三
その夜八時過ぎでもあろうか、雨はしとしと降っている、踏切の
『なるほど四合では足りねエ。』
『何がなるほどだよ。』女房はもう不平らしい。
『
『ばか言ってらア。』女房には何のことだかわからない。
『お菊、もう二合取って来てくんねエ。』
『およしよ
『あってもいいよ、二合取って来てくんねエ。
『だれにさ、だれに口がきけねえんだよ。ばかばかしい。』
『なるほどうまいことを言うじゃアないか、今日おいらが
『大きにお世話だッて言ってやればいいに。』と女房は言って見たが、笑わざるを得なかった、娘も笑った。
『だから二合取って来てくんねえッてんだ。』
『ほんとに今夜はおよしよ、道が悪くってお菊がかあいそうだから。』女房は優しく言った。
『いいよわたし行って来ても。』娘は針を置いた。
『やっぱり四合かな。』
三人とも暫時無言。
『お前さん薬が
『ハハハハハ』
『チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。
『ばか言ってらア、死ぬる
あくまで太い事をいって、立ち上がって便所へ行きながら、『その代わり便所の窓から念仏の一つも唱えてやらア。』
『あれだもの』女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。
『何を言っても命あっての
この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような
『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、
娘が来て、
『何言ってるの?』気味わるそうに言う。
『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか
『何言ってるの。』
『まア出直した方がいいねエ、どうせ死ぬなら月でもいい晩の方がまだしゃれてらア。』
『いやな、』と娘は言って座敷の方へどたばたと逃げ出してしまった。
『出直した、出直した。その方がいい、あばよ、』と言って
『ほんとにこんなとこア早く越してしまいたいねえ、薄気味の悪い。しまいにはろくなことはないよ、ねえお菊。』
『そうねえ。』娘はさほどにも思わぬよう。
『この月になってからでも
娘は黙って相手にならない。二人は無言で仕事をしていたが、母の手は折り折りやんで、その
『オヤ
『
『アラお前さんだったの? 何だか妙なことを言ってたと思ったよ。まアお入りな、かまわないから。』
『出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、』と行きかける、
『人をばかばかしい、』と娘はまだ何か言いかけると内から
『お菊もう寝るから外をお
『何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、』と
『オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、』と
『星が見えるよ、』と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。
『早くお入りよ、』と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった。娘は軒の外へ首を出して、今度はほんとに空を仰いで見たが、晴れそうにもない。霧のような雨がひやひやと
底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
1983(昭和58)年4月10日第47刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
1901(明治34)年3月発行
初出:「太陽」
1900(明治33)年10月発行
入力:h.saikawa
校正:noriko saito
2004年9月25日作成
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