人で土地を逃げる他に仕方がないと一度は逃亡の仕度をして武の家に出かけましたが、それもイザとなって踏み出すことができませんでした。と申すのは、『これが女難だな』という恐ろしい考えが、次第次第にたかまってきて、今までお幸のもとに通ったことを思うと『しまった』という念が湧き上るのでございます。それですからもし、お幸を連れて逃げでもすれば、行く先どんな苦労をするかも知れず、それこそ女難のどん底に落ちてしまうと、一念こうなりましてはかけおちもできなくなったのでございます。
それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げるという了見になりました、忘れもいたしません、六月十五日の夜、七日の晩から七日目の晩でございます、お幸に一目逢いたいという未練は山々でしたが、ここが大事の場合だと、母の法名を念仏のように唱えまして、暗に乗じて山里を逃亡いたしました、その晩あたりは何も知らないお幸が私の来るのを待ち焦れていたのに違いありません。女に欺されてはならぬとばかり教えられた私がいつか罪もない女を欺すこととなり、女難を免れるつもりで女を捨てた時はもう大女難にかかっていたので、その時の私にはそれがわからなかったのでございます。
叔母の家から持ち出した金はわずか十円でございますから東京へ着きますと間もなく尺八を吹いて人の門に立たなければならぬ次第となりましたのです。それから二十八の年まで足かけ十年の間のことは申し上げますまい。国とは音信不通、東京にはもちろん、親族もなければ古い朋友もないので、種々さまざまのことをやって参りましたが、いつも女のことで大事の場合をしくじってしまいました。二十八になるまでには公然の妻も一度は持ちましたが半年も続かず、女の方から逃げてしまいました。しかしその妻も私が本郷に下宿しておるうちにそこの娘とできやったのでございます。
二十八の時の女難が私の生涯の終りで、女難と一しょに目を亡くしてしまったのでございますから、それをお話しいたして長物語を切り上げることにいたします。
五
二十八の夏でございました、そのころはやや運が向いて参りまして、鉄道局の雇いとなり月給十八円貰っていましたが女には懲りていますから女房も持たず、婆さんも雇わず、一人で六畳と三畳の長屋を借りまして自炊しながら局に通っておったのでございます。
住居は愛宕下町の狭い路次で、両側に長屋が立っています中のその一軒でした。長屋は両側とも六軒ずつ仕切ってありましたが、私の住んでいたのは一番奥で、すぐ前には大工の夫婦者が住んでいたのでございます。
長屋の者は大通りに住む方とは違いまして、御承知でもございましょうが、互いに親しむのが早いもので、私が十二軒の奥に移りますと間もなく、十二軒の人は皆な私に挨拶するようになりました。
その中でも前に住む大工は年ごろが私と同じですし、朝出かける時と、晩帰える時とが大概同じでございますから始終顔を合わせますのでいつか懇意になり、しまいには大工の方からたびたび遊びに来るようになりました。
大工は名を藤吉と申しましたが、やはり江戸の職人という気風がどこまでもついて廻わり、様子がいなせで弁舌が爽やかで至極面白い男でございました。ただ容貌はあまり立派ではございません、鼻の丸い額の狭いなどはことに目につきました。笑う時はどこかに人のよい、悪く言えば少し抜けているようなところが見えて、それがまたこの人の愛嬌でございます。
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