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郊外(こうがい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 8:56:29  点击:  切换到繁體中文

 


『幸ちゃん帰りましたの?』お梅も欄干にって時田の顔をじっと見ている。
『今帰ったよ、』と大あくびをして『梅ちゃんどうして浪花節聴かないの、僕一つ聴いて来ようか。』
『およしなさいよつまらない! あたし聴いてたけど頭が痛くなって逃げ出したの。』
 二人はしばし黙っていた。水車へ水を取るので橋から少し下流に井堰いせきがある、そのため水がよどんで細長い池のようになっている、その岸は雑木ぞうきが茂って水の上に差し出ているのが暗い影を映しまた月の光が落ちているところは鏡のよう。たぶん羽虫はむしが飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに
『幸ちゃんの話は何でした。』
『神田の叔父の方へしばらくっていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』
『先生何と言ってやりました。』お梅は時田の顔を見て言ったがその声は少し震えていた、しかし時田はそんなことには気がつかないかして、すこぶる平気で、
『なるべくはうちにいた方がよかろう、そうしないとなおの事継母おふくろとの間がむずかしくなるからッて、留めてやった、かあいそうに泣いていたよ。』
『泣いて? まアかあいそうに。』お梅は涙ぐんで黙ってしまった。それも時田には気が付かない、
『なんでも詳しい事は聞かなんだが、今度の継母おふくろに娘があってそれが海軍少将とかに奉公している、そいつを幸ちゃんの嫁にしたいと思っているらしい、幸ちゃんはそれがいやでたまらない、それを継母おふくろが感づいてつらく当たるらしい、だから幸ちゃんの身になって見るとたまらないサ。』
『そうなのよ、わたしもその事はちょっと聞いてよ、そうなのよ、だってあんまりそれは無理だわ……』まだ何か言いそうな時、突然橋の上に通り掛かった男、お梅の顔をのぞき込んで
『オヤ梅ちゃん、今晩は、』と意味ありげに声を掛けて行き過ぎた。橋を渡ったと思うとちょっと振り向いて、
『忘れていた、幸ちゃんによろしく。』
『知らないわ、お菊さんが待ってるよ。』
『ハハハハありがとう。』いううち姿が見えなくなった。
『お菊さんて踏切の八百屋やおやの娘だろうか。』時田はたずねた。お梅はうなずいたぎり黙っていた。

       ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)

 この日は近ごろ珍しいいい天気であったが、次の日は梅雨つゆ前のこととて、朝から空模様怪しく、午後はじめじめ降りだした。普通の人ならせっかくの日曜をめちゃめちゃにしてしまったと不平を並べるところだが、時田先生、全く無頓着むとんじゃくである。机の前に端座して生徒の清書を点検したり、作文をたり、出席簿を調べたり、くたぶれた時はごろりとそこに寝ころんで天井をながめたりしている。
 午後二時、この降るのにたずねて来て、中二階の三段目から『時田!』と首を出したのは江藤えとうという画家えかきである、時田よりは四つ五つ年下の、これもどこか変物へんぶつらしい顔つき、語調ものいい体度みのこなしとが時田よりも快活らしいばかり、共に青山御家人あおやまごけにん息子むすこで小供の時から親の代からの朋輩ほうばい同士である。
 時田は朱筆しゅふでを投げやって仰向けになりながら、
『君せんだって頼んで置いたのはできたかね。』
 江藤は火鉢ひばちのそばにすわって勝手に茶を飲み、とぼけた顔をして、
『なんだッたかしら。』
『そら手本サ。』
『すっかり忘れていた、失敬失敬、それよりか君に見せたい物があるのだ、』と風呂敷ふろしきに包んでその下をまた新聞紙で包んである、画板がはんを取り出して、時田に渡した。時田は黙って見ていたが、
『どこか見たような所だね、うまくできている。』
『そら、あの森のところサ御料地の、あそこから向こうの畑と林とを見たところサ。』
『なるほどそうだ、』といいながら時田は壁に下げてある小さな水彩画と見比べている。
『無論この方がまずいサ。ところがこの絵にはおもしろい話があるからそれで持って来たがこれからまたこれを持って行くところがあるのだ。』
 時田は起ち上がって火鉢のそばへ来て、『ふうン』とはなはだ気のない返事をして聞いている、これはこの人の癖だから対手あいてはなんとも感じない。
昨日きのうはあのいい天気だからいつものように出かけて例の森、僕はまだあそこはいたことがないからどうせろくなものはできまいが、一ツ試みて見ようと、いつもの細いみちを例のごとく空想にふけりながら歩いた。実は――もう白状してもいいから言うが――実は僕近ごろ自分で自分を疑い初めて、果たしておれに美術家たるの天才があるのだろうか、果たしておれは一個の画家として成功するだろうかなんてしきりと自脈を取っていたのサ。断然この希望をなげうってしまうかとも思ったがその時思い当たッたのは君の事だ。君がこうやッて村立尋常小学校の校長それも最初はただの教員から初めて十何年という長い間、汲々乎きゅうきゅうことして勤めお互いの朋輩ほうばいにはもう大尉たいいになッたやつもいれば法学士で判事になった奴もいるのを知らん顔でうらやましいとも思わず平気で自分の職分を守っている。もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所以ゆえんだと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入ったことはみんな君のところへ相談に来て君の判断を仰ぐ。僕は今の教育家にこういう例はあまりなかろうと思う。そこで僕は思った、僕に天才があろうがなかろうが、成功しようがしなかろうがそんな事は今顧みるに当たらない何でもこのままで一心不乱にやればいいんだ、というふうに考えて来ると気がせいせいして来た。
 昨日きのうもちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看版かんばんかきになろうが稲荷いなり八幡様はちまんさまの奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。
 どこを画こうかとえらんで見たが、森その物は無論画いたところでとしてはかえっておもしろくないから、何でも森をはすに取って西北の地平線から西へかけて低いところにもしゃもしゃとえてる楢林ならばやしあたりまでを写して見ることに決めた。
 道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心持こころもちになった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身体からだを横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕はなんもかも忘れてしばらくながめていた。
 でき上がったのがこれだ。われながらお話にはならないまずサ加減、しかし僕は幾度でもこれをく、まず僕の力でこれならと思うやつができるまでは何度でも写しにくると決心してかかったのだ。ところでこのまずいやつをここまでき上げるのに妙なことがあったのサ。
 しきりと画いていると、実景があまりよくッて僕の手がいかにもまずいので、画いていながらまたもや変な気になって何というまずサだろう、これが画といわりょうかおれはとてもだめなのかしらん、と思うと画くのがいやになってもうよそうかもうよそうかと思いながらやっていた。すると後ろの森の方でガサゴソと妙な音がした。この時サ、僕は振り向いて見ようとしたが、待て! こんな事では到底だめだ、たといまずかろうがまずいからこそ勉強してくのだ、奉納絵を画いてもいいという決心はどうした、一心不乱とはここの事だ、たとい耳のそばでおおかみがほえようが心を取り乱し気を散じないくらいでなければならないのが、森の奥でちょっと音がしたって、すぐそれに気を取られるようでどうするかと、今度はまずくても何でもずんずん画いていると、ゴソッ、ガサッという音がだんだん近づいて来るようで気になってならない、その音がまたすこぶる妙なので、ちょうど僕が一心にいているのをつけこんで後ろから何者か、忍び足に僕をねらうように思われる。さアそう思うと振り向いて見たくッてたまらない。しかし一たん見まいと決心したからには意地いじが出て振り向くのがはずかしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たりるやいなやの分かれ目のような気がして来た。
 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳にはいるようでそれが気になるようでそのために気をもむようではだめなんだ。もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつくようにしてきはじめた。しかし何のやくにも立たない、僕の心は七がた後ろの音に奪われているのだから。
 そこでまたこうも思った、何もそう固まるには及ばない、気になるならなるで、ちょっと見てからすきつねか盗賊か鬼かじゃかもしくは一つ目小僧か大入道おおにゅうどうかそれを確かめて、安心して画いたがよサそうなものだ、よろしいそうだと振り向こうとしたが、残念でたまらない、もしここでおれが後ろへ振り向くならもう今日きょうかぎり画家はやめるのだゾ、よしか、それでよければ向け、もしこの森にいるとかうわさのある狂犬であっておれの後ろからいきなり頸筋くびすじへ食らいつくなら着いてもいいではないか。それで死んでもかまわない、こうなればもう意地だ! この意地が通されないくらいなら美術家たるはおろか、何一ツしでかすものかと、今度はけんか腰になッて、人を後ろへ向かそうッて、たれが向くか、ざまを見ろと今から思えばおかしいがほんとにそう独語ひとりごとを言いながら画き続けた。
 音が近づくにつけて大きくなる、下草や小藪こやぶを踏み分ける音がもうすぐ後ろで聞こえる、僕の身体からだ冷水ひやみずを浴びたようになって、すくんで来る、それでわきの下からは汗がだらだら流れる、何のことはない一種の拷問サ。
 僕はただ夢中になって画いていたが目と手は器械的に動くのみで全身の注意は後ろに集まっていた。すると何者かが確かに僕の背なかにくっつくようにして足を止めた。そして耳のそばで呼吸の気合けはいがする。天下何人なんびとか縮み上がらざらんやだ。君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと――失敬失敬――僕はもう呼吸がふさがりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、旦那だんなはうめえなアと耳元で大声に叫んだやつがある。
 びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺おやじが腰をかがめて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。きゃつ一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生じゃアないまだ生徒なんだというとすこぶる感心したような顔つきで絵を見ていた。』
 ここまで話して来て江藤は急に口をつぐんで、対手あいての顔をじっと見ていたが、思い出したように、
『そうだッけ、あの老爺おやじさんを写生するとよかッた、』と言ってひざった。この近在の百姓が御料地の森へはいって、枯れ枝を集めるのは、それは多分禁制であろうが、彼らは大びらでやっているのである。その事は無論時田も江藤も知っていたので、江藤もよく考えたら森の奥のガサガサする音は必ずそれと気の付くはずなんだ。
『それはそうとして君、それから僕は内心すこぶるはずかしく思ったから、今度は大いに熱心になってきだしたが、ほぼできたから巻煙草まきたばこを出して吸い初めたら、それまで老爺おやじさん黙って見ていたが、何と思ったか、まじめな顔で、その絵をくれないかと言いだした。その言い草がおもしろいじゃアないか、こういうんだ、今度代々木よよぎ八幡宮はちまんぐうが改築になったからそれへ奉納したいというんだ。それから老爺おやじしきりと八幡の新築の立派なことなんかしゃべっているから、僕はきながら考えた、この画はともかくもわがためには紀念すべきものである、そして、この老爺おやじもわがためには紀念すべき人である、だからこの画をこの老爺おやじにくれてやって八幡に奉納さすれば、われにもしこの後また退転の念が生じたとき、その八幡に行ってこの画を見て今日のことを思い出せば、なるほどそうだとまた猛進の精神を喚起さすだろう。そうだとこう考えて老爺おやじにくれてやることにした。老爺大変よろこんですぐ持って帰るというから、それは困る明日あすまで待ってくれろ今日は自宅うちへ持って帰って少しは手を入れたいからと言うと、そんならちょっとわしがうちへ寄ってくれろじきそこだからッて、僕が行くとも言わないに先に立ってずんずんゆくから、僕もおもしろ半分についていったサ。思ったより大きなうちで庭に麦が積んであって、ばあさんと若夫婦らしいのとがしきりにいでいたが、それからみんな集まって絵を見るやら茶を出すやら大騒ぎを初めた。それで僕は明日あす自分で持って来てやると約束して来たんだ。今日は降るから閉口したが待っていると気の毒だから、これから行って来ようと思う。』
 時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、
『その百姓家に娘はいなかったか、』と真顔で問うた。
『アアいたいた八歳やつばかしの。』何心なく江藤は答える。
『そいつは惜しかった十六、七で別品べっぴんでモデルになりそうだと来ると小説だッたッけ、』と言って『ウフフフ』と笑った。この先生に不似合いなことを時々言ってそうして自分でこんなふうな笑いかたをするのがこの人の癖の一つである。
『そううまくはかないサ、ハハハハ、イヤそんなら行って来ようか、ご苦労な話だ、』と江藤が立ち上がろうとする時、生垣いけがきの外で、
昨夜ゆうべまたやったよ、聞いたかねもう。今度は三十ばかしの野郎よ、野郎じゃアねッからお話になんねエ、十七、八の新造しんぞなきゃア、そうよそろそろ暑くなるから逆上のぼせるかもしんねエ。』と大きな声で言うのは『踏切の八百屋やおや』である。
『そうよふところが寒くなると血がみんな頭へ上って、それで気がちがうんだろうよ』と言ったのは長屋の者らしい。
『うまいことをいってらア』と江藤はつぶやいた。
『おいらは毎晩逆上のぼせる薬を四合びんへ一本ずつ升屋ますやから買って飲むが一向鉄道往生おうじょうをやらかす気にならねエハハハハ』
『薬が足りないのだろうよ、今夜あたりお神さんにそう言って二合もやしておもらいな。』
『違えねえ、ふところが寒くならアヒヒヒヒ』と妙な声で笑った。

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